|
―第5章―
|
規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるので、 人民が武器を保有し、携帯する権利は、これを侵してはならない。
合衆国憲法修正第2条で述べられている武器を携帯する権利をどのように解釈するかは、人民の権利に関連するあらゆる問題の中で、最も論議を呼ぶテーマの一つである。表現の自由の権利や、犯罪容疑者の権利を守るための権利とは異なり、連邦最高裁判所がこの問題を扱ったことはほとんどない。従って、憲法修正第2条の文言についての、権威ある法的解釈はまだない。しかし、米国社会や連邦議会、州議会は、憲法修正第2条の意味について、憲法は銃の法的規制を認めているのかどうか、そしてもし認められるとすれば、それはどの程度までなのかについて、恒常的に議論を戦わせている。厳しい規制を支持する人々は、高い犯罪率や、毎年、銃の使用によって意図的、ないしは偶発的に殺される人々の数を指摘する。一方、厳しい規制に反対する人々は「銃が人を殺すわけではない。人が人を殺すのだ」と主張する。しかし、個人が所持する銃の数において、米国は世界の大半の国々を上回っているという事実に変わりはない。また、ハリウッド映画やテレビ番組の影響によって、米国人とは銃を携帯し、武器を用いた暴力で争いを解決する人々だという大いに誤ったイメージが生まれている。
こうした論争が繰り広げられているため、憲法修正第2条の起源や、憲法修正第2条が権利章典に盛り込まれた理由や、何百万人もの米国民は、犯罪活動ではなく、狩猟やスポーツ競技などに使うために、銃を所有しているという事実は、白熱する議論の陰で忘れられがちである。銃の規制をめぐる賛成論と反対論の間の舌戦は、過熱する一方だが、道を照らす光にはほとんどなっていない。
現代の銃の原型は、1500年代半ばに開発されたマスケット銃である。現代のライフル銃と比べると、マスケット銃は扱いにくい厄介な武器だったが、戦闘では非常に有効だった。17世紀中ごろの英国の信教と革命の時までに、マスケット銃とその小型版であるピストルは、紳士階級の間に広く行き渡るようになった。英国民は、1688年の名誉革命でジェームズ2世を王位から追放した時に抱いていた不満の一つは、国王が英国にカトリック教を復活させようとして、「カトリック教徒が法に反して武装し、登用されているときに、プロテスタントを武装解除させた」ことにあった。1689年、英国の権利章典が制定されたとき、銃を所有する権利は、国民の権利の一つとなったようだ。
|
(Commentaries on the Laws of England)」(1765年) 臣民の第5番目の、そして最後の副次的権利は・・・自らの身分や階級にふさわしい形で自衛するために、法律で認められた武器を自衛のために所持する権利である・・・。それはまさに、社会と法律の制裁は、圧制の暴力を抑制するのに不十分であることがわかったときに、しかるべき制約の下で、人々に認められた抵抗と自己保存のための自然的権利である。 |
上記の記述は、しかしながら、この議論の中でしばしば見落とされる歴史的事実を指摘している。つまり、英国では銃の所有が厳しく規制されていたということである。武器の所有を認められたのは貴族と紳士階級だけであり、一般市民は武器を携帯する権利を持っていなかった。
近年の研究から明らかなように、英国の植民地(新大陸)でも、個人による銃の所有は、比較的制限されていた。しかし、敵対する先住民の脅威があったので、入植者たちは自らの身を守る必要があった。そして開拓が進んだ地域は、職業軍人で構成される正規軍ではなく、民兵に頼っていた。すべての健常な男性は、共同で防衛の任に当たることになっていた。そして地域社会が、武器の貯蔵庫を持ち、それらの武器は、訓練や実際に必要とする際に個人に配られ、使用後は武器庫に戻された。入植地がまばらになり、個人の農場が市街地から遠く離れている場合には、個人的な自衛のため、健常な男性は少なくとも1丁の銃を保持することが必要になった。女性もまた、武器の使用方法を学ぶこともしばしばあった。
米国の植民地時代と建国当初の時期を通じて、政府は銃の所有を厳重に規制した。ところが地域の法令は、18歳から45歳までの男性に対して、銃を所有して民兵に参加できるようにすることを、しばしば義務づけていた。その一方で、規制はカトリック教徒や奴隷、季節労働者など、特定の集団が銃を所有することは一切禁止していた。
新たに創設された合衆国(the United States)は、訓練の不十分な大陸軍を、各州の民兵で補強しながら、大英帝国に対する独立戦争を戦った。のちに、民兵の役割はかなり大げさに誇張され、ジョージ・ワシントンが政治目的のために民兵を称賛することになった。だが、実際のところ、民兵は、管理面でも軍事面でもワシントンを悩ませ続けた。民兵はしばしば訓練が不十分で(大半の訓練は、村の牧草地を行進したあと宴会を開くものだった)、規律にいたっては、さらにお粗末だったため、信頼できる兵力として当てにすることはできなかった。
|
民兵に頼ることは、間違いなく、壊れた杖にもたれて休むようなものだ。男たちは、まさに愛情に満ちた家庭生活の場から引きずり出されてくる。彼らは武器の轟音(ごうおん)にも慣れておらず、軍事技能のことは、何一つ知らない上、自信が欠如している。このため、常時訓練を受け、規律を持ち、知識も武器も勝っている軍隊と対峙したとき、彼らは怖気づき、自分の影を見て逃げ出さんばかりになる・・・。民兵が、総じて非常に役に立ったのか、それとも有害だったのかについて、宣誓して明言するよう求められるなら、私は後者に同意するだろう。 |
それにもかかわらず、新しい国家が独立戦争を通じて40万人以上の人員を動員できたというだけでも、民兵はある意味で確かに有益だった。また、ほぼすべての町や村の男たちが、ワシントン将軍の指揮の下で軍務に就いたという点もまた、民兵は、この独立戦争を文字通り地域に立脚したものにするのを助けた。
1790年代後半、民兵に人気があったものの、諸州は銃規制を廃止しなかった。誰が銃器を所有できるかを規制する法律は、独立戦争の最中も戦争後も存続した。州法は、個人の所有者に対し、軍事目的で必要とする場合、武器を政府に引き渡すことを義務づけていた。ペンシルベニア州では、州と新しい国家に対する忠誠を宣誓した市民だけが武器を所有することができ、忠誠宣誓を拒否した者は武器の引き渡しを強いられる可能性があった。多くの州で、カトリック教徒、ユダヤ人、奴隷、季節労働者、資産のない白人による銃所有を禁止する規制が続いていた。さらに州政府は、あらゆる銃器の種類と所有者の一覧表を作るための銃調査を、19世紀に入ってもしばらく実施していた。ある学術研究によれば、1790年、銃を所有する資格を持つはずの白人の成人男性のうち、実際に銃器を所有していた者は14%にも満たなかった。従って、諸州が憲法修正第2条を採択した当時、13州全体で通例となっていたのは、銃器を無制限に所持する権利ではなく、相当な銃規制だったと言ってよい。
憲法修正第2条をめぐる経緯は、常備軍に対する米国市民の不信感との関連からも理解しておく必要がある。英国から持ち込まれたこの不信感は、1776年の独立までの20年間の英国政府の振る舞いによって増幅された。トマス・ジェファソンは独立宣言の中で、ジョージ3世に対して植民地住民が抱いている不満を挙げ、「彼は、平時において、われわれの議会の同意を得ずに、われわれの間に、常備軍を置いた。彼は、軍部を文民権力から独立させ、それよりも上位に置こうとした」と書いている。そのほかにも、独立宣言で挙げられたいくつかの不満は、米国の土の上に常備軍が駐留していること、そして、英国が米国市民の武器と弾薬を没収しようとしていたことに直接関連するものだった。
1787年に開催された憲法制定会議で、代表たちは、民兵と比較した場合の常備軍の利点について討議したが、陸軍と海軍を募集し維持する権限を議会に認めただけで、武器の個人所有の問題は取り上げなかった。しかし、憲法の批准をめぐる議論の際、憲法反対派は、草案には権利章典が欠けていると不満を訴えた。彼らが抜け落ちていると主張した諸権利の一つが、民兵の要員として一般市民が武器を保持する権利だった。常備軍に対する昔からの恐怖は消えていなかった。反連邦派は、強力な中央政府が、常備軍の力を背景に、人民の自由を蹂躙するのではないかと心配したのである。多くの州で、憲法の批准に関する合意の一部には、権利章典を早急に憲法に追加する要求が含まれていた。その中で挙げられた権利の一つが、民兵のために銃を所有することだった。
|
人民は、武器を保有し、携帯する権利を持ち、武器の訓練を受けた人民の集団から成る規律ある民兵は、自由な国家の適切で自然で安全な防備である。常備軍は、平時においては自由にとって危険であり、従って、周囲の状況と共同体の防衛が許す限り、常備軍を維持することは避けるべきである。そして、いかなる場合であれ、軍隊は、文民権力に完全に従属し、その統治の下に置かれるべきである(と我々は信じる)。 |
憲法の下で開かれた第1回連邦議会は、実際に権利章典を起草し、1791年に諸州はそれを批准した。憲法修正第2条となったものの内容に関しては、文言に多少手が加えられた以外、議論はほとんどなかったようだ。一部の学者が指摘しているように、起草者たちはいくつかの根本的な前提で合意していた。つまり 市民は、州と国家を守るために、民兵を務める憲法上の権利を持つべきであり、民兵を存続可能にするために、個人は武器を所有する権利を持たなければならない、という前提である。当時、憲法の修正条項の重要性は、個人の権利を保障することにあったのではなく、むしろ、州と中央政府が持つべき力の均衡をめぐる、連邦主義という、より大きな議論の一部として捉えるべきである。憲法は、連合規約の下で存在していたものよりも、はるかに強力な中央政府を規定していたが、常備軍に支えられた強力な国家に対する懸念は、依然として存在していた。そして民兵は、外部からの攻撃に対してだけでなく、反連邦派が抱く最大の懸念が仮に現実のものとなった場合、堕落した国家そのものに対して身を守る手段を、州と州民に提供するものでもあった。
こうした感情を踏まえ、1792年、連邦議会は統一民兵法(Uniform Militia Act)を可決し、この中で、民兵を務める責任がある者を、18歳から45歳までの「すべての健常で自由な白人男性市民」と定め、資格のあるすべての市民に対して、自分の武器や弾薬その他の備品を用意するよう呼びかけた。
|
・・・民兵に登録されたすべての市民は、良好なマスケット銃、ないしは火打ち石銃、適切な数の銃剣とベルト、予備の火打ち石2つと、ナップザック、・・・弾薬が24発以上入った箱を収めた袋を用意し、・・・各弾薬は適切な量の火薬と弾丸を含むものとする。 |
この法律は、多くの意味で、民兵動員運動の頂点を迎えたと言える。そして数年のうちに、民兵は役に立たないというジョージ・ワシントンの評価が、驚くほど的確だったことが判明した。州民兵は、インディアン部族との戦闘で何度か勝利を収め、1794年のウィスキー反乱でも相応の力を発揮したが、州民兵はジョージア州とバージニア州で、少なくとも2度にわたり、危うく連邦軍と衝突しそうになった。一般市民による民兵を評価する声があったとしても、1812年の戦争で、お粗末な働きを見せたあと、そうした声は完全に消滅した。その結果、1840年代までに、憲法修正第2条や1792年民兵法に盛り込まれていた民兵の構想は、とうの昔に消えうせていた。19世紀を通じて、地元の民兵たちは、召集と称して集まり続けていたが、歴史学者たちが指摘しているように、その実態は、女性陣の前で気取って歩いてみせたあと、近くの酒場に押しかけて、長い午後を過ごすにすぎなかった。
1901年、セオドア・ルーズベルト大統領は、この制度の改革を呼びかけ、「われわれの民兵法は、時代遅れで、役に立たない」ときっぱり述べた。連邦議会は1903年統一民兵法を可決した。同法は、要するに「民兵法」というその名称にもかかわらず、独立戦争当時に一般的だったような民兵を廃止する法律だった。実際、近代戦は、最新の武器で訓練された練達の兵士を必要としていた。この法律は、正規軍と、1903年に設立された州兵に、こうした兵士を供給するためのものだった。州兵は、多くの点で、かつての統制のない民兵から派生したものだが、今では、はるかに規律と訓練を持つ存在になっている。なぜなら、州兵の訓練計画は、現在は正規軍によって設定された高い基準で行われているからである。州兵は、連邦政府から武器を支給され、個人的には、武器を所有していない。
歴史的な背景に照らして憲法修正第2条を文字通りに解釈すると、民兵として務める目的で武器を保有し携帯する権利は、もはや適用できないように見えるだろう。南北戦争よりかなり以前から、(州兵ではなく)古い、統制もない民兵を動員した州は一つもない。さらに、軍務に服する際、個人が自分で武器を用意する必要性がなくなってからも久しい。歴史学者のロバート・スピッツァーが述べているように、「憲法修正第2条は、基本的には、現代のアメリカの生活にそぐわなくなっている」のである。
憲法起草者の当初の意図という観点から見れば、この指摘はまさに正しいのかもしれない。しかし、民兵に関して時代が変わったように、個人の銃所有に関しても時代は変わった。憲法修正第2条が、その当時何を意味していたにせよ、今日、それは全く新しい意味を持つようになっている。
現在の議論に目を向ける前に、ここで立ち止まって、連邦最高裁判所が、憲法修正第2条とその意味を、どう言っているか、考えてみるべきだろう。つまるところ、あらゆる国民の自由に関しては、国の最高位の裁判所が、その憲法上の文言の意味を、権威をもって決定してきたからだ。しかし、憲法修正第2条に関しては、奇妙な沈黙がある。この問題が連邦最高裁で審理されたことは数回しかなく、連邦最高裁の判決は、一貫してはいるものの、現代の議論には直接言及していない。
「合衆国対クルークシャンク(Cruikshank)事件」(1876年)の審理で、連邦最高裁は2つの原則を示した。第1の原則は、憲法修正第2条は、何ら銃規制の障害にはならないという考え方であり、第2の原則は、憲法修正第2条は、連邦政府の権限に適用され、州には適用されないという考え方である。言い換えれば、憲法修正第2条が、銃規制にどのような制限が加えているとしても、その制限は州には適用されず、州は銃を規制する無制限の権限を持つように見える。
この10年後、連邦最高裁は「プレッサー対イリノイ事件」(1886年)で、州の権限に言及し、準軍事的組織が、知事の認可なしに訓練や行進を行うことを禁止した州法を支持した。そして連邦最高裁は、再び、憲法修正第2条は連邦政府にのみ適用され、州は個人による武器の所有と使用を自由に規制できる、と述べた。武器を所有し携帯する権利は、民兵が必要としているかに限って判断するという考え方が示された。連邦最高裁はこの考え方を、州による銃器の規制に異議を唱えるそのほかの訴訟でも、繰り返し表明している。
憲法修正第2条に関して連邦最高裁で審理された最も重要な訴訟は、1934年の「合衆国対ミラー事件」である。これは、州境を越えた各種武器の運搬を規制する1934年全国銃器法(National Firearms Act of 1934)の合憲性への異議申し立てだった。この事案では、銃身を短く切った未登録の散弾銃(強盗がよく使う武器)を、州境を越えて運搬した罪で有罪判決を受けた2人の男が、憲法修正第2条に基づく権利を侵害されたと訴えたのである。連邦最高裁は、判事全員の一致した見解として、この連邦法と議会の銃規制に関する権限を支持し、憲法修正第2条は、民兵を組織するという当初の意図に即して解釈されなければならない、と念を押した。
|
この場合「銃身の長さ18インチ未満の散弾銃」を所有ないし使用することが、規律ある民兵の維持ないしはその効率性と何らかの合理的な関係があることを示すような、どのような証拠もない以上、われわれは憲法修正第2条がこうした武器を所有し携帯する権利を保障していると言うことはできない。当然のことながら、この武器が通常の軍装備品の一部であるとか、その使用が共同防衛に寄与するなどということは、司法判断の範疇ではない。 |
連邦最高裁が下したどのような判断も、民兵と全く無関係な銃の個人所有が違法かどうかの問題には触れていない。実際、連邦最高裁は1994年のある訴訟で、「この国には、私的個人による広範な合法的銃所有の長い伝統がある」と述べている。しかし連邦最高裁は、この長い伝統が、憲法修正第2条ないしは憲法のそのほかの部分によって、何らかの形で保護されているとは、一度も言っていない。
現代の議論は、まさにこの問題をめぐるものである。つまり、米国民は、もはや存在しない民兵とは別の文脈で、武器を所有し携帯する憲法上の権利を持っているのだろうか。最近、その議論は新しい局面に入った。ほとんどの歴代政権は、ミラー事件での連邦最高裁判決が有効である限り、憲法修正第2条は個人の権利を明確には規定していない、という見解をとってきた。しかし、2002年にジョン・アシュクロフト司法長官は、銃規制に関する訴訟に関する政府の上訴趣意書の中で、憲法修正第2条は、武器を携帯する個人の権利を実際に明示している、とジョージ・W・ブッシュ政権が考えていることを示唆する記述を付け加えた。この政策が、憲法修正第2条をめぐる今後の訴訟における連邦最高裁の判断に影響を及ぼすかどうかは、まだ判断するのは早過ぎる。
武器を所有し携帯する当初の権利は、民兵に関連していたものの、米国民は、辺境での自衛や狩猟、のちには射撃競技をはじめとするスポーツなど、ほかの理由で武器を所有し携帯した。1800年代、米国西部の多くの地域は、事実上無法地帯だった。家畜泥棒や追いはぎの一団がうろつき回り、牧場主や旅行者を襲った。連邦保安官と地元の保安官がある程度、警護の任務にあたったが、多くの場所では、自力防衛だけが真の防衛手段だった。19世紀には、辺境がさらに西へ移動し、19世紀末には完全に消滅したものの、銃の所有は多くの人々にとって、馬や財産を所有できることとほぼ同じような、個人的「権利」になっていた。人々は、州がその所有を規制し、妥当な根拠に基づいて制限することもできる(重罪で有罪判決を受けた者は、出所後、銃器を所有できない)ことを認識していた。
1960年、法律学教授のスチュアート・ヘイズは、個人の銃所有は憲法修正第2条で保護された特権であり、それを民兵だけに関連づけたそれまでの判決は誤りだとの考えを初めて示した。ヘイズは、憲法修正第2条は、民兵のどのような任務とも全く無関係に、個人が銃を所有する権利を、主として恐らく自己防衛のために、保護していると主張した。ヘイズはさらに、憲法修正第2条は市民の「革命権」を創設しており、武装した市民は、政府が不当な形の行動を取っていると見なした場合、武装反乱を起こすことができる、と論じた。要するに、憲法修正第2条の真の目的は、独立戦争当時の愛国的な世代によって行使された、暴政に対する反抗権を、将来の世代のために維持することである、というのがヘイズの主張だったと思われる。
ヘイズがこの論文を発表してから3年後、米国民を大きな衝撃が襲った。テキサス州ダラスで、ジョン・F・ケネディ大統領がリー・ハーベイ・オズワルドに暗殺されたのである。オズワルドは、大統領の暗殺に使用したライフル銃を、全米ライフル協会(NRA)の機関誌『アメリカン・ライフルマン(American Rifleman)』に掲載されていた通信販売広告を見て購入していた。そして2日後、オズワルド自身も、隠し持った拳銃をダラス市警察本部に持ち込んだジャック・ルビーによって射殺された。
ヘイズの論文とケネディの暗殺は、憲法修正第2条の本来の意味と現代における意味をめぐる、果てしない学術的論争を引き起こした。しかし、さらに重要なことは、銃規制法の強化に賛成するにせよ、あるいは反対するにせよ、さまざまな政治団体が、この憲法論争に加わったことである。それ以来、銃火器を所有する「憲法上の権利」を主張する銃擁護派と、銃所有の規制を求め、なんらかの「権利」があることを否定する人々の間で、激しい論争が繰り広げられている。
NRAとその支持者は、個人が武器を所有する権利は、憲法修正第2条に埋め込まれており、それは絶対的な権利であり、最低限の規制以上のあらゆる規制はその権利を縮小させ、最終的にその権利は完全に奪い取られることになる、と考えている。この主張は、狩猟は米国の伝統であるとか、市民は犯罪者から身を守る必要があるといった言い方をされることが多い。もっと過激な銃擁護派の中には、銃規制法の背後にある本当の理由は、市民を武装解除し、独裁的な政府が完全に支配して、人民のすべての権利をなくすことができるようにすることだと信じている者もいる。そうした集団の一部は、現代版「民兵」を自分たちで組織し、自分たちの活動は憲法修正第2条によって完全に保護されている、と主張している。
一方、銃所有の反対派は、その主張の論拠として、毎年何千人もが銃で殺されており、その多くが家庭内の争いや事故によるものである点を挙げる。また、精神に異常を来した者が簡単に武器を手に入れることができる現状も指摘する。例えば、1999年4月20日、10代の少年2人が銃4丁を持ってコロラド州リトルトンのコロンバイン高校に侵入した事件である。2人は数分のうちに生徒12人と教師1人を殺害し、23人を負傷させたのち、自分に銃口を向けた。銃規制賛成派にとって、これは憲法上の権利が関係する問題ではない。実際、銃規制の擁護派は、実に幅が広いが、銃の個人所有を完全に非合法化せよと求めている者はほとんどいない。むしろ彼らは、銃を購入できる者の制限、武器とその所有者の登録、拳銃入手に求められる訓練要件の強化、個人が所有できる武器の種類の制限―などを目的とするさまざまな法律を提案しているのである。特に、最後に挙げた武器の種類の制限は、警察官に支持されている。警察官たちは、自分たちが対峙する犯罪者の方が、より優秀で殺傷力の大きい武器を持っている場合が多い、と訴えている。彼らは、本物のハンターが使用するのはライフル銃か散弾銃であって、自動小銃ではない、と主張している。
目下繰り広げられている論議には、いくつかの争点が含まれている。そして、擁護派、反対派、双方の論拠をならべて見せることはこの論争を理解する助けとなるが、この論争の激しさやそこに向けられている感情的エネルギー、複雑な政治事情までを、紙面上で再現することはできない。以下に、この論争の重要な論点を簡単に述べる。
個人主義―銃擁護派の主張によれば、米国は長い間、個人の権利が国家権力から守られている民主的な統治と社会を実現し、享受してきた。市民には自分の意見を述べたり、多数派とは異なるやり方で礼拝したり、犯罪で告発された時に一定の権利を享受したりする資格があるのと同様に、個々の市民は銃を所有する権利を持っている。憲法修正第2条は、権利章典のほかの部分と一体のものであり、建国の父パトリック・ヘンリーが言ったように「偉大な目的は、すべての者が武装することである。・・・誰でも可能な者は、銃を持てばいい」のである。
しかし、この主張は、米国ではいかなる憲法上の権利も絶対ではない、という事実を無視しているように思える。例えば、言論の自由でさえ、裁判所によって制限されてきた。また、銃規制賛成派は、憲法修正第2条の採択よりかなり以前から、無制限の銃所有ではなく、厳重な規制が通例だったこと、そして武器を携帯する権利が憲法修正第2条の文言自体によって制限されていることを、裁判所は一貫して支持してきた点を指摘する。かくして彼らは、武器を携帯する権利は個人的権利ではなく、団結して民兵を組織する場合に限り認められる、人民全体の権利である、と主張するのである。パトリック・ヘンリーの言葉の引用に関して言えば、実際に彼は民兵について述べている。
|
もし同じ権限を持つのであれば、連邦議会と同様に彼ら[州]も訓練し武装させることができないだろうか。そうすれば、われわれの民兵は、2揃いの武器や2揃いの連隊やその他もろもろを持つことになり、こうして、莫大な経費をかけて、われわれは二重に武装することになるだろう。偉大な目的は、すべての者が武装することである。だが、人民が2揃いの武器やその他の費用を払えるだろうか。誰でも可能な者は、銃を持てばいい。だが、我々は、経験から学んだ。武器を持つことは必要であり、またわれわれの議会は長年にわたり一連の法律によって、完全武装の民兵を持つことに努めてきたが、依然として、実情とは程遠い、ということを。 |
「人民(The People)」の意味―憲法修正第2条の「人民」という言葉は、例えば憲法修正第1条の「人民が平穏に集会する権利」など、ほかの個所と同じ意味を持つのだろうか。もしそうだとすれば、住居と身体の安全を保障される憲法修正第4条の権利を持つのと同様に、「人民」は銃を所有する権利も持つことになる、と論議は展開していく。
この主張に対する答えは、裁判所が一貫して、憲法修正第2条は別物であり、その言葉は異なる意味を持っている、と述べてきたことである。憲法修正第2条が採択された当時でさえ、州法は銃所有を特定の「人々(people)」、すなわち軍務に服することができる18歳から45歳までの者に制限していたのである。
自己防衛 ― この主張は次のようなものである。歴史的に見て、米国民は自らの身を自分で守ってきた。そして辺境では、インディアンや家畜泥棒、そして他の略奪者や捕食動物からの攻撃を撃退するために、銃は不可欠だった。現代社会でも、人々は強盗や強姦、暴行、住居侵入などから自分を守ることができなければならない。犯罪は、現代の都市生活では現実の問題であり、それは、辺境を開拓した世代が直面した危険と全く同じである。自己防衛の権利は、独立宣言にうたわれた生命、自由、幸福という自然権の一部であり、銃の所有はその自然権を守ることのできる手段である。
ここでの争点は、実際には憲法修正第2条ではない。なぜなら英米法は、あらゆる個人は身体への危害や財産の略取から自らを守る権利を持つことを、長らく認めてきたからである。攻撃してくる者を銃で撃ち、死なせた場合、その行為は、憲法上の権利としてではなく、刑法上の問題として免責されるだろう。憲法修正第2条は、この伝統的な権利を拡大ないしは縮小することを意図したものでは全くなかった。そして銃規制賛成派が、犯罪者から自分の身を守る能力を個人に与えてはいけない、と主張したことは一度もない。
|
(Model Penal Code and Commentaries)(1985年) 人間は、自分の身体、住居、あるいは財産を守るために、そのいずれかに対して、既知の重罪を明らかに犯そうとしている・・・1人、あるいは複数の者を力で撃退することができる。そのような場合、敵対者から退避する義務を負うことはなく、危険から脱するまで敵対者を追撃することができる。そして、両者の衝突により、図らずも殺してしまった場合、この殺人は正当と認められる。このような種類の場合の自己防衛の権利は、自然法に基づいており、どのような社会法によっても無効にはならず、また無効にすることもできない。 |
革命権 ― 法律上適格な国王に対する革命から誕生し、国民が幼少期から、永続的な警戒は自由の代償だと教えられる国である以上、憲法修正第2条は革命権を支持しているという主張が興味を引かないわけはない。1世紀以上も前、アクトン卿は、「権力は腐敗しやすいものであり、絶対的な権力は絶対に腐敗する」と言明した。憲法と権利章典の起草者たちは、アクトン卿の言葉そのものは耳にしたことがなくとも、その考え方を完全に理解していた。あらゆる政府は、たとえ民主的なものであれ、権力を蓄積する傾向があり、その際、その権力を弱めようとする一切の試みを退けようとするだろう。政府と対峙したとき、非武装の市民は、自分たちの自由を守ることができないだろう。武装した市民は、1776年に植民地住民がそうしたように、抵抗することができるし、そうするだろう。しかし、ハーバード大学の法科大学院長で、著名な学者のロスコー・パウンドは、この主張を現代世界に当てはめることの難しさを指摘している。
|
(The Development of Constitutional Guarantees of Liberty)(1957年) 市民が政府に戦争をしかける法的権利は、容認することができないものである・・・。今日の都市産業社会で、政府の抑圧に抵抗できるようにするために有効な武器を携帯する一般的権利は、権利章典全体を否定するような超法規的な支配を犯罪集団が行使すること意味するだろう。 |
さらに歴史学者たちは、米国独立戦争は政府に対する武装蜂起ではなく、連合諸邦と大英帝国という2つの政府の間の戦争だった、と主張するだろう。アメリカ革命は、大陸会議が各州政府の支援を得て組織・遂行したものであり、武装した個人はもとより、移動する民兵団が行ったものでもない。今日、圧倒的多数の米国民は、政府に影響を与えたり制限を課したりするために、投票や政治的利益集団、自由な出版、裁判所など、容認された民主主義の手法を用いている。米国政府を武力で抵抗すべき専制政府だ、とする末端の過激派に賛成したり当惑したりする米国民はほとんどいない。実際、米国史の中で、憲法の下で、市民が大規模な反乱を起こしたのは、南北戦争のときだけである。そして今日、南部諸州が、革命権を持っていた、と主張する者はほとんどいないだろう。実際、憲法は連邦政府に、反乱を鎮圧する権利と権限を明確に与えているのである。
銃所有の普及を提唱する人々は、個人主義や自己防衛などの論議に乗じて、連邦議会や州議会がより厳しい銃規制を制定することを妨げると同時に、銃の個人の所有は、実際に憲法で認められた権利だと米国民に説得しようとする。銃所有の提唱者たちは、NRAの主導の下で、連邦議会と州議会の議員や新聞や一般市民に向けて、武器携帯の権利を声高に唱える手紙やパンフレットを大量に送りつけている。
|
彼ら[政府]は、われわれが武器を携帯する権利を奪い取ろうとしている。・・・銃禁止派は、要するに諸君を嫌っているのだ。諸君に銃を持たせたくないのだ。諸君の銃を無理やり政府に引き渡させるまで、彼らはどんなことでもするだろう。・・・もし、NRAが憲法修正第2条で保障されているわれわれの自由を回復できなければ、信仰の自由、言論の自由、理由のない捜索や押収からの自由に対する攻撃が始まるだろう。・・・ |
NRAや米国銃所有者協会(GOA:Gun Owners of America)などの団体が、憲法修正第2条が個人の銃保有の権利を保障している、と一般市民を説得するための努力には、論文コンテストや手紙書き運動のほか、連邦議会や州議会が制定しそうなあらゆる銃の規制を直ちに法廷で争うことが含まれる。それでも過去10年の間に、連邦議会は3件の重要な銃規制を可決し、そのうち2件は連邦最高裁によって無効とされたが、その根拠は憲法修正第2条ではなかった。
1989年1月、カリフォルニア州ストックトンで、AK47突撃銃を手にした1人の流れ者が、小学校の校庭のフェンスの外に立ち、中で遊んでいた子どもたちに発砲し始めた。男が射殺されるまでに、5人の子どもが死亡し、29人が負傷した。この事件を受けて、連邦議会は1990年、学校区内銃器禁止法(Gun-Free School Zones Act)を制定し、個人がスクールゾーン内で銃器を所持することを連邦犯罪とした。テキサス州サンアントニオで、1人の12年生の生徒が38口径の拳銃と銃弾5発を持って登校した。この生徒は新しい銃規制法に基づいて逮捕されたが、この規制法に基づく有罪判決は、連邦議会の越権行為だとして、生徒は上訴した。
連邦最高裁は5対4というきわどい差で、武装していたこの生徒の主張を認める判断を下した。連邦最高裁は近年、連邦政府の権限を縮小して州の権限を強化する、連邦主義の再活性化という考え方に大きな理解を示している。この「合衆国対ロペス事件」(1995年)で、連邦最高裁は、学校区内銃器禁止法は連邦議会の越権行為に当たると判断したが、この判決の多数意見の中に、憲法修正第2条が何らかの役割を果たしたことを示唆するものは何もなかった。むしろ、5人の裁判官は、本質的に地域の事情と見なされるものは地域の法令で規制・処罰すべきであり、連邦議会の権限は及ばないと考えたのである。
|
連邦議会は、「スクールゾーンにおける凶悪犯罪」が「教育の質」に対する影響を通じて、州間の、ないしは外国との通商にも深刻な(あるいは実質的な)影響を及ぼす[従って、連邦の規制適用範囲にある]としたが、これは合理的だったと言えるのだろうか。この問いに対する答えは、イエスに違いない・・・。 全国各地における校内暴力の広がりは、それらの学校における教育の質を著しく損ねている。・・・明らかに連邦議会は、銃と学習は互いに相容れないものであると考えることができた。・・・従って連邦議会は、実質的な教育上の問題―教師たちは教えることができず、生徒たちは学ぶことができない―を見出し、学校の近くにある銃は、この問題の規模と範囲に大きくかかわっている、と結論づけることができた。 |
1981年、ロナルド・レーガン大統領の暗殺未遂事件で、狙撃犯は、大統領報道官だったジェームズ・ブレイディにも重傷を負わせ、脳に部分的な後遺症を与えた。それ以来、ブレイディとその妻サラは、連邦の銃規制法の制定を熱心に提唱し、銃擁護派の圧力団体の強い反対にもかかわらず、1993年にその努力を実らせた。ブレイディ拳銃暴力防止法(Brady Handgun Violence Prevention Act)は、拳銃の購入に際して5日間の待機期間を設けるとともに、購入予定者が重罪の前科のある者、指名手配中の者、不法在留の外国人、精神的に不安定という認定を受けた者ではないことを確認するための身元調査を義務づけている。同法の下で、各州に対し、犯罪歴のコンピューター化を拡充し、身元調査を容易にするための資金が提供された。
NRAをはじめ、ブレイディ法に反対する人々は、直ちに法廷で同法に異議を唱えた。反対派は、憲法修正第2条を論拠として持ち出すことはせず、同法が地元の法執行当局者による身元調査を義務づけている点に焦点を当てて、これは州の権利の侵害にあたると主張した。連邦最高裁は、再び連邦主義の原則を引き合いに出し、この「プリンツ対合衆国事件」(1997年)で、過半数ぎりぎりの評決で、NRAの主張を認めた。判決は、憲法修正第2条に言及しなかった。そして、多数意見と少数意見のいずれを見ても、州の権利を侵害しない限り、連邦議会による銃規制法の制定を禁止するものは、憲法上何もない、と連邦最高裁が見なしたのは明らかだと思われる。
連邦議会は1994年、凶悪犯罪の規制を目的とした法案の一環として、1994年突撃銃禁止法(Assault Weapons Ban of 1994)を可決した。これは、全国の警察署長が連邦議会に働きかけて立法化したもので、彼らは凶悪犯罪の取り締まりの際、犯罪者が警察官より強力で優れた武器を持っている場合がしばしばあると主張していた。この法案を最終的に成立させた決め手は、カリフォルニア州ストックトンの校庭で起きた大量殺人事件と、テキサス州キリーンのカフェテリアで起きた襲撃事件の2つの事件だった。キリーン事件では23人が死亡、負傷者もほぼ同数に上り、この種の大量虐殺事件としては、米国史上、最悪のものとなった。この法案は、NRAによって何度か連邦議会で葬られたかに見えたが、銃規制を支持するクリントン政権や議会指導者たちの後押しもあって、最終的に可決された。この新しい法律は、明らかに連邦主義の問題を一切引き合いに出せないよう起草されたので、現実問題として法廷で挑戦することはできないだろう。
コロラド州リトルトンのコロンバイン高校で起きた銃乱射事件のあと、不満を抱いた2人の生徒が4丁の銃を入手できた事実に衝撃を受けた国民の圧力で、連邦議会も重い腰を上げて行動を起こさざるを得なくなった。上院は、銃の購入手続きを強化する法案と、特定の種類の弾薬の禁止を、直ちに可決したが、これは下院で障害にぶつかり、銃規制反対派の働きかけによって否決されるに至った。この一件は、銃擁護派の圧力団体がいかに米国で強く、世論調査が厳しい銃規制措置を強く支持していることを知っている連邦議会に対してでさえ、影響を及ぼすことが出来ることを物語っている。
多数の米国人を含めて多くの人々が、銃規制をめぐる議論を不可解に感じている。なぜなら、個人所有の武器の数は何百万に上るものの、米国民の大多数は銃を所有してないからだ。そして各種調査によれば、米国民の大半は、銃を所有できる者や、個人が所有できる武器の種類についての規制強化を支持している。
だが、武器を携帯する権利は、裁判所が制限や解釈を与えてきたそのほかの人民の権利とは異なり、銃規制支持派と、銃所有は法的規制が及ばない憲法上守られた権利だと見なす人々が対峙する、政治上の試金石となっている。これまでのところ、連邦最高裁は、最近の2つの銃規制の努力を無効としているが、その根拠は、憲法修正第2条とは無関係だった。恐らくあまり遠くない将来に、連邦最高裁は、憲法修正第2条に基づく銃規制法への真っ向からの異議申し立てと向き合うことになるだろう。そして、連邦最高裁の判断は、人民が武器を保持し携帯する権利をめぐる議論の形成において、重要な、恐らくは決定的な役割を果たすものと思われる。
参考文献:
- Saul Cornell, ed., Whose Right to Bear Arms Did the Second Amendment Protect? (Boston: Bedford/St. Martin’s, 2000)
- Robert Conttrell, ed., Gun Control and the Constitution (New York: Garland Publishing Co., 1994)
- Wilbert Edel, Gun Control: Threat to Liberty or Defense Against Anarchy? (Westport: Praeger, 1995)
- Robert J. Spitzer, The Right to Bear Arms: Rights and Liberties under the Law (Santa Barbara: ABC-CLIO, 2001)



リサーチ・レファレンス