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―第11章―
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どの州も、・・・その州の法の支配を受けるどんな人に対しても法律による平等な保護を拒んではならない。
過去半世紀の間、すべての国民に法の平等な保護を義務づける憲法修正第14条を軸とする、大規模な社会運動が繰り広げられ、その結果、有色人種、女性、その他の集団に対する法律上の平等な権利が保障されるようになった。この規定は、概念としては合衆国憲法で最も格調高い表現の一つに、そして実践面では最も強力なものの一つに、数えられている。この強力な規定がなければ、米国は、過去50年間で成しとげた社会的発展を達成することはできなかっただろう。そして多くの米国民が、組織的偏見にさらされ、投票もできず、ほかの権利も享受できずに、二流の市民の扱いを受けたままになっていたことだろう。とはいうものの、1868年に修正第14条が憲法に付け加えられてから、「平等な保護」に関するこの広範な解釈が花開くまでには、90年近くを費やしたのである。
トマス・ジェファソンが独立宣言に、「すべての人間は平等に創られている」と記した時、彼の念頭には、社会的、ないしは経済的な平等主義はなかった。むしろ、彼を初めとする建国世代の人々は、人間の能力や徳性がそれぞれ異なるので、社会が人間組織として、あるいは経済的にも、均質になることは本質的にあり得ないと考えていた。彼らは社会を平等にしたいと思ったのではなく、各人にその能力を最大限に発揮する機会を与えたいと考えたのである。そのような機会が存在するためには、すべての男性(建国当時、彼らの念頭には男性しかなかった)が法の下で対等な立場に立っていなければならなかった。裕福な者と貧しい者の間で、適用される法律が異なるようなことがあってはならなかった。ただし一方で、建国の父たちは、明らかに白人のための法律と奴隷のための法律があるという事実を顧みることはしなかった。それから一世代の後、アンドルー・ジャクソンの民主党員たちが平等について語ったときも、彼らが言わんとしたことは、やはり法律による平等な待遇に基づく機会の平等だった。
興味深いことに、当初の憲法にも、権利章典にも、機会の平等に関する言及はどこにも見られない。実際、南北戦争が終わるまで、これが必要であるとも考えられていなかった。敗北した南部諸州には、新しく解放された奴隷を公正に扱う意思がないことが明らかになった時、連邦議会はあわてて、憲法修正第14条を起草・成立させ、いかなる州であろうと、あらゆる市民に対して、「適正な法手続き」だけでなく、法律による平等な保護も拒むことを禁じたのである。
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「法律の平等な保護を保障することは、平等な法律による保護を約束することである」 |
しかし、「平等な保護」という言葉の意味は、当初から時々混乱を招くことがあった。おそらくそれは、憲法修正第14条の起草者たちが、「平等な保護」の厳密な意味を定義してくれなかったからだろう。一方でこの表現は、どんなに常識から外れていても、あらゆる法律はすべての人間に厳格に適用される、とも読むことができる。しかし、いかなる手段、形式、態様であれ、法律は個人やグループの間で差別することはできないという極端な考え方は、くだらないと言われかねない。例えば、運転免許証の交付要件として、視力検査に合格することを義務づけることは、目の見えない人や視力障害者に対する明らかな差別だが、これはやむを得ない区別の方法と言える。
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「憲法修正第14条は、どんな人に対しても法律による平等な保護を拒んではならないことをうたっているが、この原則は、現実の必要性と共存しなければならない。それは、たいていの制定法は何らかの目的で[人々を]分類しているので、さまざまな集団や個人に不利益をもたらすのも仕方ないという現実である。・・・[連邦最高裁の] この原則と現実とを両立させようとしてきた見解は、法律が基本的な権利を損なわず、また、特定の陪審[差別を受けがちな市民集団]を標的にしないのなら、立法による分類は、目的が正当でかつ合理的な関連性を持つ限り、これを支持するというものである」 |
すべての法律は何らかの形の分類に依存しており、多くの場合、法律が適用されるのは一部の人々だけで、そのほかの人には適用されず、また、同じ法律の条項の下でも、人によって違った扱いを受ける場合がある。例えば、公務員を対象にした年金制度では、地位、勤続年数、給与に応じて年金の金額に差をつけることは、確かにあり得る。刑法も民法も、さまざまな状況によって、明らかに異なる処罰を科している。2人の女性が同じ罪、例えば謀殺で有罪の判決を受けたとしても、それぞれの事件を取り巻く状況により、まるで違った判決が下される可能性がある。年齢、身長、性別、人種、宗教といった特徴に基づいて露骨に人間を差別するような法律は望ましくないが、それと同じように、状況にかかわらず、全ての人を全く同じように扱うことを強いる法律もまた、望ましくないのである。
憲法修正第14条が、南北戦争後の南部連合諸州の再建に向けた青写真として生まれた経緯は、長年にわたり、裁判所における同条項の解釈の指針となってきた。平易な言葉で書かれたこの憲法修正条項は、実際には人種に言及していないが、これを提案した連邦議会は、かつての奴隷を差別から守ろうとしていて、それ以外の意図はなかったことを、皆が理解していた。合衆国憲法には皮膚の色による人種偏見がない、というハーラン判事の有名な言葉は、憲法の意図を完璧にとらえたものだった。
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「プレシー対ファーガソン事件」での反対意見(1896年) 「憲法に照らし、法的見地から言えば、合衆国には、ほかの人々より優越し上位に立つ支配階級の市民は存在しない。この国にはカーストはない。わが国の憲法には皮膚の色による人種偏見がない。市民の間の階級を認めず、許容もしない」 |
ハーラン判事の言葉は、理想を言い表したものだが、必ずしもかつての奴隷やその子どもたちにとっての人生の現実を言い表したものではなかった。勝利を収めた北部は、奴隷制度を一掃し、高邁な思いを憲法に盛り込んだが、その後、経済拡大と産業発展の時代を迎えたため、扱いにくい人種問題は、好きなように解決していい、と南部諸州の自由に任せてしまった。その結果、「ジム・クロウ」として知られるアフリカ系米国人に対する制度的差別が60年以上も継続することになった。「ジム・クロウ」という言葉は、当時の「ミンストレル」(寄席の演芸)ショーのお決まりの、白人の歌手兼俳優が黒人そっくりのメーキャップをした登場人物から生まれたものである。やがて、この言葉は南部全体に広まり、人種隔離を意味する言葉になった。
人種隔離、すなわち州や地方の法律によって白人と黒人を合法的に分離する制度は、最終的には、平等保護条項によって崩壊することになるが、当面はこの条項が憲法から消えてしまったかのような状況が続いた。差別が極端にひどかった特定の事例を除き、裁判所はこの条項を人種関係の問題に広く適用しようとしなかった。そして、そもそもこの憲法修正条項は、限定された目的のためにしか適用できないと考えて、ほかの事案にこの条項を適用しようとしなかった。平等保護条項は、1927年に、オリバー・ウェンデル・ホームズ判事が、「憲法上の論議で最後の手段として使われる言葉」と述べたほど、法制度全体にはほとんど影響を及ぼさないものになっていた。
このような状況は、第二次世界大戦中に、大きく変わり始めた。そして、これも歴史の皮肉の一つだが、平等保護条項が息を吹き返すきっかけになったのは、有色人種に対するあからさまな差別に関する訴訟ではなく、鶏を盗んだ者が、資金横領のような、いかにも紳士的な形の盗みで有罪判決を受けた者よりも、はるかに厳しい刑罰(断種)を受けた事件だった。ウィリアム・O・ダグラス判事は、基本的な問いかけをした。あらゆる重罪犯には厳格に法律を適用するのに、金回りのよい横領犯を例外扱いすることは公正なことだろうか―。答えは明らかに「ノー」だった。ダグラス判事は、社会的階級に基づいて、刑罰にこのような甚だしい格差を設けることは、平等な保護の大前提に反すると主張した。同判事はさらに、平等保護条項に反するやり方で基本的権利を侵害する法律については、裁判所が厳しく司法上の精査をすべきだと述べた。この分析を足場として、戦争直後の数十年の間に、大きな公民権改革が行われる舞台が整ったのである。
米国の大恐慌を契機に、政府がすべきことと、すべきでないことについて、新たな認識が生まれていた。1930年代には連邦政府が経済破綻の影響を緩和する必要があったこと、1940年代には戦争で国を守る必要があったことから、政府は経済にあまり干渉すべきでないという古い観念は、すでに一掃されていた。時を同じくして、新世代の法律家や公民権運動活動家たちは、人種隔離に終止符を打つために、政府、とりわけ裁判所が果たすことができる役割について、じっくり検討し始めた。彼らは、連邦最高裁が予備選挙から黒人を締め出す政策を無効とした、いくつかの訴訟によって勇気づけられただけでなく、「一つの人種グループの公民権を削減する全ての法律上の制限は、直ちに疑念が持たれる」という裁判所の見解が、一度ならず表明されたことにも、意を強くした。
1953年、ドワイト・アイゼンハワー大統領がアール・ウォーレンを連邦最高裁長官に任命した時、いわゆる「平等主義革命」の舞台が整った。ウォーレン長官初め連邦最高裁判事たちは、ジェファーソンなどの建国の父たち以上に、才能と勤勉さから生じる格差を根絶したいとは考えていなかった。しかし、法律上の不平等が生んだ人為的な障壁や特定集団への差別的待遇については、憲法上、これを容認することはできなかった。
この原則に則った最も注目すべき見解は、「ブラウン対教育委員会事件」(1954年)で表明された。これは20世紀に連邦最高裁が下した裁定の中で、疑いなく最も重要な判断だった。これに先立つ10年以上にわたり、連邦最高裁は、多くの地域で黒人と白人を合法的に隔離する結果となった「ジム・クロウ(黒人隔離)政策」を少しずつそぎ落とす努力を続けていた。連邦最高裁は、19世紀末に「プレシー対ファーガソン事件」(1896年)の判決がこの隔離政策を容認したのは、誤りだと認めていたのである。連邦最高裁はこの「ブラウン対教育委員会事件」で、人種隔離に正面から取り組み、この慣習が憲法に規定された平等な保護に違反すると判断した。
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「公立学校が人種のみに基づいて児童を分離することは、たとえ現実の設備やほかの『有形』要因が平等だとしても、少数派グループの児童から教育を受ける平等な機会を奪うことになるのか。われわれは、奪うことになると信じる。・・・公立学校教育の分野には、『分離すれども平等』という政策の理論が入り込む余地はない、とわれわれは判断する。分離した教育施設は、本来不平等である。・・・このような人種隔離は法律の平等な保護を拒むことに当たる」 |
ウォーレン長官が「分離した教育施設は本来、不平等である」と明言した時、彼が伝えたかったことは、人種隔離は、いつでも、どこでも、憲法に規定された「平等な保護」に反するということだと思われる。要するに、連邦最高裁は1868年以降ずっと、人種差別は憲法違反だといい、「プレシー対ファーガソン事件」のように合憲と判断した判決は間違っていた、と述べたのである。
しかし実際に、ウォーレン長官の言葉にはもっと大きな意味があった。そしてこれは、平等な保護の解釈について多くのことを示唆することになった。それは、憲法上の意味は、時間の経過と状況の変化に伴って変わる、ということだった。19世紀初め、ジョン・マーシャル連邦最高裁長官も、米国民に対して、憲法は「人間活動のさまざまな危機に適合させる」ことを意図したものであることを常に忘れてはならないと説いていた。この「生きている憲法」という概念は、すべての学者や判事に受け入れられているわけではないが、過去50年間の平等保護条項の歴史は、その適用と、おそらくはその意味合いが、時間の経過とともに変化してきたことを示していると思われる。
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「『ブラウン対教育委員会事件』が米国における市民文化の変化を反映しているとすれば、この訴訟は一層の変化をもたらしたと言えよう。『ブラウン訴訟』は、連邦最高裁が20世紀になって下した判断の中で最も重要なものだった。この訴訟は、今日では、学校についての判決、あるいは人種隔離についての判決以上の役割を果たしている。『ブラウン訴訟』判決は、憲法が原理としてカースト制度を禁止していることを率先して示す、権威ある象徴なのである。」 |
米国内における人種間の関係は、「ブラウン訴訟」の後、一変することになる。失った権利を取り戻そうとして生まれた運動に新たな命が吹き込まれ、1950年代から1960年代にかけての公民権運動へと発展した。1963年8月、20万人の人々が公民権を求めてリンカーン・メモリアル(記念堂)に集まった時、彼らはマーチン・ルーサー・キング・ジュニア師の、詩情あふれる演説を耳にした。彼は、法の平等な保護によって、「いつの日か、ジョージアの赤い丘の上で、かつての奴隷の息子たちと、かつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟として一緒のテーブルに座ることができるようになるだろう」と訴えた。
平等な保護の解釈という点に関しては、キング師もジョン・F.・ケネディ大統領も、ジェファソンやジャクソンと大きな違いはなかった。 つまり、キング師、ケネディ大統領ともに、平等な保護を一般市民が属するほかの範疇に拡大したかっただけなのである。二人は、すべての米国人が、それぞれ個人の功績、才能、徳行に応じて処遇され、皮膚の色や性別、宗教的信条などの偶然の違いに左右されないことを望んでいたのである。ケネディ大統領が提案し、(後任の)リンドン・ベインズ・ジョンソンが署名して成立した1964年公民権法は、まさにこの考えを実行に移したものである。人間は一人ひとり異なるが、国民はすべて、法律によって平等に扱われなければならない、というものである。
「ブラウン訴訟」を初めとする数々の訴訟や1964年公民権法、さらには公民権運動全体が訴えたのは、要するに、法律の平等な保護がなければ、少数派は完全な市民権を持つことができず、市民権がなければ、限定的な民主主義しか存在できないということである。一部の人々が言うように、おそらく、民主主義が権利の実現を可能にするのである。だとすると、個々の権利が民主主義を機能させるという言い分も成り立つ。平等保護条項について、現代の解釈の核心にあるのは、次のような考え方である。すなわち、個人は、人種、性別、宗教にかかわらず、取り替え可能な歯車としてではなく、あくまで個人として扱われるべきであり、各人の功罪に従って、その一人ひとりが法の前でほかの個人とともに、差別されることなく扱われる権利を持つという考え方である。
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「米国の学生は、皮膚の色にかかわらず、軍隊に守られることなく、いかなる公立の教育機関にも通えるようになるべきだ。米国の消費者は、皮膚の色にかかわらず、街頭デモで強硬に訴えるまでもなく、ホテルやレストラン、劇場、商店などの公共的な施設で平等なサービスを受けられるようになるべきだ。そして米国市民は、皮膚の色にかかわらず、妨害や仕返しを恐れることなく、自由選挙に有権者登録し、投票できるようになるべきだ。・・・要するに、あらゆる米国人は、自分が扱われたいと望むような扱い、自分の子どもたちが扱われたいと望むような扱いを望む権利を持って当然である。しかし、現実はそうではない」 |
「ブラウン訴訟」と公民権運動の重要な副産物は、ほかの集団も平等を求めるようになったことである。その最大のグループは女性だった。女性は、人口の半分以上を占めているにもかかわらず、1960年代初めになってもまだ二流の地位にとどまっていた。とりわけ職場では、慣習によって、特定の職業から排除され、特定の専門学校から締め出され、男性と同じ仕事をしても、はるかに男性より安い賃金しか支払われなかった。裁判所に訴えて平等を勝ち取ろうとした女性たちの努力は失敗に終わっていたし、たいていの男性は、恐らく1873年に、ブラッドレー連邦最高裁判事が述べた意見と同じ考え方をしていた。「女性の最も重要な運命と使命は、妻と母という崇高で慈悲深い役割を果たすことである。これは創造主の掟である」
女性運動が最初の大きな勝利を収めたのは、1964年だった。この年、公民権法第7編が成立し、人種、宗教、国籍、性別による雇用差別を禁止した。1960年代を通して、報道機関は、女性運動と男女平等を実現しようとする努力に関する記事を次々に掲載した。1972年初めに連邦議会は、男女平等をうたった憲法修正条項を圧倒的多数で可決して、各州に送付した(しかし、州段階では批准されなかった)。その翌年、連邦議会は、同一の仕事には同一の賃金を支払うことを義務づける、1973年同一賃金法を可決した。
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「フロンティエロ対リチャードソン事件」(1973年) 「わが国には、長く不幸な性差別の歴史がある。伝統的にこうした性差別は、いわゆる『ロマンチックな家父長主義的』精神により正当化されてきた。これは実際上、女性を尊敬もせず、鳥籠の中に閉じ込める役割を果たしていた。このような意識が広がった結果、わが国の法令には、次第に紋切り型の性差に基づく差別的条項が数多く盛り込まれるようになった。・・・もちろん、ここ数十年で米国の女性の地位が著しく向上したのは事実である。にもかかわらず、性的特質が明らかなため、いまだに、時には隠微な方法ではあるが、教育機関、雇用市場のあちこちで差別を受け、そして政治の分野では、その差別が最も著しい」 |
公民権運動から手がかりを得て、女性グループは差別的な法律を次々と法廷に持ち出して攻撃し、ほぼすべての裁判で勝利を収めた。社会のほかの部門と同じように、裁判所は法の下の男女平等を成し遂げるという課題に取り組んだ。ただし、裁判所は平等な保護の厳格な基準には違反するものの、ある程度の家父長主義的措置を正当化するような性差が存在することを認識していた。しかし、差別を正当化する十分な理由がない場合、連邦最高裁は直ちにそれをやめさせる方向に動いた。
1979年に、バーガー長官率いる連邦最高裁、いわゆる「バーガー法廷」は、皮膚の色による人種差別がないとされる合衆国憲法を、今度は性差別についても中立で偏見のないものにするための決定的な措置をとった。連邦最高裁は、離婚後の扶養料を夫が支払うことはあっても、妻が払うことは決してないとする州法を、無効とした。ブレナン判事によれば、「性的な固定観念という荷物」を反映しているような分け方は、すべて無効にしなければならない―のである。この場合で言えば、男は常に働いて妻を養う義務があり、妻の責任は家庭を中心としている、という考え方である。別の訴訟で連邦最高裁は、雇用されていた父親が失業した時には家族手当の支給を認めながら、働く母親が失業したときにはそれを認めない連邦政府の福祉計画の規定を、無効とした。
このように女性は、法廷内で大きく前進したものの、依然として男女平等憲法修正条項(ERA)を通じて獲得しようとしたような法律上の完全な平等は、達成できていない。ERAは、「性別を理由として法の下での権利の平等は、合衆国によっても、あるいはいかなる州によっても、拒まれたり、奪われたりしてはならない」と規定しており、連邦議会にこれを執行するための立法権限を与えていた。連邦議会が批准のために、この憲法修正条項を最初に各州に送付したのは1972年の初めだった。数カ月のうちに約半数の州がこれを批准した。その後、反対派グループが猛烈なロビー活動を始めたため、憲法修正条項の批准プロセスは行き詰まった。推進派は、批准の期限を1978年から1982年6月末まで延ばしたが、その時点でも批准したのは35州に過ぎず、憲法修正条項を成立させるには3つの州が足りなかった。
この憲法修正条項に対しては、露骨な男性優越主義から、女性保護の法律を無効にすれば女性が傷つくという主張まで、幅広い反対意見が見られた。一部の反対派は、ERAが成立すれば、男女共用のトイレを設置しなければならなくなる、とまで言い張った。一方、州の権利の支持者たちは、州を攻撃するための新たな武器を連邦政府に与えることになることを恐れた。しかし、憲法の観点からみると、憲法修正第14条がすでに、「法律の平等な保護」を保障している以上、平等な権利に関する憲法修正条項が現行の法律にどのような影響を及ぼすかは明確ではない。もちろん、それによって性別は人種と同等の分類に格上げされ、男と女の間に差異を設ける法律をめぐる訴訟では、最高レベルの司法的審査が求められるだろう。
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「アメリカ合衆国対バージニア州事件」(1996年) 「バージニア州は、バージニア士官学校が提供する教育を受ける機会―軍事訓練と民間人指導者育成のための特別の機会―を女性に与えていないが、これは、『同学校の士官候補生に求められる個々の活動のすべてに従事することができる』女性に対して・・・憲法修正第14条が保障する法の平等な保護を拒むことになるのだろうか。・・・同学校の計画がバージニア州の若き男たちにとってどれほど役立つものであろうと、その娘たちについてはまったく想定していない。これでは平等な保護とは言えない」 |
しかし、実際問題として裁判所は、ERAによって女性が獲得しようとしたものの多くを、すでに達成している。憲法修正第14条の平等な保護条項は、「男(man)」ではなく「人(person)」という用語を用いており、裁判所はこの表現を厳格に解釈することにより、米国内で最も露骨な合法的性差別を、すでに無効にしている。女性が置かれた状況は、多くの点で有色人種の状況に似ており、州が差別を支援し続けることは許されない。しかし、社会的慣習を変えるという点で、法律は無力である。公民権運動や女性運動以前に存在していた古い態度は著しく減ったが、その名残も強く残っている。
平等保護条項の新しい解釈から最も大きな恩恵を受けてきたのは女性と有色人種だが、そのほかのグループもまた、憲法上の平等を付与してほしいと要求してきた。身体障害者や同性愛者などのグループが、自分たちを差別から守る法律を獲得しようと努め、程度の差はあれ、それぞれ要求が認められた。「障害を持つ米国人法」(The Americans with Disabilities Act:1992年)によって、肉体や精神に障害を持つ人々が、国家組織の正式な一員となれる機会が大きく広がった。同性婚の合法化など、同性愛者グループが求めている目標はまだ達成にほど遠いが、裁判所や多くの州議会は、グループとしてのゲイやレズビアンに対して法律上の差別があってはならないという判断を、一貫して下している。そして、同性愛者もまた、徐々に社会の大勢に受け入れられつつある。
もし平等保護条項が、政府がすべての法律を公正に執行し、差別的な法案を成立させないことだけを目的としていたなら、その重要性は変わらないとしても、この条項が過去50年間にわたって及ぼしてきたような影響力を持つことはなかっただろう。裁判所と立法府は、平等な保護とは、憲法修正第1条にある言論の自由の保護にきわめて似た、市民権の基本的な概念であると理解してきた。自由に発言し、さまざまな意見を聞くことができなければ、市民としての義務を果たせないのと同じように、差別の対象に組み入れられれば、社会の正式な一員にはなれない。
「平等な市民権」に不可欠な要素は敬意であり、社会契約と公的活動において、他人が自分と同等であることを認めることである。それが人種、性別、宗教のいずれに根ざしたものであれ、ばかげた形での他人への非難は、その特徴をもつ個人を自動的にほかの人より劣る区分に分類することになる。このことと密接に結びついているのが、市民参画政治の価値である。ある少数派グループが一貫して劣等集団の烙印を押されたら、いくら市民生活に参加しようと努力しても、それをどうして多数派は、真剣に受け止められるのか。最後になるが、ある少数派グループが、責任を持って行動することができないとされる区分に分類されている場合、どうして彼らが責任を持って行動すると期待できるのか。
これら平等な市民権の3つの重要な要素―敬意と参加と責任―は、民主主義社会のすべての市民が持つべき特徴である。もちろん、社会的、あるいは経済的な平等を法制化することは不可能だし、そうしたことを望む人はほとんどいない。しかし、裁判所や立法府は、少なくとも「基本的」とみなされる3つの分野では、いかなる個人もグループも差別を受けることはないことを、保障しようと試みてきた。
基本的分野には、最初に投票権がある。これは民主主義社会で最大の特権であるとともに、最大の責任の1つでもある。自由で公正な選挙は民主主義の証しであり、1票を投じる資格は、象徴的にも実質的にも重要である。投票権は私たちが自らの指導者を選び、重要な公共政策上の決定を行う手段である。2000年大統領選の例でも明らかなように、少数票でも選挙結果を左右することがあり得る。どんな人に対しても、どんなグループに対しても、投票権を認めないことは、個人と社会の双方にとって投票の重要性を損なうことになる。従って、ブラウン訴訟判決以前でさえも、裁判所は少数派の投票を妨げる仕組みを攻撃し始めていた。
第2の基本的分野は、裁判を受ける権利である。意見を聞いてもらえる機会を個人に与えるという点では、投票権と似ている。民主主義社会が、なぜそれほど刑事司法制度の公正さを確保しようとしているかについては、すでに公正な裁判と被疑者の権利の章で論じた。特定のグループが裁判を受けることを妨げられたり、黒人や女性が陪審員名簿から除外されたり、皮膚の色だけで罰せられたりすれば、司法制度の完全無欠さがなくなってしまう。被疑者の権利を確立することに役立った裁判は、そのすべてではないが、多くの場合、被告人が有色人種だった。そして、裁判所が送ってきたメッセージははっきりしている。平等な保護とは、刑事と民事の両方の裁判制度で、公平な待遇を保障するということである。
第3の基本的分野は、結婚と家族に関するもので、自由な社会では、結婚と家族は、敬意、責任、参加の問題と密接に結びついている。結婚と、子どもを持つことは、個人としての地位、社会における自己のイメージ、法的な責任などに不可欠なものである。これらはいずれも、最も個人的な判断に任されるべき事柄であり、国がほとんど、あるいはまったく関与すべきではないことと考えられている。裁判所は、人種による差別だけではなく、資産の多寡によって人を区分けする法律もまた、無効としてきた。貧しいという理由で、結婚や離婚を認められないということがあってはならない。連邦最高裁は、早くも1920年代に、家族の責任と国家の干渉を受けない領域を定義し始めていた。1960年代になると、これらの分野は、平等な保護条項の新しい解釈を通じて、さらに手厚い保護を受けることになった。
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「ラビング対バージニア州事件」(1967年) 「こうした人種の分類を正当化する、何ものにも優先する合法的な目的は、不愉快な人種差別は別として、いっさいあり得ない。バージニア州が、白人が含まれる異人種間の結婚だけを禁止していること自体、白人至上主義を維持するための手段として人種の分類を自己正当化していることを、明確に示している。われわれは、人種を理由に市民の権利を制限する法令の合憲性を、一貫して否定してきた。人種の分類を唯一の理由として結婚の自由を制限することが、平等保護条項の中核的な意味に違反していることに、疑いの余地はない」 |
このことは、これらの基本的な領域に、州が決して干渉できないことを意味しているのだろうか。その答えは明らかに「干渉できる」である。しかし、それは、他の何よりも優先すべき州の利害が関係している場合だけである。しかも、その場合でも、州政府は、その規制が特定の集団を不当に圧迫することがないように、必要な措置を取らなければならない。例えば州は、投票権や結婚許可証の取得に関して、最低年齢の条件を課すことができる。だが、この制限は少数派グループだけでなく、すべてのグループに適用されなければならない。陪審員名簿についても規制することは可能である。ただ、陪審員名簿は通常、登録者名簿を利用して作成される。つまり、意図的に特定のグループが除外され登録者名簿が汚されると、陪審団名簿も汚されることになる。法律の平等な保護は、各人が投票し陪審員を務める権利と責任の両方を持つことを意味する。適正な法手続きとは、被告人には同じ一般市民の仲間の陪審による裁判を受ける権利があることを意味する。従って、被告人が有色人種の場合、陪審員名簿は地域の人種構成を正確に反映するものでなければならない。
平等の保護とは、誰でも嗜好と経済的資力に応じて、地域社会の公的生活に自由に参加できなければならないことを意味するようになった。それは、通常は私人に属すると見なされる場所でも同じである。1964年公民権法では、レストラン、ホテル、劇場などの「公共施設」では、たとえそれらが私企業であっても、人種、性別、あるいは民族を根拠に差別することは、違法だと規定されている。1964年以前には、事業主は自分がサービスしたい人にサービスを提供する権利があり、従って、黒人や女性、カトリック教徒やその他のグループを締め出すことができるという法律が一般的だった。憲法修正第14条では、「いかなる州」も差別はしてはならないと規定している。このため、私的な差別的行為を、公法では規制できないと、長年にわたって考えられていた。1960年代に入って、裁判所と連邦議会は、こうした公共施設の利用を拒否することは、憲法修正第14条の条文に違反はしないかもしれないが、便利な交通手段、宿泊施設、食事をする場所、文化施設を利用できない国民が現にいるにもかかわらず、すべての人が平等な市民権を共有しているなどという考え方は、憲法修正14条の精神をまさに愚弄するものだ、という認識を持つに至っている。
19世紀末、英国の哲学者ジェレミー・ベンサムは、平等という抽象概念を論じるにあたり、平等は飽くことを知らないもので、どこで満足するか分からないと述べた。平等の提唱者たちは、すべての人々が社会的、経済的、政治的に同じレベルに立つまで、満足することはないのだろうか―と。
憲法修正第14条の平等保護条項は、そのようなことを、全く想定していない。多くの人々は、米国はすべての社会の中で、最も平等主義が進んでいる国だと思っている。フランスの作家シモーヌ・ド・ボーボワールは「豊かな米国人にも尊大さはなく、貧しい人にも卑屈さはない。日常生活での人間関係は、平等という足場に立っている」と述べた。しかし、米国が平等主義的な社会であったことは一度もない。裕福な人々も貧しい人々も、誰にもぴったり合う同じサイズの地位を求めたことはない。むしろ、米国人が重視しているのは、才能と勤勉さを備えたものが成功できる機会と、法の下の平等である。男性も女性も、富める者も貧しい者も、白人も有色人種も、アングロサクソン系もラテン系も、すべての人々が平等な法律の下で平等な保護を受ける。こうしたことが、米国市民として享受する権利である。だが、平等な権利の概念の根底にあるのは、平等な市民権の概念である。これは、権利だけではなく責任をも体現する概念である。
参考文献:
- Alexander M. Bickel, The Supreme Court and the Idea of Progress (New York: Harper & Row, 1970)
- Kenneth L. Karst, Belonging to America: Equal Citizenship and the Constitution (New Haven: Yale University Press, 1989)
- Susan Gluck Mezey, In Pursuit of Equality: Women, Public Policy, and the Federal Courts (New York: St. Martin's Press, 1992)
- Donald G. Nieman, Promises to Keep: African-Americans and the Constitutional Order, 1776 to the Present (New York: Oxford University Press, 1991)
- Paul M. Sniderman et al., The Clash of Rights: Liberty, Equality, and Legitimacy in a Pluralist Democracy (New Haven: Yale University Press, 1996)



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