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自由の番人:米国の報道機関

ヴィンス・クローリー著

「われわれは、他国における自由を擁護していくことを ・・・ すでに、そうしていますが ・・・ 宣言します。 ―― しかしながら、国内で自由を見殺しにして、他国に自由を説くことはできません。」

— エドワード・R・マロー
CBSテレビ番組「シー・イット・ナウ」1954年3月9日放送より

目 次
Special Features

エドワード・R・マローは、放送史上画期的となるこの番組の中で、ジョセフ・マッカーシー上院議員による悪評きわまる個人攻撃の問題を取り上げた。このCBSのベテラン・アンカーマンは、番組で、報道の自由を擁護してきた200年にわたる米国の伝統を背景に、自分自身の主張を披瀝した。マッカーシーは共産主義者や共産主義を信奉していると見なされる人物に対し尋問を行った。 これは、反対者からは「魔女狩り」と呼ばれていたが、―― 世間に恐怖の空気を醸し出した。これは大切にすべき市民の自由に対する深刻な脅威になっていると、マローらは感じていた。

報道の自由を守る判例と法律

1735年のジョン・ピーター・ゼンガー訴訟は、米国の報道の自由が抑圧的政府に対する監視機能を果たすことを示す先例となった。それまでの英国の法制度の伝統では、政府批判を内容とする出版物は ――たとえ、それが事実で正しい批判であっても――社会不安を起こす疑いのあるものはすべて、「扇動的名誉毀損」にあたり、違法とされていた。しかし、この裁判で、英国の植民地だった米国の陪審は、そうした考えを棄却した。陪審は、ゼンガーが発行した新聞の英国政府に対する批判は、実際、その内容が真実なので、扇動罪にはあたらなないという判断を下した。この判決により、報道が真実であれば、名誉毀損の容疑を免れるという法的擁護を受けることになり、その後、米国の名誉毀損法の礎の一部となった。

この彩色版画は、1735年、植民地の弁護士アンドリュー・ハミルトンが、新聞発行人のジョン・ピーター・ゼンガーを弁護する様子を描いている。 (© North Wind Picture Archives)

米国独立戦争は、1765年の印紙条例が、少なからず、引き金となった。この条例は、独立系の新聞社に対し課税することにより、彼らを廃業させる狙いがあった。ニュースは、当時、馬や船よりも早く伝えることができなかったし、意見は本人が大声を出して届く範囲内でしか届かなかった。そのような時代、新聞は、革命家にも王政主義者にとっても、より多くの人々に自分たちの主張を伝えるための主要な手段であった。

「連邦議会は、言論あるいは出版の自由を制限したり ――(中略)―― する法律を制定してはならない。」合衆国憲法修正第1条(1791年)は、明快かつ簡潔に、国家として最も基本的な信条のひとつ、すなわち民主政治の発展に報道が果たす重要な役割を明記している。今日に至るまで、米国をはじめ、その他のあらゆる自由で民主的な国家において、こうした信念が適用されてきた。自由で独立した報道機関は、人びとが自国の政府、また、生活においても、積極的役割を担うために必要とする情報を提供する。国民は自分の意見を述べ、政府に対する批判を出版できる言論の自由を保持しなければならない。

合衆国憲法修正第1条それ自身は、新聞紙上で長期にわたって行われた政治的論争の成果であり、起草者は自分たちがどのようなことを自由にしようとしているのか、正確に把握していた。当時の報道には、非常に独善的で、党派性が強く、悪意に満ちた個人攻撃が数多く見られた。

政治的二極分化――ワシントンからリンカーンへ

「われわれに賛成しないものは、われわれに反対するものである」という見出しが、初代大統領ジョージ・ワシントン(1789~1797年)政権を支持する「合衆国ガゼット」紙に掲載された。「ガゼット」紙は、自社の使命について、政府の政策を批判する者たちの「激しい狂気」に対抗することであると宣言し、その対象はトーマス・ジェファーソンなどの「政治家」も含まれるとしていた。

シカゴ大学の合衆国憲法修正第1条研究者のジェフリー・R・ストーン教授は、その著書『危難の時代(Perilous Times)』(2004年)で、独立戦争当時の米国における言論の自由をめぐる歴史について詳しく述べている。教授によれば、反対派は歯に衣着せぬ自派の新聞を発行し、その中で、ジョージ・ワシントン大統領を「新しい君主制の儀式にうつつを抜かしている」とやり込めたり、「無能な軍人」だと決めつけた。

トーマス・ジェファーソンは報道の自由を強く支持したが、新聞それ自体を褒めることはほとんどなく、むしろ報道の改善と、均衡のとれた報道を繰り返し求めた。「新聞をなくして政府を残すべきか、政府をなくして新聞を残すべきか、そのどちらかを選ばなければならないとしたら、私はためらうことなく後者を選ぶだろう」とジェファーソンは書いたことがある。

しかし、彼はまた「私は ――(中略)―― わが国の新聞がたどってきた堕落した状態、執筆者たちの悪意ある言動、下劣な品性、偽りに満ちた精神を遺憾に思う」とも語っている。

それから数十年後、南北戦争中に政治的二極分化が生じた結果、報道機関はエイブラハム・ リンカーン大統領に対し、批判の集中砲火を浴びせた。1863年、シカゴ・タイムズ紙はその社説で、北軍の兵士たちは「自分たちが全く共感できない目的のために大量殺戮に向かわせられているのは愚かしい行為だと憤慨している」という内容の記事を掲載した。これに腹を立てた北軍司令官は、その新聞社を閉鎖させたが、リンカーンは再開を命じた。

政府と報道機関

米国政府が、法律により、正式に報道の自由を制限しようとしたことは、過去に2回ある。1798年、ジョン・アダムス大統領の任期中に、扇動防止法が通過したが、それはフランスとの戦争が目前に迫っていた時期だった。これは反政府系の新聞に狙いを定めた法令であったが、あらかじめ失効日が決められており、1800年、ジェファーソンが当選したときに無効になった。第一次世界大戦中は、1918年扇動防止法が制定され、この法令により、米国政府や連邦議会に対する「不正確で、中傷的で、悪意のある文書」は禁止された。この法律は1921年に廃止された。これに付随する1917年諜報活動法は、現在も効力を持ち、武力による干渉や、米国の敵を援助することを違法と定めている。第一次世界大戦中、米国の郵政長官はこの条項を拡大解釈し、反戦を呼びかける新聞の郵便による配達を禁じた。

米国では、1948年、ABC、CBS、NBCのテレビネット・ワークが通常放送を開始した。その後の数十年間、テレビ視聴者が見る番組の9割はこれらのネットワークで占められていたが、最近20年間はインターネットなどの新しい技術に視聴者を奪われた。 (© AP/WWP)

ベトナム戦争中の1971年、米国政府は国家安全保障を根拠として、ニューヨーク・タイムズ紙が行った国防総省の秘密報告書の掲載を差し止める命令を連邦裁判所から獲得した。これらの文書は、国防総省が作成したもので、米国政府のベトナムへの関与の経緯を分析しており、極秘事項とされていた。その後、ワシントン・ポスト紙が同じ資料の掲載を開始したとき、別の連邦地方裁判所の裁判官は、発行差し止めの請求を却下した。この係争事件は、数日を経ずに最高裁判所に持ち込まれ、新聞社側の主張を支持する判断が最終的に示された。連邦最高裁は、合衆国憲法修正第1条による言論の自由の保証とは、政府は新聞社が掲載を決めた内容について「事前抑制」を行うことはできないことを意味していると判断したのである。

マローが書いたラジオ台本の原本と彼についての新聞記事の切り抜き。タフツ大学エドワード・R・マロー・センター所蔵資料の一部。(© AP/WWP)

今日でも、政府担当者の間では、時には、報道機関による取材が機密事項に迫ることを止めさせようとする場合があるが、新聞社や放送局に対して、国家安全保障を根拠にした法律上の制限は一切ない。国防総省を訪れる外国人がしばしば目にして驚く光景がある。その建物の中では、100人以上の多数のジャーナリストが、許可さえ受ければ、たとえ戦時下でも、付き添い人もなしに、ニュースを求めて自由に歩き回っているのである。

現代の放送ジャーナリズムは1920年代から1930年代にかけて芽生え、1950年代には成熟期を迎えた。その頃、多くの米国人にとって、ニュースの主要な情報源は、印刷媒体からテレビに代わった。当時、政府が放送免許を認可する際は、いわゆる「公正の原則」により、公平でバランスのとれた報道が求められていた。マローが1954年3月9日に行ったマッカーシーについての報道は非常に衝撃的であった。というのも、彼は意見を異にする双方の主張を番組で並べるという標準スタイルを壊して、マッカーシーの策略に焦点を絞り、それを批判したからである。後日、マッカーシーはマローの番組について自分の意見を述べた。それをテレビで見た人びとは、マッカーシーの態度に落ち着きがないという印象を持ち、彼の主張に同調しなかった。この番組は、またテレビが持つ新しい力を見せつけた。多くの新聞がそれまでにマッカーシーのやり方を報道し、それに疑問を呈してきた。しかし、マッカーシーが実際にどのようなことをしているかを米国中の茶の間に持ち込んだのは、マローの「シー・イット・ナウ」であった。

1958年、マローはニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙に対して「報道による自由が何よりも大切であることを忘れないようにしたいものです」と語り、民主主義制度の素晴らしさについての彼の信念を強調している。彼は、さらに「私たちの多くは新聞がなかったら自由を得ることは出来なかったと感じているのではないでしょうか。だからこそ、私たちは新聞自体に自由であってもらいたいのです」と述べている。


ヴィンス・クローリーは米国国務省国際情報プログラム室のスタッフライターである。






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