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―第1章―
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連邦議会は国教を樹立したり、あるいは、宗教上の 自由な行為を禁じたりする法律を制定してはならない・・・
宗教の自由は、米国民が享受している自由の中で最も重んじられている自由のひとつである。これは米国を世俗的な社会だと考えている人にとっては、腑に落ちないことかもしれない。しかし「世俗的な社会」という言い方は誤解を招く言葉である。それは宗教や宗教上の理想を持たず、世俗的価値により日常の行動が律せられている社会という意味を含むからである。米国民の日常生活の中で宗教は不在ではない。それどころか憲法は、個人や個々の宗教団体が、政府による束縛もなく他の宗派から圧力を受けることもない、完全な信仰の自由を享受できる制度を作り上げた。宗教的な多様性と個々の信教の自由の組み合わせは複雑な問題であり、この理想への道は必ずしも平坦ではなかったし、今日においても紛争がないわけではない。しかし民主主義は完成品ではなく、絶えず変化する過程そのものである。そして、あらゆる形態の自由もまた、今も発展を続けている。
宗教的自由という概念は、人類史上、比較的最近になってできたものである。これまでにも、国が是認し強制する国教からの、ある程度の逸脱を容認する社会もあった。しかし、こうした寛容さは、多数派や統治者の気まぐれによるもので、いとも簡単に容認されたり撤回されたりする可能性があった。宗教の自由のためには、何よりも国民の宗教生活を政治機関から切り離すことが求められる。これが政教分離と呼ばれる概念だが、これもまた、比較的新しい時代の産物である。米国が英国に反旗を翻し、憲法と権利章典を採択したことから生じた大きな社会革命のひとつは、教会と国家の正式な分離だった。この分離は、まず旧植民地の各州で始まり、後に連邦政府によって実施された。この政教分離という概念と、それに伴う宗教活動の完全な自由という考えを合衆国憲法に盛り込むことにより、憲法を制定した人々は、それまでは、せいぜい一時的な特権でしかなかったものを、守られるべき権利に変質させた。だからと言って、今日我々が享受する信教の自由が、1791年に完全な形で存在していたわけではないが、その概念の種は蒔かれてはいたのである。この初期段階の概念の種子が大輪の花を咲かせるのは、20世紀に入ってからのことである。
米国の植民地時代の初期の開拓者たちは、西ヨーロッパから移住してきた。その西欧の歴史では、4世紀から宗教改革の時期に至るまで、「確立した」宗教、すなわち国教であるカトリック教会の下で、宗教的には一色だったのが特徴である。宗教改革によって、何らかの寛容さがもたらされたのではないかという見方をする向きもあったかもしれない。現に、マルチン・ルターやジョン・カルヴァンが書いたものの中に、寛容と良心の自由を訴える文章を見ることができる。しかしプロテスタントは、権力を掌握した地域で素早く自分たちの教会を作り上げた。これは別に意外なことではない。なぜなら、ルターは真の信仰はただひとつだけだとか、その他の宗教は根絶やしにすべきだとか、あるいは、どの国でも教会はひとつしか存在し得ないという考え方を否定したことがなかったからである。確かに宗教改革は、欧州の宗教的な一枚岩にくさびを打ちこんだ。いくつかの国々では、宗教の違いが痛ましい内戦に発展し、それはしばしば何十年も続いた。ジェームズ・マディソンは、この歴史を想起しながら、「世俗的な力によって宗教上の意見の違いを排除し、宗教的不和の火を消そうとする試みは空回りし、世界中で洪水のように血が流された」と述べている。対立する宗派が互いのバランスをうまく取り合い、17世紀までに善良な市民たちが共生政策を導入したのは、小国オランダだけだった。それによりカトリック教徒とプロテスタントだけでなく、ユダヤ教徒もまた、互いに寛容の精神の中で生きることが可能になった。独立戦争世代の米国人は、オランダで起きたことを熟知していたが、彼らの行動は主として英国植民地での経験に基づいていた。
17世紀初頭、北米の植民地化が始まったとき、英国人たちは神を敬う共同体を建設するという理想を新世界に持ち込んだ。重要なことは、新しい移住者たちがみな、こと宗教に関していえば、確立した教会を信じていたことである。従って彼らは入植地を建設すると直ぐに、自分たちの教会を設立した。よく知られる例は、マサチューセッツ湾植民地の揺籃期の様子についての記述で、1643年出版の小冊子『ニューイングランドのファースト・フルーツ』に出てくる。筆者はこう述べている。「神が、我々を無事ニューイングランドに送り届けてくれたあと・・・我々は家を建て、生活に必要なものを整え、神への礼拝に便利な場所をこしらえ、市民による政府を樹立した」
1607年のジェームズタウンの設立から1776年の米国独立戦争までの間に、北米の英国植民地は、ほとんど例外なく教会を樹立した。ニューヨークと南部植民地では、英国教会が母国英国と同じ地位を享受した。一方、ニューイングランドでは、さまざまな形態の会衆派教会が支配的だった。これらの植民地は、カトリック教徒やユダヤ教徒はもとより、反主流派のプロテスタントに対してさえ、執拗に差別を行った。
1656年、マサチューセッツ湾植民地総会は、植民地でのクエーカー教徒の存在を排除した。クエーカー教徒は見つかると、投獄され、鞭を打たれ、追放された。しかしクエーカー教徒は屈しなかった。そこで議会は、翌年、追放された男性クエーカー教徒が戻ってきた場合は、その片方の耳を切ることを命じた。2回戻ってきた男性は、もう一方の耳も切られた。追放された女性が戻ってきた場合は、「激しい」鞭打ちを命じ、3度目に戻ってきた場合には、男女を問わず「熱く焼けた鉄で舌に穴をあける」ことを命じた。それでもクエーカー教徒は舞い戻り続けた。そこで1658年、総会は、絞首刑を言い渡した。これは、追放されたイエズス会士やそのほかのカトリック司祭が戻ってきた場合に科された刑罰と同じだった。1659年から1661年の間に、ボストン・コモンでは、女性1人と男性3人の絞首刑が実際に行われた。
それから時を経て、入植者たちが英国による権利侵害に対する抗議を強めていたが、1774年になって、マサチューセッツのバプテスト派指導者、アイザック・バッカス師が、18人のバプテスト派信者がノーサンプトンで投獄されたと、知事と議会に届け出た。この18人は、町内の会衆派の牧師を支援するための税金の納付を拒んだために、冬の寒い最中に投獄されたのである。その年、ジェームズ・マディソンは、友人にあてた手紙で次のように述べている。「あの非道で悪意に満ちた迫害主義が、一部で横行している。・・・現時点でも隣の郡では、善意の人5、6人以上が、自分たちの信仰心を公表したことを理由に狭い牢獄に入れられている。その信仰の大筋は非常に正統的なものである。・・・そこで強く要請したい。・・・すべての人の良心の自由のために、祈ってほしい」
それでもなお、米国への移住が始まった当初から、主に北部の植民地では、国教を定めることや同じ宗教を遵棒することに反対する圧力は高まっていた。早くも1645年には、プリマス植民地総会(マサチューセッツ)の代議員の大多数が「市民平和を守り、政府に従うすべての人に対して、完全で自由な宗教的寛容を認め、それを保持する」こと、そして「トルコ人であれ、ユダヤ教徒、ローマカトリック教徒、アリウス派、ソッツィーニ派、聖ニコラス派、ファミリストであれ、何であれ、いっさい制約せず、また除外もしない」ことを望んでいた。近隣のロードアイランドではロジャー・ウィリアムズが、ほぼ完全に宗教の自由を認める植民地を建設した。ウィリアムズは、この地域の近代化の先駆けと見なされてきたが、彼の業績はその名に恥じないものだった。ウィリアムズは、良心の自由を重んじたばかりでなく、公認宗教の樹立に反対した。そのような体制は市民社会ばかりでなく、宗教それ自体にとっても有害だと考えていたからである。彼は17世紀の植民地においては稀な意見を述べる人々の1人だった。
公認宗教は、正式には1776年まで存続したものの、実際には、植民地はある程度の信教の自由を容認しなければならなかった。初期の頃の移住者は、比較的似通った生い立ちの人たちだった。だがその後まもなく、新世界の魅力は、英国全土を初め、欧州大陸の北部や西部からも定住者を集めるようになった。多くの人々が米国にやって来たのは、故郷より米国の方が信教の自由が大きいからではなく、経済的な好機を求めていたからだった。移住者の誰もが、ピューリタンの会衆派を信じていたわけでもなく、中部や南部の植民地のように、英国国教会の立場を信奉していたわけでもなかった。バプテスト派、ユダヤ教徒、カトリック教徒、ルター派などさまざまな人々は米国に到着すると、通いもしない教会のために税金を払わされたり、信仰しない宗派の教えに強制的に従うことに対して、新天地でも抗議の声を上げ始めたのである。
独立戦争の初期に、バージニア州は、他の多くの州のように、英国国教会を公認宗教から外した。多くの植民地開拓者は、この教会を憎むべき英国政府による統治と同一視していた。1776年のバージニア憲法は、宗教活動の自由において誰もが平等であることを保障したものの、完璧な政教分離までは宣言してなかった。このため、バージニア州最大の反英国国教会勢力であるバプテスト派にとって失望は大きかった。英国国教会の教えを守り続けたそれ以外のグループ(その後まもなく、米国聖公会と呼ばれるようになるが)は、税金で宗教を支援すべきだと考えていた。ただ税金は、特定の一派に支出されるのではなく、すべての(プロテスタント)教会を支援するために支出されるべきだと、彼らは考えていた。
完全な宗教の自由の確立を目指すバージニアでの戦いは、ここで考察しておく価値がある。米国建国の2人の偉大な立役者、独立宣言を執筆したトーマス・ジェファソンと、合衆国憲法の父として知られるジェームズ・マディソンが関わっているからである。2人とも、後にアメリカ合衆国大統領となる。
トーマス・ジェファソンは、「宗教の自由の法案」を起草していた。同法案は、とりわけ「何人も、いかなるものであれ、宗教的な礼拝に参加したり、宗教的な場所や聖職者を訪れたりすること、あるいはそれらを支援することを強制されてはならない」と規定していた。この法案は、バージニア議会で承認された。ジェファソンは、宗教は個人と神の間の私的な問題であり、従って、市民政府の手が届かないものだと信じていた。ジェファソンは、信教の自由を、プロテスタント各派やキリスト教徒だけに限らず、あらゆる宗教集団にも保障すべきだと考えていた。また宗教の自由は、議会審議によって与えられるものではなく、「人類の自然権のひとつ」だと考えていた。ジェファソンのこの考え方は、1780年代当時、彼の同国人の考えよりも、はるかに進んでいた。また、彼が生まれたバージニア州内でさえ、彼の提案に反対するものは多く、とりわけ州からの支援を望む教会関係者から反発を招いた。
ジェファソンは米国の駐仏公使としてパリに向かった。そして信教の自由を求める戦いは、友人であり弟子でもある、ジェームズ・マディソンの手に委ねられた。マディソンは米国宗教史における重要文書のひとつである「宗教上の課税に反対する請願書と抗議」を執筆した。ジェファソンと同じように、マディソンも宗教は本質的に私的で自発的な性格をもつので、どのような形であれ、政府に服従すべきではないと主張した。宗教上の課税は、たとえそれがすべての宗教に分配されても、やはり宗教の護持にあたり、いかに穏健ないし恩恵的に見えようと、反対すべきだとしたのである。200年以上も前に書かれたこの主張は、今なお我々の心を強く打つものがある。
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(Memorial and Remonstrance against Religious Assessment) (1786年) 1、我々は宗教を、基本的で否定できない真理だと考えているので、「宗教、つまり我々の創造者に対する義務、およびその義務を果たす方法は、強制や暴力ではなく理性と信念によってのみ導かれるものである」それゆえ、あらゆる人々の宗教は、それぞれ個人の信念と良心に委ねられなければならない。そして、信念と良心に従って信仰することは、すべての人々の権利である。この権利はその性格から、他に譲り渡すことができない権利である。なぜなら、人間の意見は、自分自身の思索により確信したことに基づくものであり、他者の命ずるままになるものではない。譲り渡すことができないもうひとつの理由は、ここに掲げた国民にとっての権利は、創造者に対する義務でもあるからだ。自分が受け入れることができると思うような形でのみ、創造者に敬意を捧げることは、あらゆる人々の義務である・・・。 2、もし宗教に広く社会的な権威が及ばないなら、立法機関の権威はますます及ぶことはない。立法機関は、社会的な権威の産物であり、その代理人に過ぎないからだ。立法機関の管轄権は派生的なものであり、その権限も限られている。その管轄権は同等の政府機関(である行政・司法部門)に関しても、また、より必然的なことではあるが有権者との関係でも限られている。自由な政府を維持するため必要なことは、単に権力の各部門を仕切る壁を維持し続けることだけではない。それよりもっと重要なのは、いかなる権力部門も、国民の権利を擁護する偉大な壁を乗り越えないようにすることである・・・。 3、我々の自由についての最初の実験に、警戒感を抱くのはもっともなことである。それゆえ、このような慎重な心配りは、市民の第一の義務と考えており、先の革命の最も崇高な特徴のひとつと考える・・・。我々はこの教訓をとても崇敬しており、容易に忘れることはできない。他のすべての宗教を排除し、キリスト教を公認することのできる政府は、同じように容易に、キリスト教の特定の一派を公認し、他のすべての宗派を排除するのではないだろうか。ある公認宗教を支援するために、たとえ3ペンスでも市民の懐から寄付を強請するような政府は、市民を何か他の公認宗教に従うよう強要することが、あるのではないだろうか・・・」 |
マディソンのこの熱い議論に動かされ、バージニア州の有権者たちは、特定の教会の公認だけでなく、あらゆる教会に対する課税にも反対するような議員たちを選んだ。そして議会は次の会期で、米国史の基本文書のひとつである、「バージニア信教自由法」(後述)を採択した。トーマス・ジェファソンが主張したのは、宗教は大変重要であり、自由な宗教活動は人類の幸福と安寧に必要不可欠である以上、国から十分に保護されなければならないということだった。市民はまた、信仰しない公認宗教はもとより、自分が信仰する宗教のためであっても、課税義務を負わされることがあってはならない。信者の献身に任された時に、宗教は最も繁栄するという主張である。
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(Virginia Statute for Religious Freedom)(1786年) 「全能の神が、自由なものとして心を創造した。それゆえ、世俗の刑罰や重荷を課したり、市民権を奪うことによって、その心に影響を与えようとするあらゆる試みは、偽善と卑劣の慣習を生むだけである。それは、我々の宗教の聖なる創造者の意思に背くものである。聖なる創造者は、全能の力を持ち、我々の体と精神の主でありながら、その体の上にも精神の上にも宗教を強制によって広めることは選択しなかった・・・」 「議会で成立した法律の下では、いかなる人も、いかなるものであれ宗教的な礼拝や場所に出席したり、聖職者を訪れたり、あるいはそれらを支持することを強要されない。また肉体的にも財産の面でも、何かを強要されたり、制約を受けたり、苦しめられたり、重荷を負わされたりすることはない。また、その人の宗教上の意見や信条を理由に、苦痛を与えられることもない。そしてすべての人には、信仰を告白する自由と宗教に関して論じ、自分の意見を主張し続ける自由がある。それによって、その人の市民としての資格が減じられたり、拡大したり、影響を受けることはない。ここで主張される権利は人間の自然権である。現在の法律を撤回したり、その適用を狭めたりするような法律が成立すれば、その法律は、自然権を侵害していることになる。我々はそう宣言できるはずだし、そしてまさに、そう宣言する」 |
今日我々が、信教の自由を享受できるのは、合衆国憲法修正第1条によるところが大きいと評価している。しかし当時の「バージニア信教自由法」の採択は、州による特定宗教の支援と強要から脱却し、開かれた寛容な社会へと向かう大きな一歩を画すものだった。この法律の意義は、宗教上の問題は完全に個人的な性格のものであり、州の管轄権を超えるものであることを当然と見なしたことにある。トーマス・ジェファソンは、友人に書いた手紙の中で、この問題を自分に当てはめて、次のように述べている。「私は自分の宗教について話したこともなければ、他人の宗教について詮索したこともない。私は改宗しようとしたこともないし、他の人の信条を変えたいと思ったこともない。私は、他の人の宗教について、その是非を判断したことは一度もない・・・。なぜなら宗教は、それを読み上げる言葉の中にではなく、我々自身の社会の生活の中にあるからだ」
これら2つの文書に具体的に盛り込まれた概念は、合衆国憲法の下で新しい政権が発足する頃までには、新生の米国各州に広がっていた。州によってはその後も数十年にわたり、教会を公認し続けようとするところもあったが、国家政府は宗教に介入すべきでないという共通の理解があった。ジョン・アダムズは次のように書いている。「議会は年に一度だけ、祈りを捧げ、断食し、感謝する以外、それ以上、宗教には決して干渉しないでほしい。各植民地を苦しませることはせず、それぞれが信じる宗教を認めよう」
実際、いくつかの州は、議会が宗教に干渉しないことを保障するため、権利章典の付帯を条件として合衆国憲法を批准した。これを実現する上で、ジェームズ・マディソンは新憲法の下で召集された初議会で、比類なき才能を発揮した。彼の努力の甲斐もあって、10条からなる修正条項が起草された。1791年に批准されたこの10カ条は、まとめて「権利章典」と呼ばれている。その修正条項第1条には、次のように書かれている。
「連邦議会は、国教を樹立したり、宗教上の自由な行為を禁止したりする法律、または、言論や出版の自由を制約したり、または、国民が平穏に集会する権利や、苦痛の救済を求めるため政府に請願する権利を制約する法律を制定してはならない」
ひとつの修正条項にこれだけさまざまな権利が盛り込まれたことには、単に文章節約以上の理由がある。これらはみな、国民が自分の考えを表現する権利に関わるものである。つまり、政治的信条、宗教的信条、思想、あるいは苦情でさえも、政府に拘束されることなく自由に表明する権利である。忘れてならないのは、マディソンがこれらの修正条項を起草した当時、宗教や宗教上の信条は、しばしば重要な政治問題をはらんでいたことである。マディソンは「バージニア信教自由法」を成立させるために、政治的な戦いに勝利しなければならなかった。同じような政治闘争が、その他の州でも起こった。従って、後に連邦最高裁判所に持ち込まれることになった修正第1条に関わる訴訟の多くが、言論、出版、宗教という範疇を乗り越え、個人の心の中や、制約されない表現の自由へに対して、政府がどこまで介入できる権利があるかについて扱うことになったことは、決して意外ではない。
過去200年は、この概念を実践に移す歴史でもあった。すなわち、政府と宗教を分離し、個人が良心に従って信仰する権利、あるいは信仰しない権利を享受することを目指した。だからといって、米国において宗教についての偏見がまったくなかったわけではない。カトリック教徒やユダヤ教徒、その他差別の犠牲となった宗派集団があった。しかし、そのような差別は社会的な差別であり、政府が是認したり強制したりするものではなかった。信教に関する法的差別は、独立戦争後少しの間だけ続いたが、徐々に消滅していった。
独立戦争当時から20世紀に入ってしばらく経つまで、民族と宗教は多種多様だったにもかかわらず、米国民の大半は、プロテスタントを信仰していた。その主流から外れたグループは、不審な眼で見られることが多かった。それでも、こうした少数派グループ、とくにユダヤ教徒とカトリック教徒は、プロテスタントの多数派の中に自分たちの味方を見つけて、自らの存在と、良心の指示するところに従って自由に信仰する権利を守ってきた。
よく知られた例を紹介しよう。19世紀初頭のニューヨークで、窃盗犯が自分の罪を悔いて、カトリックのアンドリュー・コールマン神父にざんげした。そして神父に盗んだ品物を返すように依頼した。神父はそれに従った。警察はコールマン神父に、窃盗犯の身元を明かすよう迫った。しかし神父は、告白の時に知り得た情報は、神父と悔しゅん者の間の秘密であると主張し、それを拒否した。コールマン神父は司法妨害で逮捕され、ニューヨーク市刑事裁判所で裁判を受けた。検察側、弁護側の弁護士も、裁判官もみなプロテスタントだった。コールマン神父の弁護士は、信教の自由をできる限り広義に解釈して、次のように弁護した。
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「私が擁護することを引き受けた最初の陳述について審問してみたい。つまり、(ニューヨーク州)憲法第38条は、他の考慮すべき点とは関係なく、被告が主張する聖職者の免責権は認めているとの陳述である」 その条項の全文は次の通りである。 「我々は、理にかなった自由という善意の原則によって、独裁政治を排除するだけではなく、精神的な抑圧や非寛容さからも自分たちを守ることができる。愚かで悪意のある聖職者や君主たちは、偏狭さと野心のために、人類をこれまで苦しめてきたのである。この規約はさらに一歩進んで、この国の善良な市民の名とその権威のもとに、差別も優遇もなく、宗教的な告白と礼拝を自由に行い享受することが、今後、この州からすべての人々に与えられることをここに定め、決定し、宣言する。ただし、ここで付与される良心の自由を、不道徳な行為を免責し、州の平和と安全にそぐわない行為を正当化するものと解釈してはならない」 この規約の表現よりもさらに広く包括的な表現は、容易には思いつかない。起草者たちが念頭に置いた主要目的は、信教の自由だった。人がその良心に従って神を崇拝することは、あらゆる人間の権利だと起草者たちは感じていた。また、宗教上の告白と礼拝を自由に行い享受する権利を、すべての人類に差別も優遇もなく永久に確保しようとした。彼らは、その目的にふさわしい言葉を用いた。ここにあるのが、まさにその言葉である。 重ねて言うが、この規約が、良心の自由の保障を意図したものであることは、疑いの余地がない。聖職者と告悔者の対話が、ここで暴露されてしまうなら、カトリック教徒にとって良心の自由はどこに存在するのだろう。聖職者がこのように無理強いされるとすれば、聖職者に良心の自由はあるのだろうか。もし、告悔者が法廷に引きずり出され、告白の内容について答えることを強いられるとすれば、告悔者に良心の自由はあるのだろうか。両者のどちらにも、告白を秘匿する権利はないのだろうか。両者は、告解の秘跡を自由に享受できないのか。もしこれが、憲法が保障しようとした宗教の自由だというなら、当惑させられるという点では、ひと昔前に行われていた、被告人水攻め裁判と同じである。当時の裁判では、被告人が水に浮かべば有罪で、沈んだら無罪とされていた・・・。 |
かくして19世紀初頭までには、宗教の自由の意味について少なくとも考えた一部の人々は、本質的には近代的な立場に到達したということになる。コールマン神父の訴訟を審理した法廷は、告白の神聖性の原則を、全会一致で支持する決定をした。そして1828年、ニューヨーク州議会は、旧来の慣習法が定めていた、司祭と告解者の間の守秘義務を法制化した。告解を儀式とする宗派はカトリックだけだが、キリスト教の司祭や牧師であれ、ユダヤ教の指導者やイスラム教の指導者であれ、精神的指導者と個人との間の対話の秘匿を義務づけるという考え方は、米国全土で成文法と慣習法の双方に受け入れられた。ひとつの宗教の慣行に対する試練に始まったこの動きは、すべての人の良心の自由を促進する方向に広がっていった。
欧州の血なまぐさい紛争が脳裏にあったので、カトリック教徒は多くのプロテスタントから不審な眼で見られていたが、そのような時代でも常に彼らを擁護する人々がいた。元合衆国大統領ジョン・タイラーは、1850年代、カトリック教を否定し、外国人排斥を声高に主張した小政党「ノウ・ナッシング(何も知らない)党」に対し異議を唱えた。タイラーは息子に宛てた手紙の中で、ノウ・ナッシング党を批判し、カトリック教徒を賞賛した。カトリック教徒は「合衆国憲法に対して格別に忠誠を守ってきたように思える。カトリック司祭たちは、政治に対する不介入の良い手本を示してくれた。このすばらしい手本を、北部の他の宗派の聖職者も見習ってほしいものだ。他の宗派は、何のためらいもなく、政治の領域に踏み込み、醜い争いで自分たちの衣を汚してきた。カトリック教徒に向けられた寛容さを欠く態度は・・・米国民の大多数に強い不満を抱かせることになろう。というのは、国民にとって何よりも重要な原則がひとつあるとすれば、それは信教の自由の原則だからである・・・」とタイラーは書いている。
とは言うものの、カトリック教徒への偏見が一掃されたというわけではなかった。19世紀末から20世紀初頭にかけての大移住によって、数百万人の新しい移民が米国へ移住してきたが、その多くは、南欧、東欧のカトリック国の出身者だった。彼らは人口が密集する都市に大量に押し寄せ、多くのプロテスタントの目に、彼らはよそ者のように映った。米国は欧州本土のような血なまぐさい宗教戦争はまったく経験しなかったが、反カトリック感情が高まった。1924年、米国初のカトリック教徒として大統領選に立候補したアルフレッド・E・スミスが敗れた原因も、この偏見によるところが大きかった。その36年後、ジョン・F・ケネディが、民主党の大統領候補に指名された。この時ケネディは、当選するためには、この偏見と真っ向から取り組み、それを解消しなければならないと覚悟した。ケネディは南部のバプテスト派牧師に働きかけて、彼らの会合に招待してくれるように申し入れ、その席で自分のカトリック教徒としての信念と米国民としての義務について考えを述べた。全米の注目を集めたこの演説で、衆目の見るところ、選挙戦における宗教問題をめぐる緊張は、大幅に緩和されることになった。
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「私がカトリック教徒であるため、そしてこれまでカトリック教徒が大統領に選出されたことがなかったために、この選挙戦の真の争点が判りにくいものになっている。・・・それは多分、みなさんよりも無責任な勢力が意図的にしていることかもしれない。そこで私は、もう一度明らかにしておく必要がある。それは私が、どの宗教を信じているかではない。そんなことは私一人にとってしか重要でない。私が言いたいのは、どのような米国を私が信じているかということである・・・」 「私が信じる米国では、政教の分離が絶対である。即ちこの国では、いかなるカトリックの大司教も、たとえ大統領がカトリック教徒だったとしても、その行為に口出しすることはなく、またいかなるプロテスタントの牧師も、教区民に対して誰に投票するか指示することはない。この国では、いかなる教会や宗教学校も、公的資金や政治的な優遇を受けることはない。また、任命権を持つ大統領や、自分を選出する人々と、宗教が異なるというだけの理由で、公職に就くことを拒まれる人がいない国だと信じている・・・。」 「私が信じる米国は、公的にはカトリックの国でも、プロテスタントの国でも、ユダヤ教の国でもない。・・・つまり、公職にあるものは、公共の政策に関して、ローマ教皇や全米教会評議会や、その他どんな教会組織にも、指示を仰いだり、それらの組織から指示を受けたりはしない・・・。私が信じる米国では、いかなる宗教団体でも、一般民衆やその公僕の公共活動に、直接的にも間接的にも、意思を押しつけようとはしない・・・。そして米国では宗教の自由があまりにも分かち難いものであるため、特定の教会に反対する行動は、すべての教会への攻撃と見なされる・・・」 「以上申し述べたことが、私が信じる米国である・・・。そしてこのような米国のために、私は南太平洋で戦い、兄は欧州で命を捧げた。あの当時、我々が『分断された忠誠心』を持っているかもしれないとか、『自由を信奉していない』とか、あるいは『祖先が命を捧げた自由』を脅かす不誠実な集団に属しているなどと言う者は、誰一人いなかった・・・」 「そして実際、我々の先祖はこのような米国のために命を捧げた。信奉者の少ない宗派のものが、公職に就くのを阻む宣誓テストを逃れてこの地にやって来た時も、憲法や権利章典やバージニア信教自由法のために戦った時も、私がきょう訪れた聖地アラモで戦った時も、先祖はこのような米国に命を捧げた。ボウイ大佐とデービー・クロケットの傍らで、フエンテスもマカーファーティもベイリーもベディーリオもケアリーも戦死した。だが、彼らがカトリック教徒だったかどうかは、誰も知らない。なぜならそこでは、宗派を調べるテストはなかったからである・・・」 「私は公の問題に関して、私が属する教会のために話すことはない。そして、教会も私の意見を代弁することはない」 |
プロテスタントは、いわゆる「ユダヤ人の陰謀」を恐れなかった(むしろ開拓初期のピューリタンは、ユダヤ教を賞賛していた)ものの、ユダヤ人自身は何世紀にもわたる宗教上の偏狭な考えに苦しめられてきた。新世界は、反ユダヤ主義を是認した中世の慣習を、あえて放棄する必要はなかった。それにもかかわらず偏見の種は大西洋を越え、沿岸地方に点在した小さなユダヤ人社会は、その種子から生まれた偏見を乗り越えなければならなかった。
カトリック教徒と同じように、ユダヤ教徒もまたプロテスタントから支援を受けていた。これらのプロテスタントの人々は、欧州にはびこる特定の宗教に対する迫害を、米国では許してはならないと固く信じていた。ジョージ・ワシントンは、ニューポートのユダヤ人社会に向けて、次のように述べた。「幸いにも合衆国政府は、偏狭な考えを容認せず、迫害に手を貸さず、政府の保護の下で暮らす国民に良き市民として振る舞うことだけを求める」ジェファソンとマディソンもまた、この国では、専制政治ではなく宗教の自由が守るべき規則であると確約した。
しかし多くの国民は、米国をプロテスタントの国と考えていた。もし国民が「カトリック教徒の陰謀」を恐れていたとすれば、ユダヤ人に対してもまた少なからず不快感を覚えていた。メリーランドでは、その他の州と同じように、独立戦争後に採択された権利章典によって、宗教の自由は大きく前進した。しかしそれは、キリスト教徒に限られた自由だった。敬虔なクリスチャンだったメリーランド州議会議員のトーマス・ケネディは、1818年以降、ユダヤ教徒にも宗教の自由を拡げるための戦いを主導した。
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(1818年) 「そして、この法案の通過に、どうしてそれほど関心があるのかと聞かれたら、私はただ、こう答えたい。そうすることが私の義務だと思うからだと。私の出身国に、ユダヤ教徒はいないし、世界中のどこにも、ほんの顔見知り程度でもユダヤ教徒の知り合いはいない。だから、ユダヤ教徒から要請されたわけではない。今この問題が議題に上がっていることすら、ユダヤ教徒たちはまったく知らないはずだ・・・」 「今、ひとつだけ私が恐れている敵がある。それは、偏見だ。・・・議長、我々は偏見を後生大事にしている。政治的な偏見の力を、我々全員が知っているし実感している。しかし宗教的な偏見はさらに強く、さらにいとしいものだ。それは生涯、我々にしがみつき、死の床にあってもなかなか離れない。そして今、我々が直面しているのは、ある一世代、ある一時代、ある世紀が持つ偏見ではない。ほぼ1800年近くにわたって、父親から息子へと受け継がれてきた偏見なのである・・・」 「米国では、ユダヤ教徒はごく少数である。メリーランドにもほとんどいない。しかし1人でもユダヤ教徒でもいるなら、その1人を我々は公平に扱わなければならない」 |
多分、ユダヤ教徒が、グループとしては少数だったためか、他の州でユダヤ人が良き市民と見なされていたためか、露骨な偏見に多くの市民が辟易していたためか、ユダヤ教徒のための権利のための戦いは、他の州からも強力な支援を得ることができた。新聞の社説欄は、メリーランド州に対して罪の償いをするように呼びかけた。有力週刊誌「ナイルズ・レジスター」は、次のように述べた。「確かに、このような物事を云々する時代は終わった。良心の自由は、人類が創造者に負う義務に関連し、非常に重要な問題であるのに、その自由を拒んでおきながら、共和制について語るなど、良識を汚すものだ」こうした世論の力が功を奏して、メリーランド州は1826年、ユダヤ教徒に完全な政治的、かつ宗教的な権利を与えた。南北戦争まで、ユダヤ教徒の権利を制限していたのは、ノース・カロライナ州とニューハンプシャー州だけだった。この2州でも、1868年と1877年にそれぞれ、その制約を撤廃した。
南北戦争が始まるまでに、宗教の自由という概念は、当初の国教制の廃止論から大幅に拡大していた。ほぼ全州が、個人の良心の自由を盛り込んだ権利章典を採択し実施していた。それによって米国は、主としてプロテスタントの国だという意識が浸透していたにもかかわらず、カトリック教徒やユダヤ教徒への市民的、政治的な制約が取り除かれていった。合衆国憲法修正第1条によって拘束されている連邦政府は、宗教問題に決して踏み込もうとはしなかった。旧世界の抑圧で苦しむ人々の目には、政治のみならず宗教においても、米国は、エイブラハム・リンカーンの言うように「最後で最善の自由の光」と映っていた。



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