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Bill of Rights

―第9章―

財産権
権利章典
序文
はじめに
―第3章―
言論の自由
―第4章―
出版の自由
―第6章―
プライバシー
―第7章―
陪審による裁判
―第8章―
被告人の権利
―第9章―
財産権
―第11章―
法の平等な保護
―第12章―
投票権
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English Version

人はだれも、……適正な法手続きによらないで、生命、自由または財産を奪われることはない。 また正当な賠償なしに、私有財産を公共の用途のために取り上げられることはない。

—合衆国憲法修正第5条

Bill of Rights

財産権は、多くの人々にとって古めかしい概念に見える。すなわち、人の地位が、所有する財産によって決まっていた過去の時代の遺物に思える。そのような時代には、たいていの財産は、ほんの一握りの人々に帰属していた。彼らは、財産を所有することによって、富と社会的地位だけでなく、政治的な、そして経済的な権力をも与えられていた。財産権という言葉は、大部分の国民が財産をほとんど所有しないか、全く所有しなかった時代を想起させる。例えば女性は、どんなに財産を持っていても、結婚と同時にあらゆる財産を管理する権利を完全に失った。こうした形で政府と社会は少数のエリートに支配されていた。われわれの大部分は、現在の状況の方が優れていると思うだろう。いまでは、財産はより広く分配され、人々は富と同時に、自己の業績に基づく地位を享受している。女性はもはや、時代遅れの考えに妨げられることはない。そして選挙権は、土地所有者という要件なしに、誰もが享受している。

しかし、財産を所有し享受する権利は、人々が持つ権利の中で常に、重要な部分を占めてきた。フィラデルフィア憲法制定会議で、サウスカロライナ州のジョン・ラトリッジは代議員たちに対し、「財産は確かに社会の主要な目的である」 と述べたが、これについては多言を要しなかった。憲法の起草者たちはみな、個人の財産権が社会契約の根本だと信じていたからである。憲法の起草者たちは、この権利を保護するため、憲法に制度的な保障条項を盛り込んだ。そしてさらに、米国は、間もなく、その保護を強化するために権利章典を通じ、重要な条項を追加した。しかも、建国の父たちは、これらの保障条項を土地や目に見える資産にだけ適用するのではなく、不動産にせよ動産にせよ、有形にせよ無形にせよ、およそ財産に付随するすべての権利に適用しようと考えた。彼らは、財産こそ「ほかのあらゆる権利の守護者」だと信じていた。なぜなら、政府の恣意的な干渉を受けずに個人の財産を所有し、使用し、享受する権利がなければ、どのような種類の自由もあり得ないからである。

今日でも米国人にとって財産権は、依然として重要なものである。自分が作ったり、建てたり、購入したりしたもの、あるいは贈与されたものでさえも所有する権利は、厳格な法的手続きに基づく場合を除き、政府によってその権利を奪われることはない以上、重要な物質的保障を与え、この保障は、言論の自由やプライバシーの保護など、もっと目に見えにくい権利とも密接な関係にある。経済的権利を脅かされている人々は、表現の自由や選挙権が制限されている人々と同じように、独裁的政府に翻弄されている。法律学者は、権利について語るとき、「権利の束」という言葉をよく使う。これは、すべての権利は密接に結びついていることを意味する。必ずしもすべての自由の根底には財産権があるとは考えないとしても、われわれは、自由とは継ぎ目のない一枚の多彩な織物であり、権利の束の中にあるあらゆる個々の権利が、ほかの権利の保持にとって重要であることを信じている。まさにこれが当てはまるのは、言論の自由なのである。また、財産権についても同様に真実である。

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土地所有は最もよく目に見える形の、そして独立直後のころの米国で、最も重要な財産の形態だった。とは言っても、土地所有がこの財産に対する絶対的な支配権や、あるいは所有者が望むままに、どのようにでも利用できる権利を意味したことは、一度もなかった。財産には常に制限を設けるというしきたりは、英国のコモンローにまでさかのぼる。例えば、コモンローには迷惑行為の原則があり、土地所有者が近隣住民の権利を不当に侵害する方法で土地利用することを禁じていた。慣習により、囲い込まれていない私有地での狩猟は認められていた。また土地所有者は、川や湖への通行を認める慣習上の義務も負わされた。業務用の財産に対しても規制があった。例えば、居酒屋や渡し船や駅馬車は、英国本国でも北米植民地でも、厳しく規制されていた。政府は個人の富に対し税を課すことができ、実際にそうしていた。多くの人は、政府の公的サービスのための税の重要性を認識しているが、課税は、個人から財産を召し上げることでもある。私有財産権の最も甚だしい侵害の形は、おそらく収用権の概念である。収用権によって政府当局は、道路や運河の建設などの公共目的のために、民間の所有者からその財産を、強制的に政府に譲渡させることができる。

財産権の完全な保護と、公共目的のための財産権の制限という二律背反が存在するため、政府による財産権の侵害を制限するという問題は、完全に明快であったためしがなく、常に議論を呼んできた。時を経て財産そのものの意味が変わってきた。(一筆の土地は依然として一筆の土地だが、株式購入権や商標名の保護、コンピューター・ソフトウェアの機能向上などを、どのように考えるのか。)かくして、米国の歴史を通じて常にそうだったように、財産に関する憲法上の異なる概念の意味を解釈する仕事が、裁判所には求められることとなった。裁判所は財産権の番人であり、その決定は、経済的自由を保障し、競争を促し、民営企業制度を守るために必要だと、称賛される時もある。だが、この同じ決定について、裁判所に批判的な人々は、弱者保護のために大いに必要な改革の障害になるとして非難し、また福祉国家の形成を侵食するとして批判してきた。

財産権を不可侵の権利と考え、全面的にこれを保護しようとする保守的な裁判官と、それを制限し、あるいは収用さえする形で限界を設けるべきだと考える改革派の裁判官の間では、時々論争が繰り広げられてきたことは事実である。しかし、こうした論争に気を取られれば、米国の歴史における財産権の真の意味を見失うだろう。これら論争の大部分は、業務用資産と労働契約に関するもので、確かに重要な問題ではあったが、これは多くの意味で、ほぼ1870年代から1930年代までの、米国の産業変革時代に限定されるものだった。論争が戦わされた結果、基本的な問題は決着がついた。すなわち、業務用資産にかかわる権利は重要だが、公共の福祉を保護するために必要な場合は、制限されることがある。また、個々の財産所有者の権利は、しばしば、弱者や恵まれない人々の保護という国家の必要性に道を譲らなければならない―というものである。

しかし、個人と社会の結びつきを計る尺度としての、財産に対する興味と愛着は、依然として米国内に根強く残っている。それは、多くの批評家が非難するように、金儲けや富への欲望といった単純な事柄ではない。例えば、多くの人々にとって家を持つことは、財産の問題ではなく、夢を実現し、社会で地位を築くことと見なされている。財産に対するこの愛着は、建国の時期にまでさかのぼる。当時、多くの入植者が新大陸に渡って来たのは、金鉱を求めてではなく、そこで働き、自分たちのものだと呼べる土地を手に入れるためだった。

ジェームズ・ヘクター・セント・ジョン・ド・クレブクール
「米国人農夫からの手紙」(1782年)

「自分の土地に足を踏み入れた瞬間、繁栄と独占権と独立への明るい期待で、私の心は高揚する。大切な土地よ、と私は思う。いかなる比類なき慣習法によりて、汝は土地保有者の富そのものとなったのか。われら農民は、この土地をまぎれもない形で所有せずして、一体何者であり得るのか。土地は、われらに食糧を与え、衣服を与えてくれる。この土地からわれらは、大いなる豊かさを汲み出す。最上の肉、最も滋養深い飲み物、われらのミツバチが運ぶ蜜は、まさにこの特権からもたらされる。かくてわれらが土地の所有を慈しむのは不思議なことではない。こうした土地を自らのものと呼ぶことを一度も許されることのなかった多くの欧州人が、その幸せを実現するために、大西洋を横断することは、いささかも不思議なことではない。このようにして、荒れ果てた昔の土地は、われらが父の手で豊かな農場に変わり、その返礼として、われらのすべての権利が与えられた。われらの市民としての地位、自由、権力は、その土地の上に築かれたものである」

土地所有が、多くの人々を新世界に移住させる要因となった。16世紀までに、イギリス諸島や西欧には、もはや「自由な」土地は、存在しなくなった。あらゆる土地は、個人所有にせよ国王の名による政府所有にせよ、誰かによって所有されていた。長男相続制および限嗣相続の法律により、土地不動産はまとめて長男に相続されたので、土地を持たない者はほとんど無力だった。この時代に特に重要な役割を果たしたのが、偉大な英国の政治思想家ジョン・ロック(1632~1704年)の著作である。彼の思想は、英国からの独立を宣言し憲法を起草した世代の米国人に強い影響を与えた。「独立宣言」は、政府と個人の権利についてのロックの考えを数多く反映しており、また憲法は、彼の財産権についての理論を盛り込んでいる。

ジョン・ロックにとっては、私有財産とは自然法から生じたものであり、政府が作られる以前から存在した。従って、自分の財産を所有する権利は、国王や議会の気まぐれに左右されるものではない。それどころか、政府の主な目的は、この権利を保護することにある。なぜなら、この権利は、あらゆる自由の基礎になっているからである。英国の政治評論家ジョン・トレンチャードが1721年に述べているように、「すべての人間は、財産を取得し守る、という情熱に駆り立てられている。なぜなら、財産こそ、すべての人が強く希求する独立性を支える最良の拠りどころだからである」 財産に対する権利がなければ、ほかにどのような自由も存在しえない。だから人々は、自分たちの財産である「自分たちの生命、自由および不動産」、すなわち財産を守るために、政府を創設した、というのである。財産を所有し、享受する権利は自然法に由来する以上、政府は、財産とそこから生じる自由を守るために存在した、という考え方だった。

メリーランド州のドイツ人移住者の手紙から(1763年)

「この国では、だれもが安心して自分の財産を享受し、最もいやしい者も、最も強い者から抑圧されることがなく、あるいは満足のゆく代償なしに、彼から何も取り上げることができないように、法律が制定されている」

この伝統は、旧世界でよりも新世界の方でさらに強かった。入植者たちは、財産権の重要性と財産権を制限しようとする政府の力の限度を説いたロックや、その他の17、18世紀の英国の著述家の書物を夢中になって読んだ。米国の法律家たちは、コモンローが財産の保護を中心として構築されたと考えていた。そして、この考えを裏づけるものとして、当時、非常に強い影響力があったウィリアム・ブラックストン著の『英国法註釈』(Commentaries on the Laws of England)に目を向けた。ブラックストンは、「私有財産に関する法への評価は非常に高いので、ほんのわずかでもそれを侵害することは決して許されないだろう」と述べた。(のちに2代目大統領になる)ジョン・アダムズが、1790年に、「財産は保障されなければならない。さもなければ、自由は存在しえない」と明言したのは、まさにこの伝統を受け継いだものだった。

1784年ニューハンプシャー憲法

「すべての人は、自然で、基本的な、生来の一定の権利を保持している。その中には、生命と財産を享受し守る権利、要するに幸福を求め手に入れる権利が含まれている」

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このように、ほかの憲法規定と同じように、財産に関するさまざまな条項は、全く白紙の上に記されたものではなく、啓蒙主義の知的な遺産と植民地での具体的な経験を反映したものだった。建国の父たちは、財産は重要だと考えていた。彼らは、その考えに強制力を持たせ、かつて英国から被ったとされるような略奪行為を防ぐために、政府権力に制限を設けた。憲法は、「生命、自由、そして幸福の追求」を明快に呼びかけている独立宣言よりも、保守的な文書に見えるかもしれないが、憲法もまた同じ位に、これらの権利を擁護している。 英国からの独立を宣言し、独立戦争を戦ったのと同じ世代が、憲法もまた批准した。実際、1776 年の独立宣言に署名した人の多くが、11年後に憲法への署名者となった。この2つの文書は相反するものではなく、互いに補い合うものである。一方の独立宣言は、国王ジョージ3世が英国人の諸権利を踏みにじったので、この国は立ち上がったのだ、と宣言した。他方の憲法は、財産を所有するという基本的権利など諸権利を守るために、政府という枠組を設けたのだ、と述べた。

特筆すべきことは、憲法の起草者たちが、財産に対する保護条項を盛り込んだにもかかわらず、財産の所有を公職者の条件としなかったことである。連邦議会の議員、あるいは大統領になるために憲法が要求する資格要件は、年齢、居住、および市民権だけである。当時、多くの州では、投票権について何らかの財産上の資格要件を設けていたが、それによって選挙権を与えられないものはほとんどいなかったことが、研究者によって明らかにされている。多くの地域で、人々は投票に必要な僅かながらの財産を所有していたか、あるいは、地元当局がこの規則を無視した。さらに、数十年も経たないうちに、「ジャクソン(第7代大統領)時代」として知られる民主主義改革の大きな流れの中で、有権者に対する財産資格要件は一掃された。

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財産に関する憲法上の規定は、一般に大きく4つに分類される。第1の分類は、個人と州の双方に関して、財産権を新政府が制約する権限に、制限を加えることである。議会は、反逆罪など特定の罪を犯した者の財産を自然な相続人に渡すことを認めず、政府が没収する「私権剥奪法」を、成立させることはできなくなった。英国では、国王が豊かな貴族の領地と近親者の土地をすべて没収するために、彼らを反逆者と決めつけたり、議会が私権剥奪によって特定のグループや個人の財産を奪ったりすることが、余りにも頻繁に行われた経緯があった。憲法のこれらの規定は、この種の乱用を防止することを目的としたものである。

さらに議会は、ある州の港をほかの州の港より優遇することができなくなった。米国への輸入品に対し関税を課すことはできるが、輸出品に関税を課すことはできなくなった。これもまた、差別的な連邦政策のために、国内のある地域だけが有利になったり、不利になったりすることがないようにするためだった。後者の規定は、植民地時代の経験から直接生まれたものである。植民地時代は、議会が通商法によって、特定の港をほかの港より優遇したり、あるいは特定の植民地からの輸出品だけに課税したりして、海外の大英帝国市場で不利になるような措置をとったので、さまざまな植民地が損害を被った。

憲法上の規定の第2の分類は、州際通商と外国貿易に対する連邦政府の権限を強化するもので、広範な課税権限を含んでいた。これらの権限は、財産権とは相反するように見えるかもしれないが、実際には財産権を擁護するものだった。憲法の起草者たちが、州政府を制約するようなものにしたからである。「連合規約」時代(1781~1788年)には、州と州の間で経済紛争が頻繁に発生し、近隣の州の物品に対し関税障壁を設けたり、外国船の所有者を買収して、他の州ではなく自分の州の港を利用するようにさせたりした。こうした行為が地域経済に壊滅的な打撃を与えたため、新憲法の規定は、すべての農工業生産者はすべて、国内外の市場に等しく参入でき、差別関税の対象にならないことを保障した。

財産保護のもう一つの重要な側面は、議会に次のような権限を与える条項である。すなわち、「著作者と発明者に対して、それぞれの著作および発明に関する一定期間の独占的権利を保障する」ことによって、学術と有益な技芸の進歩を促進する権限である。今日、われわれが「知的財産」と呼ぶこの保護が実際に始まったのは、その数年前のことである。いったん英国との関係が断ち切られると、米国の著作者や発明家は、英国王が以前に発した特許や著作権に依存することができなくなった。独占に対する嫌悪感(お茶とそのほかの主要産物に関する英国の帝国主義的政策に対する反応)が広がっていたにもかかわらず、米国人は、著作者と発明家には特別な保護が必要であることを認識していた。独立直後の「大陸会議」には、こうした保護規定を設ける権限がなかったので、州政府が保護を行うよう促した。ノースカロライナ州は直ちに著作権法を制定し、その条文で「著作権の保護は、天才たちを大いに励ますに違いない」とうたった。1784年に、サウスカロライナ州が、国内初の一般特許法となる「技芸と科学の振興に関する法」を成立させた。しかし、連合規約の下では、州はほかの州の法律(特許権と著作権を含む)を無視することができた。その後、国家的な取り組みとして憲法にもこの規定が明記され、知的財産の所有者が必要とする保護が与えられた。

財産に関する規定の第3の分類は、州政府に制限を加えるものである。1780年代、いくつかの州の議会は、大衆の要求に迎合して、債務者救済法案を通過させたり、瞬く間に価値がすべて消滅するような、役に立たない紙幣を発行したりした。さらに、前述したように、外国やほかの州からの輸入や輸出に課税するさまざまな州法により、独立戦争後の経済回復の遅れが深刻となった。憲法の規定によって州政府は、通貨を発行したり輸入品・輸出品に課税したりすることが明確に禁止された。また私権剥奪の法案を成立させることもできなくなった。私有財産に対する最も強力な保護規定は、恐らく州政府が「契約上の債務を損なう」法律を制定することを禁じた条項だろう。この契約には、債権者と債務者との間、地主と借地人との間、あるいは買い主と売り主との間の取り決めの場合もあるし、政府と一個人との間の取り決めさえも含まれる。(最高裁の判決の中で最も有名なものの一つであるダートマス・カレッジ判決で、連邦最高裁は、私立大学に与えられた設立許可状は契約に相当し、一度発行されたら、州が取り消すことはできない、と判断した) 新たな共和国になってから最初の数十年間、この契約条項は、憲法の中で最も法廷で争われた部分だったが、最高裁は、その条文を州に対して厳格に執行した。にもかかわらず、「フィラデルフィア憲法制定会議」では、これについてはほとんど議論が起きなかった。州がこれまでにどのような問題を起こしたかを、州代議員たちが知っていたため、それを繰り返すような権限を、州に持たせないようにする決意を固めていた。

ジェームス・マディスン ― 「ザ・フェデラリスト」第44編(1788年)

「私権剥奪法、遡及処罰法、および契約上の債務を損なう法律は、社会契約の最も重要な原則と、健全な制定法のあらゆる原則に反するものである。……それゆえ憲法制定会議が、個人の安全と私権を擁護するために、この憲法上の防壁をつけ加えたのは、きわめて適切だった。彼らがその過程で、自分たちの選挙区の明らかな利益と同じくらい強く、自らの真情を考慮しなかったとしたら、筆者は彼らを大いに見損なったことになる。……公的な措置に関する憶測を払拭し、ごく普通の分別と勤勉さを呼び起こし、社会の営みを軌道に乗せるような、徹底的な改革が必要だと彼らが考えているのは、実に当を得ている」

財産保護の4番目の分類は、米国にもはや存在しない財産の形態、すなわち動産としての奴隷だった。1787年までに、奴隷制は南部のすべての植民地で強固に確立されていたので、南部の諸州の代表は、新憲法が奴隷制を擁護することを明示しない限り、連合国家に加わらないことを明確にした。連合国家を形成するため、憲法制定会議に出席していた各州の代議員は、南部諸州のほとんどすべての要求に屈した。かくして、最初に起草された憲法は、連邦議会に対して、逃亡奴隷を逮捕するための法律を制定する権限を与えたが、国内の奴隷貿易に干渉する権限は与えなかった。フィラデルフィアの憲法制定会議に出席していた代議員たちは、南部か北部かを問わず、奴隷制の問題がその後いかに深刻な分裂の種となるかを、また、それが内戦を招き、南部の人間が自分たちの「特有の制度」と呼ぶ仕組みを根絶するために、合衆国が崩壊の瀬戸際に立つことになることかを、だれも予測できなかったのである。

最初の憲法には、すべての財産権を明確に確認する具体的条項は、どこにも見当たらない。これは、憲法の起草者たちが財産の価値を認識していなかったからではない。それは、「財産は確かに社会の主要な目的である」というジョン・ラトリッジの指摘を想起してみればわかる。むしろ彼らは、自分たちが創り出した制度的な取り決めによって財産を守ることが出来ると考えていたからである。すなわち、連邦政府に対して権限を選択的に付与したり、州政府と連邦政府が持つ権限に対しては、選択的に制限を課したりすることによって、財産は保護されると考えていた。彼らは、財産を含む個人のすべての自由は、ある程度政府の権限を制限することによって維持することができると考えた。その結果、当初の憲法には、権利章典が含まれなかったのである。

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しかし、憲法の批准に関する議論の中で、まさにそうした権利章典を加えることを求める強い声が上がった。実際、いくつかの州は、人々の権利を連邦議会の干渉から守る具体的条項を直ちに採択することを、憲法批准の条件にした。ジェームズ・マディソンは、「政府は、人々の利益のために設立され、そのために使われるべきものである。人々の利益は、財産を取得し使用する権利とともに、生命と自由を享受し、広く幸福と安全を追求し取得することの中にある」という大まかな文言を提案した。しかし、彼の同僚の議員たちは、もっと具体的な規定を望んだ。そして権利章典には、憲法修正第5条で、財産に直接関係する部分が2カ所盛り込まれている。すなわち―人はだれも「適正な法手続きによらないで、生命、自由、または財産を奪われることはない。また、人はだれも、正当な賠償なしに、私有財産を公共の用途のために取り上げられることはない」

憲法修正第5条の「適正な法手続き」条項は、マグナカルタの「国法」条項に直接由来し、恐らく憲法に盛り込まれた条項の中で、財産権だけでなく個人的自由についての最も重要な規定である。しかもここには、見た目以上の保護が含まれている。政府の義務が、連邦議会が制定権限を持つ法的規制に従うことだけなら、政府が個人の自由を侵害することは比較的容易だろう。しかし、裁判所は、「適正な法手続き」条項には、単なる「手続き上の」権利(政府が従わなくてはならない手順)だけでなく、「実体的な」権利(「自然法」と英国法の伝統に由来する政府自体に対する制限)も含まれている、と解釈してきた。不幸なことに、歴史を振り返ると、腐敗した政権や独裁政権が、法律に従っているに過ぎないと主張しながら、判定法を用いて人々の富を盗み、自由を制限した例は枚挙にいとまがない。「適正な法手続き」条項は基本的に、議会はそのような法律を制定することはできない、と述べている。なぜならそのような法律は、すべての憲法上の取り決めに生命を与えている精神、すなわち財産権を含む個人の自由の擁護を侵害するからである。

合衆国憲法修正第5条の「収用条項」は、財産を一層力強く保護するものである。時には政府が、道路や鉄道や運河、あるいは連邦軍の施設など非常に重要な公益のために、私有財産の一部を収用する必要があることを、だれもが理解している。しかし、合衆国憲法の修正条項は、補償なしにまるまる没収するという当時の西欧のやり方を排除している。封建社会では、すべての土地は、理論上、国王に帰属し、国王の臣下が領地として保有していた。この制度の下では、政府がすべての土地を所有していたので、臣下から土地を取り上げても、それは、どのみち彼らに属していない以上、補償する必要はまったくないとされていた。封建制度が過去の歴史となったあとで、政府は補償なしに土地を収用できるという考えが、なおまかり通っていた。米国では、憲法制定の頃までに、人々は、一個人が住み、耕作している土地は、完全に本人が所有しているものと強く信じていた。確かに政府は、西部の辺境に広大な土地を所有していた。だが、連合会議が最初に制定し、その後、憲法制定会議が再び、通過させた法律によれば、政府がその土地を売れば、政府はその土地に対するすべての権利を失った。もし、何らかの理由で政府が私有財産を取得する必要があるときは、代償を支払う必要があった。

アントニン・スカリア判事 ― 「ノラン対カリフォルニア沿岸委員会事件」
での判決理由(1987年)

「個人が所有する土地を公益のために収用することは、財産的利益の剥奪ではなく、『土地利用の単なる制限にすぎない』という言い方は、本来の意味をすべて骨抜きにした言葉の使い方である。実際、土地収用権限の主要な目的は、その代償を払う限り、政府がまさにそうした財産的利益の譲渡要求ができるようにすることである。所有者が私的利用のために留保する財産に関しては、第三者を排除する権利は「一般に財産と呼ばれる諸権利の束の中の最も重要な1本」であるとの判断を、われわれは繰り返し示してきた」

合衆国憲法修正第5条の条項は、当時、連邦政府に対してのみ適用されたが、多くの州は、州の権利章典にそれらの文言を盛り込んだ。米国は、連邦政府と州政府の両方が権限を持つ連邦制度の下で統治されていることを想起する必要がある。多くの州は、1791年以前でさえ、すでに権利章典を有していたが、その州のほとんどすべてが、州憲法への追加ないしは修正の形で、「適正な法手続き」条項と収用条項の趣旨ないしは条文を採用した。州レベルでこれらの措置がとられたことで、米国の憲法と法制度上における、財産権と関連する諸権利の高い地位が、さらに強化された。20世紀に至るまで、道路や運河などの経済基盤事業の促進を主導してきたのは連邦政府ではなく、もっぱら州政府だった。州憲法の保護条項のお蔭で、これらの事業活動は、個人の土地所有者の権利をある程度まで尊重しながら進めたのである。

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19世紀から20世紀初頭にかけて、米国では、大きな論争があった。一つは財産権の性格をめぐるものである。もう一つは私的な財産所有者と事業家が持つ権利と、工業化がもたらす過酷な側面を和らげる指令を帯びた州の警察権との間の均衡を、どう取るべきかをめぐる論争だった。とりわけ司法府内では、個人の財産権は一切妨げるべきではないという純粋なロック思想を、多くの裁判官が支持していたようだ。

ジョーゼフ・ストーリー判事 ― 「ウィルキンソン対レランド事件」での判決理由(1829年)

「財産権が、何の抑制もなく、立法機関の意思によってのみ左右されるのであれば、そのような政府を自由であると見なすことはできない。自由な政府の基本的原理は、個人の自由と私有財産に関する権利が尊重されるべきであることを要求しているように思える」

この結果として、保守的な立場に立っていた裁判所は、賃金・労働時間関連法、工場安全対策、公共料金の規制、所得の累進課税など、近代国家に共通する政策について、州議会と連邦議会が実現しようとした改革への努力を、一貫して制限してきた。改革勢力がようやく勝利を収めたのは、1930年代に世界大恐慌が到来した時だった。ただしこれは、米国人が財産権を放棄したのではなく、個人の自由に関するより大きな改革の中で、財産権の価値が相対的に高い地位を占めるようになったことを意味した。1937年になると、国も裁判所も、個人の自由、特に合衆国憲法修正第14条の「平等保護条項」の意味に、注意を向け始めた。これが、偉大な公民権革命の始まりである。そして本論文のほかの章で扱っているように、これを機に、言論、出版、宗教、被告人の権利などの諸権利の意味が、劇的に拡大されることとなった。これによって財産権の重要性が失われたという一部の見方とは逆に、財産の保護は、依然として米国人の生活において重要な意味を持っている。もはや米国人は、財産を「ほかのあらゆる権利の番人」 とは考えていないとしても、米国人が国民の権利をどのように考えているかという点で、財産は依然として重要な役割を果たしている。

米国で強力な社会主義運動が発展しなかった理由について、歴史学者の間で長らく議論が続けられてきた。なぜなら米国においても、産業革命は、西欧、英国と同じように、人々を容赦なく苦しめたからである。米国の鉱山や工場で働く労働者は、旧世界の労働者たちとまさしく同じような過酷な労働条件の下で働き、多くの労働者にとってその賃金は、辛うじて生計を立てられる額だった。しかし、英国、フランス、ドイツ、イタリアでは、労働者が結束して強力な労働組合を結成し、それがまもなく強力な左翼の政治運動に発展していったにもかかわらず、米国ではそのような運動は起きなかった。19世紀から20世紀初頭にかけて、多くの社会主義者グループが存在したが、労働者の要求を政治力に結びつけることのできる有力組織は発達しなかった。社会党は、20世紀初頭の最盛期でさえ、1912年の大統領選挙で百万票しか得票を集めることができず、その後、世界大恐慌の過酷な時期でさえも、この得票に達したことは一度もなかった。

一般に受け入れられている説明は、世界の多くの場所で、労働者と資産家はともに、経済社会を「ゼロ・サム・ゲーム」、つまり、一方の集団が自分の取り分を増やそうとすれば、必ず他方の集団が損をする仕組みと見なしているということである。プロレタリア階級自身が財産の所有者になるためには、財産を支配している者からそれを取り上げ、持たざる者に与える必要がある。古典的な経済思想家たちは常に、個人の労働は財産の一形態だと言ってきたが、実際のところ普通の労働者は、自分の仕事や労働条件、賃金に関して、ほとんど何も決めることはできなかった。

しかし米国では、かつてもそうだったが、今もなお、広々とした土地が十分にあり、誰でも懸命に働けば、土地所有者になることが可能である。入植当初から農夫ばかりでなく、職人や非熟練労働者でさえも、土地所有者になることを望んだ。米国史の最初の3世紀間、英国の植民地時代も独立国家となってからも、西部には、人々が移住して耕すことができる開けた自由な土地が広大に存在していた。政府は、個人の土地所有を奨励する政策をとり、極端に安い価格で公共の土地を売却したり、大陸横断鉄道の建設に必要な線路用地に補助金を交付したりした。鉄道会社は経営が軌道に乗ると、それらの土地を手頃な値段で売却し、辺境で土地を所有し、働こうとするますます多くの移住者たちを呼び込んだ。

多くの西欧社会の発展を妨げたように見える階級やカースト制は、米国には存在しなかった。広大な敷地を支配する世襲貴族もいなかったし、慣習により社会のどん底の「身分」に甘んじなければならない労働者階級もいなかった。多くの入植者たちは、17世紀と18世紀に、年季契約の奉公人として新世界に渡ってきた。農場労働者や家政婦として一定の年数を働く契約をかわし、年数が明ければその後は自由になった。多くの場合、年季契約期間が終了したときに奉公人に権利として与えられる「自由支度金」は、新しい生活を始めるための一筆の土地、農具と種子一式だった。年季契約の奉公人がみな大地主になれたわけではないが、一部の者は成功し、多くの者が自分の農地を取得して、1782年にヘクター・ド・サン・ジョン・クレブクールが礼賛したような特権を享受した。1780年代から今日まで、米国は著しい変化を遂げたが、土地を所有するという夢は、米国のすべての階層に共通のものとなってきた。たいていの労働者は、社会主義政党を支持する強力なプロレタリア階級になることを望まなかった。彼らは、自分で事業主や独立した職人になったり、自分自身が雇用主になったり、新興の中産階級の一員になったりすること、そして何よりも、金持ちのように、住宅を持ち土地を所有することを望んだ。

アレクシス・ド・トクビル ― 「米国の民主主義」(1832年)

「世界中で、米国ほど財産に対する愛着が強く敏感な国はほかになく、また、米国ほど大多数の人々が、財産所有の道を何らかの方法で脅かすような教義を敬遠する国も、ほかにない。」

トクビルが述べたような人々の信念を可能にしたのは、米国の特殊な条件だった。19世紀の末に辺境がなくなった後でさえ、個々の家族が家を建てる土地はいくらでもあった。1950年代に米国を訪れた人々は、広大な地域社会に一軒家が点在し、そこにブルーカラーとホワイトカラーの人々が住んでいるアメリカの風景に驚嘆した。自分の家を所有するという形での財産形成は、建国以来、常に米国の夢だった。民主党も共和党も、国民が自宅を購入しやすくなるような政府の措置を通じて、その夢を育み、かつ支援してきた。米国では、所有財産を土台として、その上に豊かな中産階級から成る民主的な社会が構築されてきたのである。

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21世紀初頭の現在、われわれは、実体のある、慣れ親しんだ形のものから仮想のもの、珍しいものまで戸惑うほど多彩な「財産」と向き合っている。しかし、基本となる前提は存続している。社会、政府、そして特に裁判所の仕事の一つは、伝統的な財産と革命的に新しい形の財産の両方を、どのように扱うかを判断することである。1950年代に始まった諸権利の爆発的な拡大は、言論と宗教の自由に対する見方だけでなく、財産に対する見方も変えた。ほんの一例を挙げると、現代国家は市民に対し、社会福祉制度や老齢年金、失業手当給付金や健康保険などいくつかの具体的な利益を与えている。今やこうした福祉制度も、市民が完全な資格を持つ財産権の一つの形態だと、多くの人々が考えている。

20世紀の後半、公民権運動と環境運動の先導によって、制定された法律が、財産権の伝統的な概念に大きな負担を背負わせることになった。レストランの経営者は、もはや顧客を差別することはできなくなり、事業主や私有財産の所有者は、しばしば環境保護プログラムの経費を負担しなければならなくなった。政府による規制が、経済と社会のすべての部門に影響を及ぼし、所有者は自分の財産を完全に好きなようにできるという、古い概念は、さらに侵食されている。このような所有権への侵食を前にして、一部の識者からは、財産権は「法律のゴミ箱」に葬り去られた、という声が上がっている。

このような見解にも一理あるのだろうが、それは、財産権は不可侵だと見なされる場合に限られる。だが、米国の法律にも英国の法律にも、そうした条件は一度も存在しなかった。諸権利の守護者としての所有権の優位性を称賛しているジョン・ロックでさえ、その権利行使には、重要な制約があることを認識していた。米国の歴史の一時期、「レッセ・フェール(=自由放任主義)」(「人々に望むようにさせる」という意味のフランス語表現)によって財産権が余りにも重要視されすぎたことがあったにせよ、逆に恐らく余りにも軽視された時もあった。過去20年間、連邦裁判所は、近代国家での当然の関心事と、それによって侵害される財産権との間に、新たな均衡を見出す試みに、主導的に取り組んできた。

ジョン・ポール・スティーブンス判事
「ドラン対ティガード事件」における反対意見(1994年)

「絶えず変化するわれわれの世界で、一つだけ確実なことがある。それは新しい都市開発を行うことにより生じる洪水や地震、交通渋滞、環境破壊などの危険に及ぼす影響についての予測には、不確実性がつきまとうということである。こうした影響の大きさについて疑念がある場合、それを回避するという公共の利益は、[財産所有者]の私的な利益に勝るものでなければならない。もし政府が、土地利用を許可する際に課した条件が合理的で、公平で有効な土地利用計画の目的に適うことを示すことができるなら、それらの条件には、強力な正当性が伴っていると見るべきだろう。それらの条件が[財産]の経済的価値を不当に損なっていることを示す責任は、州政府の行為に異議を申し立てる側の肩にかかっている。」

これらの問題のいくつかは、環境保全に対する新たな意識の高まりから、経済成長は健全なことだが、空気や水質に悪影響を及ぼす恐れがあるかも知れないという意識から生じている。コモンローでは、小川を汚した責任を、そこにゴミを廃棄した所有者に負わせた。現在、大気や水の汚染の責任を、多くの場合、一個人や一企業だけに負わせることはできない。それは数年、あるいは数十年にもわたる多くの当事者の活動が蓄積した結果である。われわれは、その責任を非難するだけでなく、浄化費用をどうすればいいのか―、われわれは、私的な所有権に対して、伝統的な財産権を制限することを通じて、どのくらいの処罰を与えればいいのか―、とりわけ、大きな環境問題には、ほんのわずかしか悪影響を及ぼしていない所有権者を、どう罰すればいいのか―。ヒューゴ・ブラック判事が何十年も前に述べたように、「収用条項」は、「公正および正義の観点から、国民全体で負うべき負担を、政府が一部の人に押しつけることを禁じるために策定されたものである」。以上は、21世紀初頭の議論の一部だが、まだ文字通り、ほんの一部に過ぎない。

自由な企業制度の下では、財産は多くの形態を取り、その各々の形態が、さまざまな権利に対し特定の価値を持っている。複数の世論調査では、70%以上の米国人が、財産権に大きな価値を置いていることが明らかになっている。財産の実体的な権利に対する伝統的な考え方は、200 年以上にわたり、米国人の要求を満たしてきた。問題は、そうした意識の根底にある価値を引き出し、それを新しい状況に、そして新しい財産の形態に―財産所有者と公共の利益の双方を守るような形で―適用することである。

参考文献:






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