|
マーク・ベッカ著
|
ワシントン州立大学の1930年度卒業生として撮影されたマローのポートレート。
(© Digital Collections and Archives, Tufts University)
|
1940年9月、米国に秋冷の宵闇が迫ったある晩、一軒の家の真空管ラジオの前に家族が集まる。ひとりがツマミを回しながら周波数を合わせていると、突然、「こちらは - ロンドンです」と明瞭で生真面目なアナウンスが飛び込んできた。第二次世界大戦下、ドイツ空軍はロンドンに大規模な爆撃を行ったが、この忌まわしい大空襲を伝える現地報告はこのようにして始まり、人びとをラジオに釘づけにした。米国から何千マイルも離れたロンドンの建物の屋上で、若きジャーナリスト、エドワード・R・マローがマイクを握った。この時から始まった戦時下の放送で、マローはラジオを活用する報道の先鞭をつけた。そして、「放送ジャーナリズム」の概念を、ほとんど独力で築き上げていった。
エドワード・R・マローは、肺ガンのため57歳で生涯を終えたが、米国の最も輝かしいジャーナリストの一人としての彼の名声は、その死後も長期にわたり消えることはない。マローは米国のラジオ聴取者 - 後にはテレビ視聴者 - に対して、極めて説得力ある報道を行った。その報道は、言葉と映像により臨場感あふれるものであった。例えば、戦場にいるかどうかを問わず、戦争の恐ろしさを報道し、1950年代には「赤狩り」の最中に、米国議会の有力な議員に言論戦を挑んだ。晩年には、大統領の要請を受け「米国の主張を世界へ伝えよう」という国家的取り組みの先頭に立つことになる。
マローは1908年、ノース・カロライナ州ポールキャット・クリークの農家に生まれ育った。 家族はクエーカー教徒 ―― つまり、正式にはフレンド会として知られる敬虔なキリスト教の一宗派である。後に、一家はワシントン州に移り住み、マローはそこで少年時代を過ごし、ワシントン州立大学に進学し、スピーチを専攻した。1930年、大学を卒業した後、彼はニューヨークに行き、米国学生連盟の全国事務局の運営に携わった。1932年には、世界各地で学生会議を組織する非営利団体、国際教育機関の副理事を務めた。1934年、ジャネット・ハンチントン・ブルースターと結婚し、長男が誕生した。1935年、コロンビア・ブロードキャスティング・カンパニー(CBS)に「トーク・アンド・エデュケーション」のディレクターとして入社した。
1937年、CBSは緊張が高まりつつあるヨーロッパ大陸情勢を報道するため、マローをヨーロッパに派遣し、取材させることにした。戦争の危機が切迫する中で、マローは、状況を把握するには、有能な記者で構成する取材チームを編成する必要があると感じた。このチームは、その後、長く「マローズ・ボーイズ」として知られることになる。1939年、第二次世界大戦が勃発した時点で、マローと彼の「ボーイズ」は、世界がそれまでに経験したこともない大きな出来事を報道する準備を既に整えていた。
空爆の最中、ロンドンの屋上から行った放送により、マローの名前とそのボイスレポートは本国で一躍有名になった。マローは、ジャーナリズムの役割をそれまでとは異なる新しい高いレベルに引き上げた。それは、彼がヨーロッパ各地で空爆に向かう米軍機にたびたび同乗し、自らの命を危険に曝して、米国の聴取者に対し戦争の実態や、兵士たちの闘い振りについて報道したからである。一方、ドイツのブーヘンヴァルド強制収容所からの報告で、彼は言葉では表現しようもない大量殺戮の恐怖に接し、その最悪の光景を次のように伝えた。
遺体はすべて薪の束のように積み上げられ、二列に並べられていました。どれも、ひどく痩せこけていて真っ白でした。・・(中略)・・ひどく傷んでいる遺体もありますが、損傷するほど肉はついていないようです。頭を打ち抜かれているものもありますが、出血の形跡はほとんどありません。遺体は二つを除いて、すべて裸にされています。遺体がいくつあるかを数えようとしましたが、すべて数えるのは無理でした。分かったことは、少なくとも500人以上の成人男性や少年の遺体がきちんと二つの山に積み上げられていたということです。
後年、ニーマン・レポートが出版した談話の中で、マローの友人でCBSのプロデューサーのフレッド・W・フレンドリーは、解放されたナチス収容所からの24分間の報告について次のように語っている。
「マローは ・・(中略)・・ ブーヘンヴァルドに入る第3部隊について行き、そこで皆さんもご周知の光景を目撃しました。彼は、強い衝撃を受け、ひどく落ち込むと同時に怒りがこみ上げてきました。怒りは、彼にとって、最大の武器ですが、それを抑える術を身につけていました。 ・・(中略)・・ 形容詞はまったく使わないのです。彼がレポートで形容詞を使うのを聞いたことはありません。人間が薪の束のように積み上げられ、10層にも重ねられている。その臭い。吐き気を催したといわなくても、聞いている人には分かります。 ・・(中略)・・ マローには品格があり、強い目的意識、それに、自分自身が米国の良心だという自覚がありました。」
![]() |
1956年11月7日実施された選挙当日の夜、CBSテレビで選挙結果を放送するエドワード・R・マロー。マローは貧しい農家に生まれたが、米国で最も著名なジャーナリストの一人として名声を得た。
(© CBS, Inc./AP/WWP)
|
戦後、マローは米国に帰国し、フレンドリーと共に彼のラジオ番組「ヒア・イット・ナウ」を担当した。1954年、この番組はニュースとドキュメンタリーのテレビ番組として「シー・イット・ナウ」に衣替えした。米国空軍は1953年、ある兵士の親戚が共産主義の思想やその組織に同調している疑いがあるという理由で、この兵士を除隊させる決定を行った。マローは自分の担当する番組で、この問題をとりあげ、批判した。空軍は最終的に決定を撤回した。「シー・イット・ナウ」は、当然のことながら、マローの言論活動の主戦場ともなり、この番組を通じて、ウィスコンシン州選出のジョセフ・マッカーシー上院議員に挑戦することになった。マローが担当したもうひとつの番組「CBSレポート」で、彼は、「ハーベスト・オブ・シェイム」(恥辱の収穫)というタイトルで、米国における移民労働者に対する扱いを批判的に描いた番組を制作し、放送した。これらの報道により、マローは、テレビ番組における優れた功績を讃えるエミー賞を数度にわたり受賞した。
![]() |
マロー(左)は1956年、エミー賞のベスト・ニュース解説部門で受賞した。一緒に撮影されているのは、彼と共に受賞したナネット・ファブレイ、シド・シーザー、フィル・シルヴァース。マローは、放送分野での功績によりエミー賞を9回受賞し、1964年には、大統領自由勲章も授与された。英国からは名誉騎士号を、また、スウェーデン、ベルギー、フランスからも同様の賞を授与された。 (複製権 AP通信/WWP)(© AP/WWP)
|
番組が引き起こす論争に嫌気が差し、CBSが「シー・イット・ナウ」の放送を打ち切ってから、マローは、ますますメディアへの幻滅を募らせていた。マローは、1961年までCBSで仕事を続けたが、その年、ジョン・F・ケネディ大統領から米国広報庁(USIA)長官に任命された。1953年以来、USIAは、米国の政府機関として、当時のソビエト連邦に対して「思想戦」を展開していた。USIAは、教育面での交流や書籍、出版物、ラジオ放送「ボイス・オブ・アメリカ(VOA)」をはじめ、世界各地の米国大使館が運営する図書館や情報センターを通じて「米国の主張を世界へ伝えよう」という活動を政府から委託されていた。
マローが掲げた目標は、USIAを、成果を重視した活動を行う機関にすることだった。
彼は組織を活性化させることに全力を注ぎ、十分な予算を確保するために議会を奔走した。また、各職員が情報を広める役割を担うだけでなく、その内容を「説得できる人」に脱皮させようと尽力した。マローがUSIAで指揮をとった1960年代初めは、ソビエトの核実験再開、キューバのミサイル危機、ケネディの暗殺という重大事件が相次いだ。ケネディの死後まもなく、マローはガンの手術を受け、体調を崩してUSIAを去った。彼は、1965年4月27日、ニューヨークで亡くなった。



リサーチ・レファレンス

