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はじめに
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―第6章―
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―第7章―
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―第8章―
被告人の権利
―第9章―
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―第11章―
法の平等な保護
―第12章―
投票権
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English Version

われらは次に述べる事柄は自明の真理と信じる。すなわち、人はすべて平等に創られている。創造主によって、人は、生存、自由、そして幸福の追求という他者から侵されることがない権利を与えられている。これらの権利を確保するため、政府は人々の間に樹立されるのであり、その正当な権力は、被統治者の同意に基づく

―合衆国独立宣言

Bill of Rights
上: トマス・ジェファソンとジョン・アダムズは、合衆国独立宣言を起草した中心的な人物である。
下:ジェームズ・マディソンは、“合衆国憲法の父”と一般に見なされている。

独立宣言のこの文言は、米国民にとって常に特別な意味を持ち続けてきた。米国の自由の憲章のひとつとして、7月4日の独立記念日に無数の集会で朗読され、何世代にもわたり学童に暗唱され、あらゆる政党の政治家によって引用され、裁判所の判決の中で頻繁に言及された。ここに込められたメッセージは、国民の権利保護が、文民政府樹立の前提条件であり、政権が正当化される根拠になるというものである。メッセージは200年前と同じように、今日も力強く国民の心に訴えかけている。国民は、独裁者が支配する社会のように、政府に仕えるために存在するのではない。むしろ政府の方が、国民と国民の権利を守るために存在している。この考え方は1776年に提起されたとき、革命的な概念だった。それは今日も変わることはない。

ジョン・アクトン卿
「自由の歴史」その他の小論文(1907年)
「自由とは、より高い政治的な目的を達成するための手段ではない。それ自体が至高の政治目的である。」

この小論で筆者は、これらの諸権利のうち、より重要なものは何か、それらの権利は、いかにして一体的に結びついているのか、またその定義は、必要に応じて、どのように変化するのかについて、説明することを試みた。われわれが生きているのは、18世紀ではなく21世紀の世界である。合衆国憲法の制定者たちの精神は憲法が擁護している権利について、いまもわれわれの理解を助けてくれるが、米国民はその世代ごとに、自らの力でその精神を再発見し、解釈し直し、その恩恵を享受できるようにすべきである。

1787年、フィラデルフィアでの憲法起草会議が終了した直後、ジェームズ・マディソンは、新しい合衆国憲法の写しを友人であり助言者でもある、トマス・ジェファソンに送った。ジェファソンは当時駐仏大使だった。ジェファソンは、全体としてはよくできているが、ひとつ重大な欠点がある、と指摘した。それは、権利章典が欠如していたことだった。ジェファソンはそのような諸権利の明記は、「この地球上のどのような政府に対しても、国民が持つ権利」だと説明した。ジェファソンのこの言葉は、憲法を起草した人々の一部を驚かせた。彼らは、憲法の条文全体が新政府の権力を厳しく制限している以上、そこには権利章典は含まれている、と考えていた。例えば、議会は教会を設立しないということをわざわざ保障しなくても、議会にはもともとそのような権限が付与されていないのだから不要だと彼らは考えた。しかし、独立宣言の中心的起草者であるジェファソンは、そうは考えなかった。行使すべき権限も権威も持たない、と見なされる領域に政府が踏み込み、その結果、個人の権利が制約されたり、失われたりすることが、過去、あまりにも多かったからである。ジェファソンは、政府による自制という考えをあてにせず、国民の権利を明記し、政府がそれに指一本触れさせないようにすべきだと呼びかけた。このジェファソンの意見に多くの人々が賛同した。いくつかの州が、権利章典を付け加えることを新憲法承認の前提条件に決めた。

議会が初めて召集されたとき、マディソンは、率先してそのような章典の起草に当たった。1791年までに、各州議会は、一般に「権利章典」と呼ばれる合衆国憲法への修正条項10カ条を批准した。しかし、これらの修正条項で列挙されたものだけが権利ではなく、それ以降、数多くの修正条項が、憲法で守られる国民の権利の拡大に大きく貢献した。

これから小論で紹介するように、憲法修正条項の中にうたわれた権利の多くは、英国人の経験と、英国の植民地時代の米国人の経験の、両者から発展してきたものである。それら権利のすべては、個人の自由と民主主義は切り離せない関係にある、という憲法制定世代の人々の理解を反映している。例えば、言論の自由をうたった修正第1条は、自由な政府の礎石として普遍的に広く認められている。ベンジャミン・カードーゾ合衆国連邦最高裁判所判事は1938年、「これはまさに、そのほかのほぼすべての形態の自由の基盤であり、必要不可欠の前提条件である」と言っている。犯罪で告発された被告人には、適正な法手続きという考え方によってまとめられた、さまざまな権利が付与されている。これは国家の方が、国民を訴追する力で勝っているという理由だけではなく、国民を裁く政府の権限が独裁者の手に渡れば、専制政治を行う武器にもなりかねない、という認識によるものである。今日もなお、独裁政権の下では、政敵を迫害し弾圧するための、令状なしの捜索や逮捕、裁判・保釈なしの長期勾留、拷問、いかさま裁判などが、日常的に行われている。刑事裁判における政府の対応ぶりは、政府の民主化の度合いや、法の支配の徹底ぶりを測る上で、わかりやすい指標にもなる。

長い年月の間にいくつかの権利の定義が変わり、プライバシーなどの新しい概念が憲法の用語集に加わった。しかし、どのように定義されようとも、人間としての権利は、米国人であることの核心にあることに変わりはない。このように、米国は極めてユニークで、その権利の伝統は、米国人のこれまでの経験を反映している。ほかの国々は、それぞれの国のアイデンティティ、すなわちその国の国民であることの意味を、主として民族性や起源、祖先、宗教、ないしは歴史など共有するものを通じて定義する。しかし、そのいずれについても米国人の間に共通するものはほとんどない。米国は、世界史上最も多様性に富む国家だからである。米国市民は、地球上のあらゆる大陸、あらゆる国々から来た人たちである。米国民が祈りを捧げる場所は、ひとつの教会ではなく、キリスト教会、ユダヤ教寺院、モスク、ヒンズー教僧院や、その他何千という礼拝所である。米国の歴史は、単に米国自体の歴史にとどまらず、何百万人もの移民が持ち込んできたそれぞれの国の歴史でもある。米国人の中には、1620年のメイフラワー号による航海の時代まで祖先をたどれる人もいれば、曾々祖父が南北戦争で戦ったという人もいる。その一方で、20世紀の欧州とアジアの戦争で家族全員を失い、着の身着のままで米国にたどりついた人もいる。

こうした多様なグループの人々を米国民として束ねている共通の信念が、個人の自由は、自由な政府を特徴づける最も重要な要件だという共通の信念である。エイブラハム・リンカーンは、南北戦争の流血の渦中にあった米国を、「地上の最後の、最良の希望の光」と形容した。しかしリンカーンは、米国という国やその国民が、ほかの国民より道徳的に優れているという意味で言ったのではなかった。むしろ、そこには民主主義それ自体を根づかせ、発展させるためには、国民の権利に基盤を置き、それを擁護する自由な政府の理想を堅持して行く必要性がある、という意味が込められていた。

この小論で、もうひとつ明らかになることがある。それは、米国民の間では、これらの権利の重要性については、おおむね合意が得られているものの、それぞれの権利が実際に意味するものについては、意見が分かれているということである。例えば、言論の自由は、星条旗を燃やすことや、インターネット上に猥褻な素材を掲載することも許すのだろうか。教会設立の禁止は、宗教への政府支援を全面的に禁ずるものなのか、それとも単に、宗教を平等な形で支援しなければならない、という意味なのか。死刑は、残虐で異常な刑罰の禁止という範疇に入るのだろうか。

米国人にとって、このような疑問は、公的な政治論議に値する。この種の議論は、国民がそうした権利を軽んじていることを示すものではない。それどころか、米国のように多様な社会では、権利についての解釈もまた多様になって当然なのである。個々の権利が何を意味するかだけでなく、なぜそれについて議論が続いているかを理解する方法は、少なくとも米国で発展してきた自由の概念には、多面性があることを認識することである。

第1に、あらゆる自由社会には、自由と責任の間には常に避け難い緊張関係が存在する。あらゆる権利には相応の責任が伴う。義務は、時には権利を行使する人に対して課される。あなたが腕を振る権利は、私のあごに当たる寸前まで、ということわざもある。ひとりの人が権利を行使する場合、ほかの人はそれに干渉しないよう自制が求められることがある。例えば、ある人が、過激な思想を主張し、それが聴衆の気に入らないものであっても、警察は、その人の自由な言論の権利に介入することを控える。自宅で安全に過ごす権利とは、適切な令状を確保しない限り、警察はその住居に入ることを控えなければならないことを意味する。

エドマンド・バーク
「自由な政府を樹立する難しさについて」
(1790年)
「ひとつの政府を樹立するのに、格別な思慮深さは必要としない。権力の座をしつらえて誰かを座らせ、人々に服従することを教えれば、それで済む。自由を与えることは、さらに容易である。人々を導く必要はない。手綱を放せばそれで済む。しかし、自由な政府を作るということは、首尾一貫した作業の中で自由と抑制という相反する要素を練り合わせることであり、それには熟慮と深い考察と、賢明で強力な、物事をまとめ上げる精神―が要求される」

この自由と義務の緊張関係は、多くの場合、健全なものと見る必要がある。なぜなら、その緊張関係が作り出す均衡が、無政府主義にまで自由が堕落するのを食い止め、抑制が専制政治へとエスカレートするのを防いでいるからである。民主主義の下では、国民は、ほかの人の権利を尊重しなければならない。それは単なる礼儀によるものではなく、ひとりの人間の権利が縮小されれば、残りの全員の権利喪失につながりかねないという基本的な認識によるものである。

権利を行使する際の第2の問題は、権利がどのようなことを伴うかについて、しばしばきちんとした定義がないことである。かつてジョン・マーシャル合衆国連邦最高裁判所長官は、憲法は、「列挙はするが、定義はしない」文書だ、と述べた。その意味は、憲法の下で、連邦議会には一定の権限が与えられているが、そうした権限は列挙されているだけで、定義はなされていないということである。例えば、連邦議会には州際通商を管理する権限があるが、2世紀以上にわたって、「州際」が厳密に何を意味するかという議論が続いている。

定義がなくても混乱が起きていない理由のひとつは、憲法それ自体に、憲法の文言を解釈する仕組みを与えているからである。国の最高司法機関である合衆国連邦最高裁判所が、ある特定の権利に関して下した判断に、たとえ国民が同意できない場合でも、法の支配に忠実であるためには、その解釈に従う必要がある。合衆国連邦最高裁判所判事の顔ぶれは時代と共に変わる。男女を問わず合衆国連邦最高裁判所判事となる者は、権利の概念の進化を理解し、その進化を反映させる。それゆえ合衆国連邦最高裁は多年にわたり、憲法上の権利が時代の要請に応えられるよう、憲法を維持するための主要な機関として機能してきたのである。

第3の問題は、権利の及ぶ幅についてである。米国史を書くとすれば、米国における権利がどのように進展し、より多くの人々へと拡大していったかを容易に論じることができよう。例えば、投票権はかつては21歳以上の白人男性の財産保有者に限定されていた。それが、今では18歳以上のほとんどすべての国民に拡大された。性別や皮膚の色を問わず、地主にも地主でない人にも、拡大された。

比較的、単純明快に見える信仰の自由を保障する条項でも、その及ぶ範囲が問題になる。明らかに信仰の自由は、主要な宗教を信奉する以上の意味を含んでいる。すなわち、反教会派や無神論者でさえ、干渉されないことを保障している。しかし、動物を生け贄に捧げたり、一夫多妻を許容したりするなど、国の価値観と相容れない教義を持つ宗派は、どこまで保護するべきなのだろうか。合衆国連邦最高裁判所は、200年以上にわたって、このような問題と取り組んできた。ケネディ判事は、星条旗が燃やされた事件の審理で、次のような意見を出したが、これに見られるように、合衆国連邦最高裁判所が、特定の権利の解釈をどこまで拡大すべきかという困難な問題に、今なお直面しているのである。

アンソニー・ケネディ判事
「テキサス州対ジョンソン事件」での同意意見(1989年)
「われわれ判事も、時には望まない判決を下さなければならない。これは、厳然たる事実である。そうした決定を下すのは、それが正しいからである。正しいという意味は、法と憲法に鑑みて、それ以外の結論はありえない、ということである。そしてわれわれは、法の手続きに非常に大きな責任を有しており、まれな事案は例外として、審理の結果について、わざわざ不快感を表明することはしないが、それは多分、その判断を余儀なくさせた尊重すべき原則の根拠が揺らぐことを恐れてのことである。今回は、そのまれな事案のひとつである。」

米国史の流れの中で、国民の権利擁護という観点からいえば、疎漏があったことは、否定できない。モルモン教徒は東部の諸州から閉め出され、一夫多妻制をやめるまで、西部でも迫害を受けた。南北戦争により解放されたはずの黒人奴隷たちは、それから間もなく、「ジム・クロウ法」という名前で知られる、法的強制力を持つ南部の大がかりな人種差別の構造の中に閉じ込められた。過激思想を恐れるあまり、赤狩りが起こり、第1次、第2次世界大戦の後、憲法修正第1条でうたわれた権利が、著しく狭められた。日系米国人は、第2次世界大戦中、一斉検挙され、強制収容所へ送られた。

こうした一連の出来事が、そもそも権利を特徴としている国で起こるのは奇妙だと思われるかもしれないが、これらの誤りは、権利章典をきれいさっぱり破棄したいと考えた集団が犯したわけでない。むしろ、彼らは善意の普通の人々であり、自分たちにとってより遠大な目標や、もしくは米国の生死にかかわると考えた大きな脅威に立ち向かうためには、権利章典で制約を受けるのは不都合だと考えたのである。

もうひとつの重要な問題は、憲法で具体的に明記されていない権利の評価にかかわるものである。憲法修正10カ条や、ほかの条項に明記された権利は明らかに重要であり、憲法上の保護が適用されることには、誰もが同意する。しかし、個別に列挙されてはいない権利は、どうなのだろうか。そのような権利はそもそも存在するのだろうか。その解答は、憲法をどのように解釈するかによる。また、その解釈は、米国人が自分たちの権利をどれだけ真剣に受け止めているかという尺度にもなっている。したがって、憲法の意味と解釈は、昔も今も、国民的な論議の大きな争点となっている。

またその一方には、憲法の意味はその字句通りであり、それ以上ではないという学派がある。列挙されている権利は擁護するべきだが、憲法を修正することなしに、新しい権利を創出してはならない、という立場である。1960年代、プライバシーの権利という問題が持ち上がったとき、憲法の厳格な解釈で知られる、ヒューゴ・L・ブラック合衆国連邦最高裁判所判事は次のように述べた。「私には、自分のプライバシーも隣人のプライバシーも大切だが、にもかかわらず、何らかの明白な憲法条項で禁じられていない限り、政府がそれを侵害する権利を持つことを認めざるを得ない」 だがそうなると、憲法で列挙していない権利も国民に保障する、という修正第9条との関係はどうなるのだろうか。学者や判事の中には、修正第9条は、1791年に批准された時点で、国民が有していた権利だけを指しており、従ってそのような権利が、当時、存在したことを示す明確な証拠がない限り、必要とされる憲法修正手続きなしに、その権利を憲法に持ち込むことはできない、と考える人もいる。

こうした見解と対立するのが、しばしば「生きている憲法」と呼ばれる理論の信奉者である。憲法は、その国の政治的、社会的、経済的情勢の進展につれて変化し適合しなければならないという考え方である。憲法解釈は、やはり文書に書かれた言葉から出発するが、文言の意味そのものよりも、その言葉に命を吹き込む精神に重きを置く。例えば、1920年代、合衆国連邦最高裁判所が盗聴に関する事件を初めて審理した時、判事の過半数は実際の盗聴は当局が建物の外で行ったので、修正第4条にある「捜索」という言葉が意味する行為は行われなかったと解釈し、捜索令状は不要と判断した。しかし、最終的に合衆国連邦最高裁判所は、実際に屋内に侵入しなくても、新しい技術によって個人の家のプライバシーを侵害することが可能になったことを認めた。そして、それまでの合衆国連邦最高裁判所解釈を撤回し、盗聴は「捜索」にあたり、捜索令状が必要である、と裁定した。ウィリアム・O・ダグラス判事は、「憲法の起草者は、電話さえ知らなかったのだから、盗聴という行為など想像もできなかっただろう」という有名な言葉を残している。「生きている憲法」の考え方に立つ人々は、時代の流れをふまえて、盗聴が、実は捜索であることに気付き、憲法起草者の意図をくみ、個人の住宅のプライバシー保護にまで踏み込んだのである。同じ論理により、1960年代、合衆国連邦最高裁判所の過半数の判事たちは、プライバシーが憲法制定世代の人々が擁護しようとした権利のひとつであることに同意した。

ロバート・H・ジャクソン判事
「ウェストバージニア教育委員会対
バーネット事件」(1943年)
「まさに権利章典の目的は、浮き沈みの激しい政治的な論争から特定のテーマを引き離し、それらを多数派や役人の手が及ばないところに置き、裁判所が適用する法的原則として確立させることにあった。人間の生命、自由、財産の権利、言論の自由や、報道の自由、信仰と集会の自由、そのほかの基本的な人権は、投票の対象にすることはできない。これらの権利は、どのような選挙の結果にも左右されない」

ジェファソンと同様に、憲法起草者の多くは、連邦政府の権力を恐れ、それを制限するために、権利章典を要求した。彼らは、権利章典という概念には長い歴史があり、1215年の英国のマグナカルタにまで遡ることを承知していた。英国は1689年、権利章典を発布した。米国では、1701年、植民地ペンシルベニアが自由の憲章を採択した。独立が宣言されてまもなく、バージニアがジョージ・メイソンが執筆した権利の宣言を採択した。連邦政府の修正案を起草するとき、ジェファソンもマディソンもこの権利宣言を念頭に置いていた。しかし、その頃には重要な変化が起こっていた。そしてマディソンなどの人々が、権利章典は、政府権力の抑制よりも、むしろ国民の抑制のために重要だ、と感じていたのは皮肉なことである。

英国とその植民地における権利の宣言の原典は、政権を支配する少数のエリートから、国民を守ることを目指す内容だった。しかしながら、米国では18世紀には植民地政府の民主化が進み、こうした展開が、ある意味で独立への引き金となり、1780年代に民主化はその勢いを増した。政治権力は、いまや多数派の手に渡っていて、統治者が権力を行使するのは生まれや富だけによるのではなく、過半数の人々の合意を得たからだった。そこで、権利章典の焦点は、多数派から少数派をいかに守るかに移ったのである。

ジェームズ・マディソン
トマス・ジェファソンへの手紙(1788年)
「政府の実権がどこにあろうとも、抑圧の危険は常に存在する。われわれの政府では、実権は地域社会の多数派の手中にあるからである。個人の権利の侵害が主として懸念されるのは、政府が良識ある有権者の意に反して行う行為によるのではなく、大多数の有権者の単なる道具としての政府の行為によるものである」

これは、民主主義は多数派による支配である、としばしば定義されることから見て、奇妙だと思う人もいるかもしれない。しかし、「多数派」とは複雑な言葉である。ある問題では意見を同じくする人々が、別の問題では真っ向から対立することがある。民主的な統治とは、多数派の人々が絶えず入れ替わりながら重ねる妥協のことである。最終的には、たいていの人々がたどり着いたたいていの結論に、たいていの場合、満足するように、ことを進めるのである。しかし問題によっては、だれでも自分が少数派に回る可能性があるので、ただ単に自分の利益を守るために、少数派にも特別な庇護が必要なのだ、と言いつのったりする。不人気の発言者に対して、黙れと言う人は、いつの日か、自分自身が逆に、人から歓迎されない立場を支持する発言者になるかもしれない。多数派に対して、反対意見を述べる自由を確保するためには、自分と異なる立場を主張するすべての人々をも守ることを、許容しなければならない。同様に、自由に宗教活動を行う1人の権利を維持するためには、宗教観が異なる人々の自由も認めなければならない。

以下の小論では、合衆国連邦最高裁判所の判断に、数多く言及しているが、わざわざそうしたのは、合衆国連邦裁判所は個人の自由の拡大と擁護の上で、比類のない役割を果たしてきたからである。この民主主義の社会で、不品行がない限り解任されず、民意に問われることもない終身在職権を得た9人の人たちの手に、国民の権利についての判断が委ねられていることは、ある意味で皮肉と言えるだろう。とはいえ、憲法と権利章典は、それを守らせる法の執行者が必要であるし、この状況下では、これは言論の自由にあたるのだとか、あるいは、これは許容できない警察の行為である、などと判断する人も必要である。チャールズ・エバンス・ヒューズ合衆国連邦裁判所長官はかつて、「憲法とは、合衆国連邦裁判所がそうだ、と言ったら、そうなのだ」と述べた。国民の権利の大部分は、裁判所によって、定義されてきたことは間違いのないところである。

しかしながら裁判所は、法を執行する機関以上の存在である。個々の権利の意味について、人々の見解はさまざまに異なっていても、公平な法廷がひとたび、判決を下せば、進んでそれを受け入れる。合衆国連邦裁判所が常に正しかった訳ではない。過去2世紀にわたり、合衆国連邦裁判所判事を務めた人々は、自分たちを完全無欠だとは見なしてこなかった。長年の試練に耐えた判決もあれば、新しい展開の前に無効になった判決もある。何よりも合衆国連邦最高裁判所は、われわれの権利の理想像を確立してきた。市民生活の中で、市民の権利が行使されるべき場所を定義してきた。また時には、「ホイットニー対カリフォルニア事件」(1927年)の審理でブランダイス判事が言論の自由について説明したように、判決の雄弁さが、われわれの伝統の一部となってきた。

しかし、合衆国連邦最高裁判所判事たち自身が認めているように、民主主義も国民の権利も、国民自身がそうした基本原則を守ろうという信念を持たなければ、存続することはできない。これらの権利は、自由社会の実現を可能にするだけでなく、米国民そのものを定義するものでもある。これは、おろそかにできることではない。






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