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―第12章―

投票権
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―第12章―
投票権
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English Version

人種、皮膚の色、あるいはかつて隷従状態に置かれたことを理由として、合衆国も州も、合衆国市民の投票権を拒否したり、制約を加えたりしてはならない。

合衆国憲法修正第15条(1870年)

合衆国もどの州も、性別を理由として、合衆国市民の投票権を奪ったり、制限したりすることは許されない。

合衆国憲法修正第19条(1920年)

予備選挙その他の選挙で・・・合衆国市民が投票する権利を、人頭税その他の租税の未払いを理由に、奪ったり、または制限を加えてはならない。

合衆国憲法修正第24条(1964年)

合衆国もどの州も、年齢を理由として、満18歳以上の合衆国市民の投票権を奪ったり、制限を加えたりしてはならない。

合衆国憲法修正第26条(1971年)

Bill of Rights

エイブラハム・リンカーンは、「人民の、人民による、人民のための政治」という言葉を用いて、民主主義を最も巧みに表現した。しかし、「人民による」政治を実現するには、人民が誰を指導者にすべきかを決める必要がある。自由で公正な選挙が行わなければ、民主主義社会は存在できないし、政府当局者が有権者に対して、常に説明責任を負わなければ、実際問題として、ほかのあらゆる権利も保障されない。従って投票権は、大切な個人的自由であるだけではない。自由な政治の礎石でもあるのだ。

投票権を誰に付与すべきか。これは、米国史の中の一貫した疑問である。米国の過去を流れる一つのテーマは、白人男性の資産所有者から、18歳以上のほぼ全員の国民を対象とする普通選挙権までの、選挙権の付与の漸進的な拡大である。これに関連するテーマとしては、連邦制度の枠組みの中で、1票の価値を可能な限り等しくするという問題がある。しかし、しばしば米国民は投票権を当たり前のことと思っているので、この権利は必ずしも十分に行使されてこなかった。投票権を持つ市民は2億人近くにのぼるということもあり、自分の1票には、大した価値がないと考えている国民があまりにも多い。しかし、2000年大統領選挙でのきわどい票差で、1票の価値がいかに大切であるかが再認識された。

しかし、選挙権の拡大は必然的だったとか、あるいは拡大が平穏に進んだと考えるのは誤りである。確かに、植民地時代の米国人は、自由選挙の重要性を認めていたが、彼らは、選挙権を持つ者は資産のある男性に限定すべきだと考えていた。それは、富を保有することにより、社会が必要とする事柄についてより深く理解できると考えていたからである。選挙権は民主主義を機能させ、個人的権利を守るために不可欠だが、その歴史は絶え間ない対立の物語でもあった。

アレクシス・ド・トクビル ― 『米国の民主主義』(1835年)

「ある国の国民が、ひとたび投票資格の是非に口を出し始めると、遅かれ早かれ、この要件を廃止することになるのは疑いない。これは社会行動の中の不変の原則の最たるものの1つである。投票権の範囲が拡大すればするほど、その範囲をさらに広げる必要性が痛感される。なぜなら、新たに譲歩するたびに、民主主義の力が強化され、その力の増大に伴い、民主主義の要求も高まるからである。投票権を付与される人の増加に比例して、投票権拡大の恩恵から取り残された人々の渇望は高まる。例外が最終的には原則になる。譲歩が絶え間なく繰り返され、普通選挙権が達成されるまで、立ち止まる余地はない」

トクビルは「原則」と表現したが、普通選挙権に至るまでの前進は、直線的でもなかったし、平坦でもなかった。いわゆるジャクソン主義の時代(1820年代から1840年代まで)には、「財産要件」(有権者となるための財産所有要件)の撤廃のために、激しい政治的な争いが繰り広げられた。事実上、国を二分した流血の南北戦争の結果、かつて奴隷だった黒人たちに選挙権が与えられた。第1次世界大戦の際、婦人参政権の提唱者たちは、世界を民主主義にとって安全な場所にしようというウッドロー・ウィルソンの呼びかけを、自分たちの主張のために利用した。同様に、第2次世界大戦では、有色人種の男性が多く犠牲になったことから、裁判所は、黒人の投票を阻むために作られた障壁を壊し始めた。1960年代のベトナム戦争で多くの若者が命を落としたことから、選挙権取得年齢が18歳に引き下げられることになった。さらに最近では、多くの州で、州議会選挙区の不均衡な定数配分を是正し、1票の価値をより平均化するための申し立てが、連邦裁判所で長年にわたって争われた。この不均衡は、100年近くにわたる人口変動に起因するものだった。選挙権拡大に向けて一歩前進するごとに、激しい戦いが繰り広げられた。普通選挙への道のりは短くはなかったし、容易でもなかった。

*   *   *   *   *

ジョン・アダムズがジェームズ・サリバンに述べた参政権に関する意見(1776年)

「財産を持っている男性とともに、持っていない全ての男性にも投票権を認めようという気になれば、同じ論理で・・・女性や子どもにも、この権利を認めなくてはならないことになります。なぜなら、一般的に言って、女性や子どもも、全く財産を持たない男性と同じくらいの優れた判断力と独立心を持っているからです。・・・このことを考えると、閣下、有権者要件を変更しようとして、さまざまな議論や論争を引き起こすきっかけを作ることは危険です。この論争が終わることはないでしょう。新しい要求が持ち出されるでしょう。女性は投票権を要求し、12歳から21歳までの若者たちも、自分たちの権利がしかるべき扱いを受けていないと考えるようになるでしょう。そして、あらゆる一文無しの男たちもことごとく、州の法令のすべてにわたって、他の人たちなみの発言権を要求するでしょう。それはあらゆる区分を混乱させ、破壊し、あらゆる階級を打倒して単一の大衆レベルにしてしまうことになりかねません」

このアダムズ(1897年に2代目大統領に就任)の考えは、独立戦争の当時としては、一般的なものだった。それは合衆国憲法の草案作りの際も同じで、ここには投票権についての言及さえなかった。投票権については、英国本国も植民地も、財産要件を課していたが、その根拠を次のような2つの前提の上に置いていた。第1に、財産、特に土地を所有する男は、自分たちの富を守るために社会と政府を維持することに関して、「利害関係」を持つ。第2に、財産を持つ男だけがある種の「独立性」を持って、重要な政治的決定を下し、また、そのような事柄について議論し決定する議会の議員を選ぶことができる。17世紀の英国の軍人であり、政治理論学者でもあったヘンリー・アイアトンは、自由の基礎とは「議員を選ぶ者は、他者に依存しない、自由な人間であること」だと述べている。上流および中流階級の人々にとっては、そうした独立性は、財産所有なしにはあり得なかった。

この「独立」という概念が、(夫に依存する)女性、(両親に依存する)若者、(主人に依存する)奴隷や召使、(生活のために臨時雇いで働かなければならない)賃金労働者を除外することにつながった。さらに、多くの植民地は、インディアンに加え、カトリック教徒やユダヤ教徒も締め出していた。その上、投票をするために必要な財産の基準は、植民地によって異なっていただけでなく、それぞれの植民地内でも、田園地帯と町の中では違っていた。都市部に住む人々は、田舎の親せきよりも、所有する不動産は少ないかもしれないが、個人的な資産は多かったかもしれない。全体として見ると、米国独立戦争の時点で、投票できた白人の成人男性は、おそらく5人に3人の割合だったと、歴史家たちは推計している。この数字は英国よりも高いが、まだ相対的には、さほど高いと言えなかった。

独立戦争が及ぼした民主主義の影響は、しかしながら、その支持者の多くが予想したよりもずっと大きかった。1765年の印紙税暴動の後、「代表なくして課税なし」という戦いのスローガンが広まったが、これを厳密に解釈すると、納税していた多くの人々は、参政権を奪われていたことになる。そのような人々は、財産は無いが購入した物品の税金を払っていたか、財産を持っていても所有財産が投票に必要とされる最低水準に達していなかったかの、いずれかだった。1776年にメリーランド・ガゼット紙の1人の記者が「あらゆる自由の究極の目的は、自由な参政権を享受することである」と書いた。これが当てはまるとすれば、事実上、植民地の住民たちは、10人に8人の割合で自由を奪われていたことになる。

この論理は、英国闘争中の植民地の人々に通じるものだった。アダムズやほかの保守派の人々が、選挙権の制限を強く望んだように、かつての英国国王の専制政治に対する反乱は、投票権に課せられた財産要件に対する同じような反乱へとつながった。「代表なくして課税なし」のスローガンは、国王や英国議会に向けられたのと同じように、植民地議会や町議会にもまた、当てはまるものだった。1つの非民主的体制の代わりに、別の非民主的な体制を獲得するだけなら、だれも独立のために戦わないだろう。独立戦争の真最中に、マサチューセッツ西部の市民は、「本人自身か、法定代理人のどちらかが同意していない法律には、誰も拘束されることはない」と、きっぱり言った。

その結果、少なくとも一部の地域では、財産要件の代わりに、納税要件を用いることになった。国民が税金を収めれば、投票できてしかるべきである。なぜなら、彼らは投票を通じてしか、政府が権力を乱用し国民の自由を奪うのを防ぐことはできないからである。この結果、独立戦争の後、選挙権は確かに拡大したが、普通選挙にはほど遠かった。そして不動産ないしは動産を実際に所有しているか、最低限の税金を納めているかの、いずれかの財産要件によって、その後50年間にわたり、選挙権が制限され続けた。

しかし、財産所有によって、人は賢くなるのだろうか。自由を愛する気持ちや、公の問題についての正しい判断は、富によって左右されるのだろうか。ベンジャミン・フランクリンは、1776年の独立宣言と1787年の合衆国憲法の草案を作成した会議の出席者の中で、おそらく最も徹底した民主主義者だったが、そんなことはないだろう、と彼が考えていたのは確かである。

選挙権に関するベンジャミン・フランクリンの発言

「今日、ある男は、時価にして50ドルのロバを所有していて、彼には投票権がある。しかし、次の選挙の前にこのロバが死んでしまった。この間に男は経験を重ね、政府の諸原理に関する知識と人類に関する見識もさらに広がり、従って、統治者を正しく選ぶ資格も高まった。・・・しかし、ロバが死んでしまった以上、投票できなくなった。皆さん、教えてほしい。投票権は誰にあるのか。この男か、それともロバか。」

フランクリンのこの言葉は、その後、半世紀にわたり、すべての州で選挙権拡大を求める戦いが行われる中、再三繰り返されることになった。(建国から南北戦争に至るまで、投票資格の要件は、州政府に管理されていた。今日でも、憲法上のいくつかの規定に加えて、投票権に関する連邦法もあるが、選挙権を管理する第一義的な責任は各州政府にある。)各州の財産要件は、州から州へと後を追うように廃止され、1850年までに、すべて撤廃された。1855年までに、納税要件もまた廃止されたことから、白人成人男子の投票を妨げる経済的な障壁は、ほとんど残らなくなった。

学者たちは、こうなった理由をいくつか指摘している。まず、ジャクソン主義の時代に実施された民主主義的な改革により、多くの経済的特権が廃止されたことが挙げられている。また、合衆国が西部に拡大したことによって、いくつかの州が作られたが、そうした地域では、富が少なく、かつ辺境の平等主義の精神に満ちていた。そのほかの州では、産業と都市の大きな成長が、大きな労働者階級を生みだした。彼らは土地も、大きな私有財産も持っていなかったが、政治プロセスへの参加を要求した。地主たちがまだ支配していた南部諸州でさえ、都市部の中流階級や労働者階級の成長が、財産要件を伴わない投票権を求める声につながった。バージニア州リッチモンドの市民たちは、1829年の州憲法制定会議に請願書を提出し、過去にもあったが、外国軍の侵略から州を守る必要が生じた場合、土地を所有する者としない者の間で区別することはないだろう、と述べている。

リッチモンド市の非自由土地保有者の請願書(1829年)

「[財産要件は]、同じ地域社会の人々の間に、この上ない不愉快な差別を生み出している。財産要件により、市民の大半は、法律に拘束され、法律の維持のために自らの血と財産を捧げているのに、その制定にかかわる役割はすべて奪われている。財産要件は、公共への奉仕を考慮するのではなく、どれだけ私的財産を持っているかを理由に、一部の恵まれた特権階級に、この最高の特権を付与しているのである」

「危機が迫る非常時に、バージニアの若き州民たちは、いまいましいことに、区別されることはなかった。召集名簿を作成する際に、一切の吟味はなかった。自由民の仲間から外された者を、召集名簿から削るために土地台帳と照合することもしなかった。土地を持たない市民は、平時には不名誉にも選挙から締め出されたにもかかわらず、いざ戦時となると、彼らは戦場へと気前よく駆り出されたのである」

選挙権の拡大を背後で推し進めた、恐らく最も大きな力は、特定の政見を主張して選挙戦を戦う候補者を擁立した組織政党の勃興である。19世紀前半、アンドルー・ジャクソンの信奉者に率いられた民主党は、都市部の有権者を動員し、選挙権の拡大と財産要件の撤廃のために戦った。ライバルのホイッグ党は、選挙権に対する制限の維持を望んでいたが、それでは負け戦になると考え、投票権を獲得した人々の票と、いくらかの信頼を獲得することを期待して、この運動に加わった。

このようにして、1850年代までに21歳以上の大多数の白人男性が投票権を獲得したが、2つの非常に大きなグループが、まだ政治プロセスから排除されたままだった。すなわち、アフリカ系米国人と女性である。

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インディアナ州憲法制定会議での代議員の発言(1850年)

「普通選挙権についてわれわれが一般的に理解していることを基準にすれば、私に異議はない。・・・しかし、動議提出者の意図が、女性や黒人に対して選挙権の付与を拡大することであれば、私は反対する。『21歳以上の自由民であるすべての白人男性』という文言が、普通選挙権の尺度だと理解しているからだ」

南部の黒人奴隷の法的地位は、法律によって完全に抑え込まれ、彼らには投票権は無論のこと、発言する権利もなかった。居住地が北部か南部かを問わず、自由なアフリカ系米国人でさえ、投票はできなかった。一方、女性については、財産を所有し訴訟を起こすことを認める、いくつかの改正法が成立していた。にもかかわらず、女性は、法律上は、夫あるいは父親に従属しており、従って投票するにはふさわしくないと見なされていた。

南部諸州の奴隷制度を廃止するには、南北戦争を戦うことが必要だった。かつて奴隷だった男性に、法的地位と平等を与える取り組みの一環として、国は3件の憲法修正条項を成立させた。まず、憲法修正第13条は、制度としての奴隷保有を廃止した。憲法修正第14条は、初めて市民権を国民の特徴と位置づけ、それを合衆国で出生した人、あるいは帰化した人すべてに付与した。そして憲法修正第15条は、あらゆる州に対して、人種を理由に投票権を拒否すること禁止した。

残念なことに、奴隷解放の約束は、たちまちのうちに色あせてしまった。南部諸州が次々に、黒人を選挙から締め出す法律上や手続き上の障害物を設けただけでなく、人種隔離を後押しする法律を通じて、彼らを恒久的に劣等な状態に追いやってしまったからである。第二次世界大戦の際、白人と黒人が同じ軍隊に加わり、ファシスト打倒のために戦った時、初めて、米国内では皮膚の色を理由に諸権利を奪いながら、海外の人々の同じ諸権利のために戦うことなどできないということが、はっきりわかったのである。

第2次世界大戦中に連邦最高裁は、南部一帯で常識だった白人だけの予備選挙制度に対する異議申し立てを審理した。予備選挙では、各政党の党員が、11月の大統領一般投票(本選挙)での当該政党の公認候補を選出する。1880年代から1960年代まで、大部分の南部諸州では、民主党の予備選挙に勝利した候補者が本選挙での勝利を保証されていた。なぜなら、共和党は南部で非常に弱かったからである。このように、予備選挙は選挙のプロセス全体の中で、おそらく最も重要な位置を占めていたが、南部諸州は、政党は私的組織なので、黒人を党から除外し、予備選挙から締め出すことができるという勝手な虚構を維持していた。1944年、連邦最高裁はこの虚構を打ち崩し、アフリカ系米国人が正当な投票権を要求できるようにした。

スタンレー・リード判事 ― 「スミス対オールライト事件」での判決理由(1944年)

「予備選挙が現在のように、州と国の公選職を選ぶ仕組みの一部となっている以上、本選挙で適用される差別や権利剥奪の性格を判断する基準が、予備選挙にも同じく適用されるべきである。・・・合衆国は立憲民主主義国家である。その基本法は、すべての市民に対し、人種を理由にいかなる州からも制限を受けることなく、公選職を選ぶプロセスに参加する権利を付与している。選挙で人種差別を行うことを私的組織に容認するような選挙プロセスを州が作り上げて、この国民に与えられた選択の機会を無効にしてはならない。もし、憲法上の権利が、こうして間接的に否定されることがあれば、その価値はほとんどないと言えるだろう」

黒人が平等を求める戦いが終了したというには、ほど遠かった。1950年代から1960年代にかけて、マーチン・ルーサー・キング・ジュニア師、サーグッド・マーシャル判事たちが指導した偉大な公民権運動は、法廷や連邦議会議場の中で、人種差別を激しく攻撃した。その結果、投票権については、1964年の憲法修正第24条が投票権を得るために納税を求め、貧しい人々、特に黒人を投票から締め出していた人頭税を廃した。そして画期的な「1965年投票権法(Voting Rights Act)」が成立した。南北戦争から100年たって初めて、南北戦争後の再建を目指した修正条項(post-Civil War Reconstruction Amendments)が執行されたことになる。さらに、この法律は、選挙から黒人を排除する行為を標的にしただけでなく、連邦政府に対して、あらゆるレベルで、この法律を執行する権限を与えた。

「投票権法」の重要性は過小評価することはできない。それはアフリカ系米国人に投票権を与えることに成功したというだけでなく、事実上、投票権の多くを国の管轄下に置いたからでもある。ほかの国では中央政府が管理する政治機能の多くを、連邦制度の下では、州が担っている。すでに述べたように、投票は、州法の管轄下にあったし、今でも、そのほとんどはそのままである。1870年まで、投票要件はすべて、州政府によって決められていた。憲法修正第15条が、人種を理由に投票権を拒むことを、建前の上では、州に対して禁止したのが、この年である。その後の憲法修正条項によって、投票権が女性と18歳以上の国民に拡大され、人頭税が廃止された。投票権法は一段と踏み込み、明らかな差別がみられる州については、少数派集団が投票から締め出されないように、連邦登記官が有権者登録と投票にかかわる仕事を引き受けた。一部の州は、この1965年投票権法の条項によって、依然として縛られているが、日常的な選挙の運営の大部分は、再び州が行うようになっている。しかし、今でも州が選挙を運営しているとはいえ、国の基準と手続きには従わなければならない。

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セネカ・フォールズ会議での宣言(1848年)

「われわれは、男と女はすべて平等に創られたという事実は、自明のことだと考える―」

「人類の歴史は、女に対する絶対的な圧制の確立を直接の目的として、男の側から女に対して侵害と剥奪を繰り返した歴史だった―」

「男は、選挙権という、奪うことができない権利を、女が行使することを決して許さなかった―」

「男は、その制定時には、女に発言権が認められなかった法律に従うよう女に強要してきた―」

「男は、選挙権という市民として最初の権利を女から奪い、それによって、立法府に女の代表がいないようにし、すべての面で女を抑圧してきた―」

女性が、いつ選挙権を求め始めたのかは明らかでないが、独立戦争後、一部の州で、女性が折に触れて投票していたことを示す証拠が残されている。婦人参政権を含む普通選挙権の獲得に向けて本格的な運動が始まったきっかけは、一般的に、1848年のセネカ・フォールズ会議だと言われている。この会議で出された宣言は、明らかに独立宣言の大部分を丸写しにし、米国植民地に対するジョージ3世の虐政に関するくだりを削り、その代わりに、女性に対する男性の罪状を列挙している。しかし、1850年代の改革運動が支援できた重要な活動は、奴隷制度の廃止だけで精一杯だった。この運動の中で、女性は重要な役割を果たしたにもかかわらず、連邦議会がかつての奴隷に投票権を認めた時、女性は裏切られたと感じた。当時は、州政府がまだ投票権を管理していたため、女性たちは投票権を求める州議会でのロビー活動を開始した。ワイオミング準州が1869年、女性に選挙権を与えたが、1900年の時点で女性に完全な政治的平等を与えていたのは、4州に過ぎなかった。この運動が勢いを増したのは、1897年から1917年までの20年間にわたる、いわゆる進歩主義の時代で、女性選挙権の支持者たちは憲法改正を要求した。

合衆国は、民主主義を救うための戦いだと宣言して、第1次世界大戦に参戦した。このとき、海外で1つの理想を実現するという目的のために、米国民を戦いと死に追いやりながら、国内ではその理想を、国民の半数に対して拒否し続けるわけにはいかないという、政治的な英知が働いた。そうした憲法修正に当初は反対していたウッドロー・ウィルソン大統領が、一転、支持するようになった。連邦議会は1919年6月、憲法修正案を承認した。その後、1年足らずの間に、36州が憲法修正案を批准し、女性は1920年大統領選での投票に間に合った。

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かくして米国の法律が、すべての成人に投票権を保障した後、20世紀半ばの次の大きな成果は、有権者個人の票が単に票数として集計されるだけでなく、同じ州のほかの有権者の票の価値と見合うものになるよう保障したことである。合衆国憲法は明白に、上院議員の数は各州2人とし、下院議員の数は、10年ごとの国勢調査のデータに基づく各州の人口比率により配分すると定めてある。しかし、各州内で、下院議員をどのように選挙区に割り振りするかについては指針がない。合衆国憲法の草案が書かれた時、ジェームズ・マディソンは、州と連邦のいずれの選挙でも、1人の票はその隣人の票と、ほぼ同じ重みを持つような、公平な配分がなされるべきだと示唆していた。

一部の州は、有権者の間で、少なくともおおよその公平さを保つために、州議会の選挙区だけでなく、連邦下院議員の選挙区も定期的に線引きをし直した。そして、5分の3の州は、州議会の一方、あるいは両方の議院の定数を定期的に是正した。しかし、1950年代までに大きな人口変動があったにもかかわらず、12の州では30年以上にわたって、選挙区の区割りを改めなかったことから、1票の価値に大きな格差が生じた。例えば、小さなバーモント州では、州議会下院議員選挙区のうち最も有権者が多い選挙区は33,000人、最も少ない選挙区は238人だったが、それぞれ1人ずつ州議会下院議員を選出していた。カリフォルニア州では、州議会上院議員ロサンゼルス選挙区には、600万人が居住しているが、州内の、もっと人口がまばらな田園部の選挙区では、人口はわずか14,000人だった。このような歪みにより、都市圏や郊外圏の1票の価値は過小評価され、昔ながらの田園地帯の1票の価値は、過大評価されることになった。当然のことながら、州政府を支配する田園地帯の選挙区の議員たちには、定数を是正するつもりはなかった。是正すれば、権力を手離すことにもなるからだ。

立法府自身による変化を確保できなかった改革派グループは、憲法の「共和政体」の保障(第4条第4節)を根拠として、裁判所に訴えた。しかし連邦最高裁は、当初、この問題に関わることを拒否した。下院議員の定数配分に関する問題は、裁判所の権限の範囲を越える「政治的」問題であると見なし、これに関わることを伝統的に避けてきたからである。その後、1962年3月になって、連邦最高裁は、テネシー州の都市部に住む有権者が提起した訴訟を受理した。同州では、州憲法が10年ごとの定数是正を義務づけていたにもかかわらず、1901年以降、選挙区の再編がまったく行われていなかった。連邦最高裁がこのような訴訟の審理に同意したという事実だけで、多くの州議会が自発的に選挙区再編に動き始めた。再編成をしない州に対して、改革派グループは、州や連邦裁判所に、何十もの訴訟を起こし、強制的に定数是正を行わせようとした。

しかし、合衆国は連邦制度をとっていて、今日に至るまで、大統領選挙の際に、ある州の票は、他州の票と同じ重みを持っていない。米国の選挙制度では、州ごとに選挙人団の票数が決められている。選挙人団は、4年に1度集まって、一般投票によって決められた通りに、大統領に投票する組織である。小さなロードアイランド州の選挙人団は3票を持つが、この数は下院議員1人、上院議員2人の合計に等しい。同州の1人あたりの票の重みは、カリフォルニアやニューヨークのような大きな州よりも重い。連邦制度では、ほかの問題もいくつか、浮上している。例えば、連邦上院は州全域を代表しているが、それと同じように、二院制を取る州の立法府のいずれかの議院は、郡などの地理的構成単位を代表するといった仕組みを持てるのか。州が選挙区の線引きを行う際の1つの要素として、何らかの歴史的な分割線を考慮することはできるのか。連邦最高裁はどのような基準を適用するのか、という問題である。

実際、「グレイ対サンダース事件」(1963年)の判決で連邦最高裁が採用した基準は、「1人1票」という驚くほど明快で、比較的適用しやすいものだったので、司法としての指針を提供しただけでなく、広く国民の想像力を捉えてしまった。この問題を解決するための従来の公式はすべて、田園地帯対都市圏、旧入植者対新参者というように、異なるグループ同士を対立させるようなものばかりと思われた。しかし、「1人1票」には民主主義的な響きがあった。あらゆる人の1票がほかの人の1票と同じ重みを持つよう保障することに、一体、だれが反対できるだろうか。この方式を支持することは、民主主義と合衆国憲法を支持することを意味し、これに反対することは、卑しく狭量だと思われた。比較的短期間のうちに、全米のすべての州が、州の選挙区に加えて、連邦下院選挙区についても、公平な形で定数是正を行った。

アール・ウォーレン連邦最高裁長官
「レイノルズ対シムズ事件」での判決理由(1964年)

「市民の投票権の価値が下がれば、それに比例して、その市民としての価値も下がることになる。1人の市民の1票の重みは、住む場所によって左右されてはならない。・・・1人の市民、1人の投票有資格者が都市に住んでいるか、あるいは農場に住んでいるかによって、その重みが変わるわけではない。この点こそ、合衆国憲法の平等保護条項が明確に、かつ強力に命じているところである・・・」

「歴史的な経緯だけを理由にするにせよ、経済的、その他の集団的利害を理由とするにせよ、人口比に基づく議員定数の格差を正当化しようとすることはできない。・・・投票するのは市民であり、歴史でも経済的利害でもない。投票するのは人間であり、土地や、樹木や、牧場などではない。わが国が代議制政体をとる限り、そして、わが国の議員が国民によって直接選ばれ、国民の直接代表として政府の機関を構成している限り、自由に、かつ何ら損なわれない方法で議員を選ぶ権利は、わが国の政治制度の根幹である」

*   *   *   *   *

財産要件も人頭税も廃止されたし、有色人種、女性、18歳以上の市民に参政権が付与されて、投票権を求める戦いで、やっと勝利を収めた、と考える人がいるかもしれない。しかし、しばしば指摘したように、民主主義とは常に進化するプロセスであり、民主主義国家における個人の権利の定義も時間の経過とともに変わる。1820年代と21世紀の初めでは、米国市民の投票の仕方にも大きな違いがある。しかもこれは、民主主義の味方の英雄が選挙権の拡大を求め、反民主主義的な悪魔がそれを狭めようという、そんな単純な話ではない。

米国の歴史を通じて、いわゆる賢者たちは、衆愚政治を恐れてきた。これは、建国世代の人々の著作に広く見られるテーマである。今日でも、それが形を変えたものを、選挙プロセスの「浄化」を求める人々の間に見受けることができる。例えば、選挙登録を簡素化することは、制度の中に腐敗を招きかねないとして、しばしば非難される。読み書き能力の基準を緩和し、英語を話すことも、読むこともできない市民にも投票権を拡大することは、一部の人々には民主主義の勝利として歓迎されている。しかし、いろいろな論争に関する知識がほとんどない人々は扇動に乗せられやすいと心配して、これを非難する人もいる。

しかも、依然として奇妙な現実が存在する。選挙権の拡大にあれほど努力したにもかかわらず、米国の大統領選をはじめ各種選挙での投票率は、先進諸国の中でも最低の水準にとどまっている。例えば、2000年大統領選で投票したのは、有権者の50%に満たなかった。投票率が常に85%以上を維持していた19世紀後半から、ここまで数字が落ち込んだ理由については、学者によって意見がまちまちである。一部の歴史学者は、国民の日常生活の中で、政党の重要性が低くなったことを、投票率低下の理由に挙げる。あるいは資金が豊富な利益団体の肥大化がもたらした、テレビや新聞の広告を中心とする選挙戦に、人々が関心を失った結果とみる学者もいる。投票に行かなかった人々にその理由を尋ねると、さまざまな回答が返ってくる。自分が1票を投じたからと大勢に影響がないと思う人もいれば、自分に影響する争点はなかったと考えた人もいた。そして単に、関心がないという人もいた。これは、普通選挙を求める国内の長い歴史的な運動のことを考えると、嘆かわしい言葉ではある。

技術上、手続き上の問題も残っている。2000年大統領選では、フロリダ州の選挙管理人が、5万枚もの投票済みの票を廃棄してしまった。その主たる原因は、投票用紙の穴の開け方がまずかった有権者が大勢いて、誰に投票したのかはっきりしなくなったことにあった。この時、大統領選全体の行方は、フロリダ州の数百票にかかっていた。選挙人団という古めかしい制度を使っていたためである。民主党も共和党も、手続きの有効性に異議を申し立てるため、すぐに裁判所に提訴した。連邦最高裁は、最終的に、フロリダ州の票を、ひいては選挙の勝利を、ジョージ・W・ブッシュ側に与えたのである。

この2000年大統領選で選挙人団は、一般投票の得票数で過半数を取れなかった大統領を誕生させた。これは初めてのケースではなかった。米国民は選挙人団の仕組みを熟知している。この制度は、米国の民主主義の中で、必ずしも、最も効率がいいとか合理的だとは言えぬ側面の1つであり、直接、大統領選出を任せられるほど、国民が信用されていなかった時代の遺物である。しかし、選挙人団制度は、連邦制度の中で小さな州の地位を確保するという意味で、今日でも貴重であり、実際問題としては、これが改められる可能性はほとんどない。

2000年大統領選での投票集計の問題は、いくつかの非常に重要な問題をあいまいにした。民主党も共和党も、票の公正な集計を望んでいた。両党はともに、合法的に投票され、投票用紙に(きちんと穴が開いていなくても)パンチした跡がついた票は、すべて集計することを求めたが、それを決めるための技術的な判断基準について意見が違っていた。メディアの中には、フロリダ州は問題の処理にあたり、少数派グループの有権者を差別している、と大きく報道したところもあった。だが、最終的に無効とされた票の大多数は、中流階級の年配の白人有権者が投じた、というのが事実だった。しかも、そのほとんどの人は、投票用紙のパンチの仕方が、よく分からなかったのである。当時も今も、これが数万に及ぶ票を無効にするための策略だった、などと言い出す人は1人もいない。また、実際に集計が始まる時まで、この投・開票システムが完璧でないことに気がついた者は、誰もいなかった。そしてフロリダ州は、このような大失敗が二度と起きないようにするため、州議会の次の会期に選挙システムの改革を行った。

このような選挙、つまり、一般投票で最多の票を得た候補者が敗北するというような選挙は、米国ではまれである。そして、米国民がジョージ・W・ブッシュを勝利者として問題なく受け入れたことは、国民が米国の選挙制度の正常な機能に信頼を寄せていることの証しの1つである。この間、街頭で暴動が起きることもなかったし、バリケードが張られることもなかった。民主党のアル・ゴア大統領候補は、票の集計方法に関する連邦最高裁の決定を受け入れた。

しかし多くの国民は、2000年選の接戦ぶりによって、各人の1票が重要であることを再認識させられた。5つか6つの州で、得票率がわずか数%変動するだけで、選挙結果が逆になる可能性もあるのだ。こうしたことから、将来の米国国民は、「被統治者の同意」という概念のまさに根幹にあるこの重要な権利を、以前ほど、当たり前とは思わなくなるだろう。

参考文献:






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