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第1章・連邦司法制度の歴史と組織
目次
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ジョン・マーシャル連邦最高裁判所長官(在任期間1801~1835年)の肖像。アロンゾ・チャペル作(AP/WWP)
連邦最高裁判所の建物。入口の上に「法の下の平等な正義(Equal Justice Under Law)」という言葉が刻まれている。(AP/WWP)
(2,005年はじめの)連邦最高裁判事7人の写真。前列左から右に着座、アントニン・スカリア判事、ジョン・ポール・スティーブンス判事、ウィリアム・レンキスト長官、サンドラ・デイ・オコーナー判事、アンソニー・ケネディ判事。後列左から右に起立、ルース・ベイダー・ギンズバーグ判事、デビッド・スーター判事、クラレンス・トーマス判事、スティーブン・ブレイヤー判事。(提供:連邦最高裁判所)
米国第2巡回控訴裁判所長官ジョンM.ウォーカー・ジュニア(左)が、バリントンD.パーカー・ジュニア(右)の判事就任の宣誓を執り行っている。(AP/WWP)
米国の裁判所は、控訴裁判所の段階でも、場合によっては最高裁の段階においても、しばしば高等教育における差別是正措置のような激しい論争を呼んだ紛争を裁定する。(AP/WWP)

  米国司法制度の特徴のうち、最も重要で、最も興味深く、そして恐らく最もわかりにくいものの1つは、二元的な裁判制度である。

  すなわち、州政府とその上の連邦政府が、それぞれ独自の裁判所を持っていることである。従って、各州、コロンビア特別区(首都ワシントン)、連邦政府にはそれぞれ別々の裁判制度がある。州裁判所ですべて解決できる法律上の問題もあれば、連邦裁判所がすべて処理する問題もある。さらに、州と連邦のどちらの裁判所も扱える問題もある。そのために、時には摩擦が生じる。本章では連邦裁判所について論じ、州裁判所については、第2章で説明する。


歴史的背景

  合衆国憲法の制定以前に、米国の規範となっていたのは「連合規約(Article of Confederation)」だった。連合規約のもとでは、中央政府のほぼすべての機能が、「議会(Congress)」と呼ばれる一院制の立法機関に付与されていた。行政権と立法権の区別はなかったのである。

  1国に司法府がないということは、連合規約最大の弱点のひとつとみなされていた。そのため、1787年、フィラデルフィアで開催された憲法制定会議に集まった代表者たちの意見は、国の司法府を作るべきという点で広く一致していた。しかし、司法府をどのような形態にするかになると、意見が分かれた。

憲法制定会議と合衆国憲法第3条

  憲法制定会議で最初に提出された「バージニア案」は、最高裁判所と複数の下位連邦裁判所を設立するという案だった。バージニア案に反対する人たちは、代案として、連邦最高裁判所だけを作ることを求める「ニュージャージー案」を提案した。ニュージャージー案の支持者たちが特に足並みを乱されたのは、下位の裁判所を作るという考え方だった。第一審としては、州裁判所がすべての訴訟を審理することができるし、最高裁への上訴権さえあれば、十分に、国家としての権利を守り、全国で統一した判決を出すことができるというのが、彼らの見解だった。憲法制定会議の特徴として、多くの妥協が見られたが、各州の権利擁護派と国家重視派とのあつれきも、そのような妥協の1つとして解決を見た。この妥協の結果の表われが、合衆国憲法の第3条である。その書き出しは、「合衆国の司法権は、1つの最高裁判所、および連邦議会が随時制定、設置する下位裁判所に帰属する」となっている。

1789年裁判所法

  憲法が批准されると、連邦司法府設立に向けての動きは早かった。1789年に新しい連邦議会が召集されたが、そのときの最初にして最大の関心事は、裁判所の組織化だった。この上院法案第1号の審議に参加した人の多くは、憲法制定会議の司法府に関する議論に参加した同じ顔ぶれであり、その主張も同じだった。またしても問題になったのは、そもそも下位連邦裁判所を設立すべきなのか、それとも連邦レベルの訴訟は、最初に州裁判所で審理すべきなのかという点だった。この論争を解決しようとする過程で、議会はまったく別の2つのグループに分かれた。

  一方のグループは、まず州裁判所が連邦法に基づいて裁定を下し、最高裁は上訴審のみを審理すべきであると考えており、新政府が州の権利を台無しにする可能性に懸念を表明した。もう一方の議員グループは、州裁判所の視野の狭さと偏見を懸念していて、ほかの州や他国の訴訟当事者が不公正に扱われることを恐れていた。後者のグループは、当然、下位裁判所を設置する司法制度を支持していた。この論争から生まれた1789年裁判所法により創設された司法制度は、①長官1人と判事5人で構成される最高裁判所②それぞれが最高裁判所の2人の判事と1人の地方判事で構成される3つの巡回裁判所③1人の地方判事が審理する13の地方裁判所-から成るものだった。下位裁判所を設立する権限をすぐに行使し、1種類ではなく2種類の下位裁判所を作った。

連邦最高裁判所

  連邦最高裁判所のチャールズ・エバンス・ヒューズ判事は、その著書「米国最高裁判所(The Supreme Court of the United States)」(1966年)の中で、最高裁は「発想と機能の面でまぎれもなくアメリカが生んだものであり、それ以前の司法制度を参考にしたところはほとんどない」と書いている。合衆国憲法の立案者たちが思い描いていた最高裁のあり方を理解するには、もう1つのアメリカ的概念に目を向けなければならない。それは連邦という形態の政府である。建国の父たちは、中央政府と州政府の両方を作り、州裁判所は連邦法に従うものとした。しかし、連邦法の最終的な解釈を、ある1つの州裁判所に任せるわけにはいかなかった。ましてや、判断が一致しない可能性を思えば、複数の州裁判所に任せることはできなかった。従って、連邦法を解釈するのは最高裁判所でなければならない。建国の父たちがもう1つ意図したのは、連邦政府が州に対してだけでなく、個々の市民に対しても決定を直接下すようにすることだった。

  最高裁が米国の統治制度に対して占める重要な役割を考えれば、最高裁が大きな論争を引き起こすことは恐らく避けられない必然の成り行きだった。最高裁判所研究についての第一線研究者であるチャールズ・ウォーレンは、著書「米国史における最高裁判所(The Supreme Court in United States History)」の中で以下のように述べている。「最高裁判所の歴史の中で何より印象的なことは、思慮深く愛国的な人々から、最高裁は、連邦という形態の政府の中で、重要かつ必要な役割を果たしていることを常に認められてきたにもかかわらず、憲法のもとで設立された政府部門や政府機関の中で、これほど執拗な攻撃にさらされて、あるいは激しい反対を経て、現在の地位に至ったものはほかにはないという事実である。」

最高裁設立から最初の10年

  初代合衆国大統領のジョージ・ワシントンは、最高裁判所の初代判事たちの任命に当たり、2つの重要な伝統を打ち立てた。第一は、政治的にウマの合う人物を最高裁判事として任命するという慣習である。ワシントンは、連邦裁判所の判事全員を任命する機会に恵まれた唯一の大統領だったが、例外なしにすべての判事を忠実な連邦党員で固めた。第2の慣習は、ワシントン大統領から指名を受けた人々の出身地が、おおむね地理的な均衡を示していたことである。最高裁判事として最初に指名を受けた6人のうち3人は北部の出身で、3人は南部の出身だった。

  最高裁長官の職は、ワシントン大統領が行った任命のうち最も重要なものであった。ワシントン大統領は、最初の最高裁判所の長となる人物は、弁護士としても、政治家、行政官、指導者としても卓越した人物であるべきだと考えた。長官候補として多くの名前がワシントンの手元に届いたし、少なくとも1人は正式に志願してきた。最終的にワシントンは、ニューヨークのジョン・ジェイを選んだ。ジェイは44歳の若さだったが、弁護士、判事、外交官として経験を積んでいた。それに加えて彼は、最初のニューヨーク州憲法の主要な起草者だった。

  1790年2月1日の月曜日、最高裁判所はニューヨーク市のウォールストリート地区にある王立取引所の建物で初めて開廷し、ちょうど10日間審議を続けた。この間に最高裁は書記1人と紋章を選び、数人の弁護士に対して将来法廷に立つことを許可した。もちろん、審理すべき訴訟はなかった。実際、最高裁は最初の3年間、判決を下すことがまったくなかった。かくして最初の開廷に大した意味がなく、短時日で切り上げられたにもかかわらず、チャールズ・ウォーレンはこう述べている。「ニューヨークとフィラデルフィアの各新聞は、新政府に関連するほかのどの出来事よりも詳細に最高裁判所の第1回開廷期の模様を報道した。そして、そうした記事は、すべての州の主要紙に再録された。」

  最初の10年間に、最高裁が判決を出した訴訟はおよそ50件にすぎなかった。初期に最高裁の仕事があまりなかったことを考えると、ジェイ長官の功績は主に、巡回裁判所での判決と司法行動に求められると言えるかもしれない。

  しかし、恐らくジェイの功績で最も重要なことは、最高裁が行政府に対して、勧告的意見として法律に関して助言はできない、と一貫して主張したことだった。ジェイはアレクサンダー・ハミルトン財務長官から、バージニア州下院が採択した決議の合憲性に関して意見を求められた。ワシントン大統領も「中立宣言(Neutrality Proclamation)」に関する問題についてジェイに助言を求めた。いずれの場合も、ジェイの答えは断固たる「ノー」だった。その理由は合衆国憲法第3条が、最高裁は実際の論争に関係する事件についてのみ裁定する、と規定していたからだった。

マーシャル最高裁長官の影響

  ジョン・マーシャルは1801年から1835年まで最高裁長官を務めた。彼の最高裁での影響力の強さは、ほかのどの裁判官も及ばないほどだった。その圧倒的な影響力により、マーシャルは裁判官の意見表明の仕方を大きく改革することができた。マーシャルが長官に就任する以前、重要な訴訟では、判事は別々に法廷意見を執筆するのが常だった(「次々に」という意味のラテン語を用いて「順次(seriatim)」意見と呼んだ)。マーシャルの指導により、最高裁は1つにまとめた意見を言い渡すようになった。マーシャルが意図したのは、意見の不一致を最小限にすることだった。意見の相違は最高裁の権威を損なうと主張して、彼は判事たちに対しての意見を非公式の場で1つにまとめてから、統一意見を公にするよう説得に努めた。また、マーシャルは自らの権限を用いて、最高裁が政策立案過程に関与できるようにした。例えば、彼の長官在職期間の初期に起きた「マーベリー対マディソン事件」(1803年)で、最高裁は自らの法的権限を行使して、連邦議会の行為を憲法違反と断定した。

  「マーベリー対マディソン事件」の発端は、トーマス・ジェファーソンがジョン・アダムズの再選を阻んだ1800年の大統領選挙だった。1801年3月に、アダムズは敗れたにもかかわらず、大統領の職を辞する前、連邦党が多数を占める「レームダック(死に体)」の議会と組んで、新しく連邦判事の職をいくつか作った。この新しいポストにアダムズは、忠実な連邦党員を指名し、上院はこれを承認した。さらに、アダムズは退任間近の国務長官だったジョン・マーシャルを、新たな最高裁長官に指名してしまったのである。

  新たに任命された判事に辞令を伝えるのは国務長官であるマーシャルの仕事だった。しかし時間切れとなり、17人分の辞令はジェファーソンの大統領就任前に伝達することができなかった。新大統領は、国務長官であるジェームズ・マディソンに残りの辞令を伝達しないように命じた。落胆させられた被任命者の1人が、ウィリアム・マーベリーだった。彼と3人の同僚は、いずれも、コロンビア特別区の治安判事として承認を受けていた。が、4人は最高裁に提訴して、マディソンに辞令を伝達させるよう命じる裁定を求めることにした。彼らが根拠とした1789年裁判所法第13節は、最高裁に「職務執行令状(writ of mandamus)を発する権限を与えていた。これは公職者に対して、公務を私心をまじえず履行するよう求める裁判所の命令である。この訴訟でマーシャルは、最高裁長官として苦境に立たされた。以前に国務長官として、この件に関わっていたことを理由にマーシャルには自ら裁判を下りるべきだ、と示唆する者もいた。また、最高裁判所の権限という問題もあった。マーシャルが令状を出したとしても、マディソンは(ジェファーソンの命により)ほぼ確実に辞令の伝達を拒否するだろう。そうなれば、最高裁は命令を執行する力を失うことになる。しかし、もしマーシャルが令状の発行を拒否すれば、ジェファーソンは不戦勝をおさめることになる。

  一見したところ出口のないこの窮地にあって、マーシャルが下した決定は、まさに彼が天賦の才に恵まれていることを示すものだった。マーシャルは、1789年裁判所法の第13節が、そもそも憲法第3条に規定されている管轄権を超える権限(第1審管轄権)を最高裁に認めていることを理由に、裁判所法13節が違憲であると宣言した。かくして、最高裁が連邦議会の制定する法律の合憲性を審査・判断する権限が確立した。この判決は、最高裁がこれまでに下した判決の中で、最も重要な判決の1つであると見なされている。数年後、最高裁は州議会の立法行為に対しても違憲立法審査権を持てるよう主張した。マーシャルの任期中、最高裁は憲法上の理由を根拠に、12を超える州法を覆したのである。

最高裁の重点案件の変遷

  ほぼ1865年ごろまで、最高裁が扱う訴訟事件は、連邦政府と州政府の法的関係、つまり連邦制度についての訴訟が大半を占めていた。ジョン・マーシャルは強い連邦政府を信奉していたため、連邦政府の活動を妨げる州の政策を制限することに迷いはなかった。代表的な例として、「ギボンズ対オグデン事件」(1824年)がある。この裁判で最高裁は、蒸気船輸送を州が独占することは、州際通商に対する国の支配を妨げるとして、これを無効とした。マーシャルが最高裁を利用して連邦政府の力を拡大したもう1つの好例は、「マッカロク対メリーランド事件」(1819年)である。本件でマーシャルは、連邦議会が国法銀行(連邦政府認可銀行)を設立することは、憲法により認められていると裁定した。マーシャルの死後も、強い連邦政府を支持する最高裁の姿勢が大きく変わることはなかった。マーシャルの後を継いだロジャー・トーニーは、1836年から1864年まで最高裁長官を務めた。この間の最高裁の立場は一貫して、連邦政府に有利だったわけではないが、トーニー長官の最高裁判所がマーシャルの目指した方向を覆すことはなかった。

  1865年から1937年までの時期に、最高裁の訴訟の大半を占めていたのは、経済規制の問題だった。訴訟の重点が連邦制度から経済規制に移った理由は、商業活動の監視を目的とする連邦と州の法律の数が増加したことにある。こうした法律が増加するにつれ、その合憲性を争う訴訟の数も増えた。この期間の初めのころは、規制に対する最高裁の立場は一貫していなかったが、1920年代までには、政府の規制政策を強く敵視するようになった。連邦政府による規制は、憲法が認める連邦議会の権限の範囲外であることを理由に覆されることが多かった。一方、州法の場合は、主として憲法修正第14条によって保護される経済的権利の侵害に当たるという理由で破棄された。

  1937年以降、最高裁の審理の中心は、市民的権利の問題、特に憲法が保障する表現の自由と宗教の自由の問題に移った。さらに、刑事被告人の訴訟手続き権を扱う訴訟が増えた。また近年の最高裁は、民族的少数派や、不利な立場にあるグループに対する政府の平等な待遇をめぐる多数の案件について判決を下している。

政策立案機関としての最高裁

  最高裁が政策立案機関としての役割を果たせるのは、法律を解釈するという事実による。国の政策の問題は、解決を要する法律上の争いという形で最高裁に持ち込まれる。

  わかりやすい好例は、人種平等の分野で見つかる。1880年代末、公共施設でアフリカ系米国人と白人の分離を義務づける法律を多くの州が制定した。例えば、1890年にルイジアナ州は、鉄道の座席に関して、アフリカ系米国人と白人を「分離すれども平等(separate but equal)」なる措置を義務づける法律を制定した。その2年後、異議申し立てが行われた。

  ホーマー・プレッシーは8分の1が混血というアフリカ系米国人だったが、ルイジアナ州のニューオーリンズからコビントンに向かう列車で、白人用車両の座席から移れと言われて拒否し、このルイジアナ州法に抗議した。州法違反の嫌疑で逮捕されたプレッシーは、法律そのものが憲法違反であると主張した。連邦最高裁は、「プレッシー対ファーガソン事件」(1896年)で、ルイジアナ州法を支持した。かくして最高裁はその後、約60年間続くことになる「分離すれども平等」政策を確立した。この期間、多くの州は、人種によってバス、列車、駅、劇場で座る位置を分離し、別々のトイレや水飲み場を使うことを義務づけた。アフリカ系米国人は、レストランや公立図書館から締め出されることもあった。中でも恐らく最も重要なのは、アフリカ系米国人学生が学力水準の低い学校へ通わなければならなかったことである。

  公立学校における人種隔離の是非が争われたのは、有名な「ブラウン対教育委員会事件」(1954年)である。アフリカ系米国人の児童の両親が、人種隔離を義務づける、ないしは容認する州法によって、憲法修正第14条で保障された「平等な法的保護(equal protection of the laws)」を奪われていると主張したのである。最高裁は、教育施設の分離は本質的に不平等であり、従って、人種隔離は平等な保護の否定になるという判決を下した。ブラウン訴訟の判決で、最高裁は「分離すれども平等」主義に終止符を打ち、公立学校での人種隔離をなくす政策を確立した。

  最高裁が署名入りの意見書をつけて裁定を下す訴訟件数は、1年間に平均80件から90件である。このほかに何千件もの案件は、ろくに正式審理を経ずに処理される。こうして最高裁は、厳選された政策課題を詳細に審理しており、その内容は最高裁の歴史を通じて多岐にわたっている。民主主義において、終身任期の裁判官ではなく、選挙によって選ばれた国民の代表が広範な国の政策を扱うことになっている。従って、原則的には米国の裁判官は、政策立案にかかわらないものと考えられている。しかしながら実際には、裁判官は、ある程度まで、政策を立案せざるを得ないのである。

  とは言うものの、最高裁は、立法府や行政府の政策立案者とは違う。特に重要なのは、最高裁は政策立案を自発的にスタート(セルフスタート)させる器具を持ち合わせていないことである。判事たちは、問題が持ち込まれるまで待たなければならない。訴訟がなければ、司法による政策立案もない。しかし大統領や連邦議員にはこのような制約はないのである。しかも、どんなに主張の強い最高裁でも、下位裁判所の裁判官、連邦議会、大統領といったほかの政策立案者の行動によって、ある程度制約を受ける。最高裁決定の履行と達成は、他人に頼ることになる。

最終調停者としての最高裁判所

  最高裁は、第一審管轄権と上訴管轄権の両方を持つ。第一審管轄権とは、ある事件を最初に審理する権限のことである。上訴管轄権とは、下位裁判所がすでに判決を下した事件を上位裁判所が再審理する権限である。最高裁の場合、そのほとんどの時間が下位裁判所の決定の再審理に費やされるため、圧倒的に上訴裁判所としての役割の方が重い。なにしろ、アメリカで最上位の上訴裁判所でもある。そのため、最高裁は憲法、立法府の制定した法律、条約の解釈について最終的な判断を下す権限を持っている。ただし、例外的に憲法改正や、場合によっては連邦議会の措置によって、最高裁決定が変更されることもある。

  1925年以降、「裁量上訴(certiorari)」と呼ばれる仕組みによって、最高裁はその裁量で、どの案件を審理するべきかを決めることができるようになった。これは、下位裁判所の決定を最高裁で再審理してほしいという要求を出すことができ、この要求を受け入れるべきかどうかを、最高裁判事が決定できる仕組みである。再審が認められると、最高裁は、その事件の全記録を送付するよう下位裁判所に命令する移送命令書を発行する。最高裁が上訴を却下したときは、下位審の決定が確定する。

最高裁判所の仕事

  最高裁の公式開廷期は、10月の最初の月曜日からその期間の業務が終わるまでで、通常は6月末か7月になる。1935年以来、最高裁はずっとワシントンD.C.にある専用の建物を持っている。この大理石造りの堂々たる5階建ての建物の入口には、上部に「法の下の平等な正義」という言葉が刻まれている。建物は、米国連邦議会議事堂から通りを隔てた位置にある。最高裁の正式審理は座席数300の大きな法廷で行われる。法廷の正面に裁判官席が設けられている。法廷が開廷するときは、長官が8人の陪席裁判官を先任順に従えて、判事席の後方にある紫色のカーテンから入場し、着席する。判事席は、長官を中心に先任順に決められており、最古参の判事が長官の右手、次に古参の判事が左手に座り、残りは任期の長い順に左右交互に座っていく。法廷の近くには、判事が判決を下す会議室と、判事や裁判所職員たちの執務室がある。

  最高裁の開廷期は、実際に開廷する期間と休廷期間に分かれる。約2週間ずつの開廷期間には、公開で審理を行い、非公開の会議を開く。休廷期間には自室で仕事を行い、事件を検討したり意見を作成したりする。最高裁が正式審理する案件は1開廷期につき80件から90件で、かなり定型的な形で処理される。

口頭弁論(Oral Argument) 口頭弁論は、開廷期間の月曜から水曜に日程を組むのが一般的であり、午前10時から正午までと、午後1時から3時まで開廷される。この手続きは、事件の公判でも最初の尋問でもないため、陪審員は召集されないし、証人も呼ばれない。ただ、双方の弁護人が判事に自らの主張を述べる。一般的には、双方に30分ずつ時間が与えられるが、裁判所が、さらに時間が必要であると認めることもある。最高裁は、通常1日に4件の口頭弁論を聞く。口頭弁論を行う弁護人は、途中で裁判官からしばしば質問を受ける。双方の弁護人も判事も、口頭弁論を非常に重要なものとみなしている。なぜなら、このような個人的なやり取りができるのは、訴訟手続きの中でも、この段階だけだからである。

会議 最高裁は2週間の開廷期間が始まる前の週の金曜日に会議を開く。開廷期間中は、水曜日の午後と金曜日の丸1日、会議を行う。水曜日の会議では、月曜日に口頭弁論を行った案件について判事たちが議論する。金曜日の会議では、火曜日と水曜日に口頭弁論を行った案件に加え、検討が必要なほかのあらゆる事項について議論する。これらほかの案件のうち最も重要なものは、裁量上訴で移送されてきた請願である。

金曜日の会議では、議論する予定の案件リストが、事前に各判事に配られる。会議は午前9時30分または10時ごろ始まり、午後5時30分から6時ごろまで続く。判事たちは会議室に入ると握手を交わし、長方形のテーブルにつく。会議はドアにカギをかけて非公開で行われ、議論についての公式記録は残さない。長官が議長を務め、各案件について最初に意見を述べる。その他の判事は先任順に意見を述べる。

判決を下すために必要な判事の定足数は6人で、定足数に達するのが難しいことはほとんどない。欠員、病気、意見の不一致の可能性などの理由で参加しない判事もいるので、9人より少ない数の判事が判決を決めることもある。最高裁の決定は過半数で決まる。同数の場合には下位裁判所の判決が支持される。

意見書の作成 会議で仮決定が出されると、今度は裁判所の意見を1人の判事に委ねて、とりまとめてもらうという次の段階に移る。長官が多数派に加わった時は、長官自身が意見書を書くか、あるいは多数派意見に加わった別の判事に執筆させる。長官の意見が少数派の場合には、多数派のうち最古参の判事が意見書作成の割り当てを行う。

この会議の後、裁判所の意見書を作成する判事は、第1次草案の作成を始める。ほかの判事もその案件に関する別の意見を書くことができる。意見書が完成すると、多数派にも少数派にも回覧される。意見書作成の担当判事は、もともと少数派だった判事たちに対し、意見を変えるよう説得するが、同時に、まとまっていた多数派の意見が分裂しないようにも努める。そこで交渉が始まる。ほかの判事を満足させるため、もしくはその支持を得るために、意見書の表現を変更することもある。最高裁の内部で見解の相違が根深いと、明快で理路整然とした意見を出すことが難しくなる。多数派の組み合わせが変わったり、別の判事の意見が最高裁の公式判決となったりすることもある。

ほとんどの場合、1つの意見に過半数の支持が集まるが、満場一致の判決はほとんどない。最高裁の意見書に同意しないことを、「異議表示(dissent)」という。異議表示(反対意見の表明、ともいう)には「意見」(理由)をつける必要はないが、近年は「意見」をつけるのが一般的である。複数の判事が異議を表明する場合は、それぞれが意見書を書いてもいいし、まとまって書いてもいい。

時には、最高裁の決定には同意するものの、同意にいたる理由は別、という判事が現れる。このような場合、そのような判事はいわゆる「同意意見(concurring opinion)」を書くことができる。「同意と異議表示(concurring and dissenting)」という意見書は、裁判所の決定に一部同意するが、その他の部分では反対するものである。最後に最高裁は、時々「全裁判所の意見(per curiam opinion)」を出すことがある。これは無署名で、通常、きわめて短いものである。このような意見書は、最高裁が再審理を受け入れたが、完全な審理を行わなかった時によく使われる。例えば、口頭弁論を行わずに判決を出し、その判決理由を「裁判所意見」で説明するような場合である。

連邦控訴裁判所

  最高裁と比べると、控訴裁判所がマスコミで報道されることはあまりない。しかし、控訴裁判所は米国の司法制度の中で、非常に重要な役割を担っている。最高裁が完全な意見を付して判決を言い渡す件数は、年間、わずか80件から90件である。こうしたことを考えると、連邦法廷制度上、ほとんどの上訴事件にとって、控訴裁判所が最終裁判所であることは明らかである。

巡回裁判所:1789~1891年

  1789年裁判所法により、3つの巡回裁判所(酵素裁判所)が設立され、それぞれの巡回裁判所は、2人の最高裁判事と1人の地方裁判事で構成された。巡回裁判所は、巡回区内の管轄区ごとに、毎年2回開廷することになっていた。地方裁判事は、巡回裁判所の仕事量を決める主要な責任を負うことになった。2人の最高裁判事はその地区を訪れて、裁判に参加した。このようなやり方を取ったため、巡回裁判所に対する関心は、国家レベルというより、むしろ局地的なものとなった。

  1この巡回裁判所制度は、当初から不満足なものとみなされた。特に、最高裁の判事たちは、地方まで出向かなければならないことに不満を持っていた。エドマンド・ランドルフ司法長官とワシントン大統領は、最高裁判事の負担軽減を唱えた。連邦議会は1793年、巡回裁判所の構成に少しばかり手を加え、最高裁判事ただ1人、地方裁判事も1人とした。1801年、ジョン・アダムズ政権の末期に、連邦議会は、最高裁判事による巡回を撤廃した。そして、新たに16人の巡回裁判所判事の任命を承認し、下位裁判所の裁判権を大幅に拡大した。

  1しかし、トーマス・ジェファーソン大統領の下で発足した新政権がこの措置に強く反対したことから、連邦議会はこれを取り消した。1802年巡回裁判所法によって、最高裁判事の巡回が再開され、巡回区の数も増えた。しかしこの法律で、巡回裁判所の審理は、地方裁判事がたった1人で行うことが認められた。こした変更はごくささいなことに思えるかもしれないが、実際には非常に重要だった。地方裁判所と巡回裁判所のいずれにおいても、地方裁判事ハますます大きな責任を負うようになっていった。そして、第一審と控訴審の管轄権のどちらも、事実上、地方裁判事の手に委ねられるようになった。

  1控訴裁判所が次に大きな進展を遂げたのは、1869年、連邦議会が新たに9人の巡回裁判所判事の任命を承認し、最高裁判事の巡回裁判所での職務を減らして、2年ごとに1開廷期とする法案を承認した時だった。それでもなお、最高裁への上訴権には制限がなかったため、同裁判所は訴訟の大洪水になった。

控訴裁判所:1891年~現在

  1891年3月3日、「エバーツ法」が署名されて成立し、連邦巡回控訴裁判所という新しい裁判所が設置された。この新しい裁判所は、地方裁判所からの上訴審のほとんどを審理することになっていた。1789年から存在していた巡回裁判所も、残っていた。新しい巡回控訴裁判所は、巡回裁判所判事1人、巡回控訴裁判所判事1人、地方裁判事1人、最高裁判事1人で構成されることになった。この新しい裁判所では、裁判官2人で定足数に達した。

  エバーツ法の成立に伴い、連邦司法制度には、地方裁判所と巡回裁判所という2つの審理裁判所ができた。また、控訴裁判所も巡回控訴裁判所と最高裁判所の2つがあった。ほとんどの上訴案件は、巡回控訴裁判所が審理することになっていたが、このエバーツ法は、場合によっては、最高裁が直接再審理することも認めていた。簡単に言えば、巡回控訴裁判所の設置により、最高裁は、軽微な事件の審理から解放された。依然として控訴は可能だが、最高裁は自分の仕事量をはるかに大きく管理できるようになった。かくして、かつて最高裁が負担していた事件の多くは、2つの下位連邦裁判所で処理されるようになった。

  控訴裁判所が次の段階へと進化したのは1911年だった。この年連邦議会は、上訴管轄権がなく、地方裁判所の機能と重複することが多かった、旧来の巡回裁判所を廃止する法律を成立させた。

  今日では、中間にある控訴裁判所は、正式には控訴裁判所という名称だが、日常的には、今でも巡回裁判所と呼ばれている。現在12の地域に控訴裁判所があり、承認を受けた控訴裁判所判事179人が働いている。控訴裁判所は、巡回区内の連邦地方裁判所から(あるいは、場合によっては行政機関から)上訴された案件を再審理する責任を負っている。1982年に、連邦議会が地理的な巡回区ではなく、管轄権上の巡回区を持つ「連邦巡回区(Federal Circuit)」を設定し、このとき同時に、専門的な案件を扱う控訴裁判所も誕生したのである。

控訴裁判所の再審理機能

  控訴裁判所が再審理する訴訟のほとんどは、連邦地方裁判所から上がってくる。下位裁判所の決定に不服の訴訟当事者は、同裁判所を管轄する巡回区の控訴裁判所に上訴することができる。控訴裁判所は、特定の行政機関の決定を再審理する権限も与えられている。

  控訴裁判所はどのような案件が上がってくるか、自分では決められないため、平凡な案件も、きわめて重要な事件も、どちらも処理することになる。一方には、中味がなく、勝訴の可能性もほとんどないか、あるいはまったくないような、つまらない上訴事件や請求がある。しかし反対の極には、国の諸政策に関係する重要な問題を提起し、激しい意見の衝突が生じる事案もある。後者の場合は、控訴裁判所が下す決定によって、訴訟当事者だけでなく、社会全般に影響が及ぶ政策が決まる可能性が高い。市民的権利、議員定数の是正、宗教、教育に関する訴訟は、いずれも、すべての市民に影響しそうな紛争の代表的な例である。

  控訴裁判所の再審理の目的は2つある。第一は誤審の是正である。各巡回区の裁判官たちは、連邦地方裁判所と連邦政府機関の活動を監視し、国および州の法律の適用ぶりを監督することが求められている。その際、控訴訴裁判所は事実に関する新たな証拠を求めることなく、下位裁判所の記録を調べて、誤審の有無を検証する。誤審の是正を通じて、控訴裁判所もまた紛争を解決し、国の法律を執行する。

  控訴裁判所の第二の機能は、数は少ないが、最高裁での再審理に値する訴訟を選別し、形を整えることである。巡回裁判所の裁判官は最高裁判事より先に法的問題に取り組み、再審理に価すると考えられる請求内容にまとめ上げることが許されている。司法学者によると、控訴の内容が、2審になると1審と異なることがしばしばあるという。

政策立案者としての控訴裁判所

  政策立案者としての最高裁の役割は、最高裁が法を解釈するという事実に由来するが、同じことが控訴裁判所にも言える。控訴裁判所はほとんどすべての訴訟の最終審であるため、その政策立案者としての役割の大きさもまた重要である。

  巡回裁判所の裁判官が、幅広い影響を及ぼすことができることを示す一例として、第5巡回区の訴訟判決を検証する。テキサス大学法科大学院は、何年間かにわたり、全米の多くの法科大学院と同様、少数民族出身の学生の入学を増やすため、アフリカ系米国人とメキシコ系米国人の志願者を優遇していた。この慣行が連邦地裁に訴えられた。白人と優遇されていない少数民族出身の志願者を差別しており、憲法修正第14条に違反するという理由だった。1996年3月18日、第5巡回区連邦控訴裁判所判事はこの「ホップウッド対テキサス事件」で、憲法修正第14条は、学校がこのような方法で差別することを認めてはいないし、当該法科大学院が合否判定の要因に人種を利用することも認められない、との判決を下した。最高裁が、本件について裁量上訴の申請を受理しなかったため、第5巡回区を構成するテキサス、ルイジアナ、ミシシッピの5州では、この決定が地元の法律となった。この決定によって影響を受けるのは、厳密には、第5巡回区にある学校だけかもしれないが、ナショナル・ロー・ジャーナル(The National Law Journal)誌は論説で、その影響が全米に及んでいることを示唆し、次のように述べている。「ホップウッド事件の影響は南部3州に限定されると主張する者もいるかもしれないが…、全米の法科大学院やその他の学部長は、同様の訴訟を恐れて、『アファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)』に代わる優遇策を見つけようと躍起になっている、というのが実情である」

控訴裁判所の仕事

  控訴裁判所は、訴訟を受け付けるかどうか判断するにあたって、最高裁ほどの裁量権は持っていない。しかし、控訴裁判所の裁判官は、できるだけ効率的に時間を使う方法を編み出した。

審査 審査の過程で、判事は上訴案件を完全な再審理の対象にするか、あるいは、その他の方法で処理するかを決める。同じような請求を1つの訴訟にまとめ、統一した判決を下すことで、訴訟件数をある程度減らすこともできる。どの案件を口頭弁論なしで処理するか決めるにあたり、控訴裁判所は、法律事務官や職員弁護士にますます依存するようになっている。これらの裁判所職員が請願書や準備書面を読み、判事に助言書を提出する。この結果、多くの訴訟は口頭弁論の段階に進むことなく処理される。

3名合議法廷 正式審理が行われる案件は、通常、巡回区のすべての裁判官ではなく、3人で構成される判事団によって審理される。このことは、裁判官3人からなる複数の判事団によって、しばしば、巡回区内のさまざまな都市で、審理を同時に行うことができることを意味する。

大法廷での審理 時には、同じ巡回区内の別々の判事団が、似たような案件にもかかわらず、食い違う決定を下すことがある。このような違いを解消し、同一巡回区の判断を一致させるため、連邦法は「大法廷(en banc)」(古フランス語で高い座席の意)の手続きを規定している。巡回区のすべての判事が同席して審理を行い、判決を下すものである。この原則の例外は、裁判官の数が多いため全裁判官の召集が非常に面倒な第9巡回区である。第9巡回区では、大法廷に参加する裁判官の数は通常11人である。このほかに案件が極めて重要な問題をはらんでいる場合にも、大法廷の手続きを使うことができる。(訳注=第9巡回区には、西海岸の7州とアラスカ、ハワイの2州、それにグアム、北マリアナ諸島が含まれる。)

口頭弁論 審査を通ったあと、訴訟当事者の間で解決できなかった事案は、口頭弁論に回される。原告と被告側の双方の弁護人には、短い時間(短い時は10分程度)が与えられ、準備書面で述べた論点を説明し、裁判官からの質問に答える。

判決 口頭弁論の後、裁判官たちは手短に協議し、意見が一致すれば、その決定を直ちに発表する。意見が一致しない場合には、時間をかけて協議した後で、判決を発表することになる。協議の後に、簡単な命令や裁判所全体の意見を付した判決が発表される。署名入りの長い意見書や、時には反対意見や補足意見を伴う決定が下されるのは、ごく一部である。近年では、巡回区によって実態は異なるものの、公表される意見の数は減少傾向にある。

連邦地方裁判所

  連邦地方裁判所は、連邦司法制度への基本的な窓口である。訴訟の中には、控訴裁判所や、ことによっては最高裁まで送られる案件も相当あるが、たいていの連邦訴訟は、第一審の地方裁判所よりも上位の裁判所に進むことはない。審理件数だけでみると、地方裁判所は、連邦司法制度の中では馬車馬のような働きをする。だが、その重要性は、単に多くの訴訟を処理しているというだけにとどまらない。

最初の地方裁判所

  連邦議会は1789年裁判所法の成立に伴い、連邦事実審理裁判所の全国的なネットワークを創設することを決めた。同法第2節の規定により、13の地方裁判所が設立された。これは、当時の米国11州のそれぞれを1管轄区としたほか、マサチューセッツ州とバージニア州のうち、後にメーン州とケンタッキー州になる一部分を、それぞれ別の管轄区としたものである。このときの地区構成作業が前例となって、管轄区を線引きする際に州の境界線を尊重するという慣習が生まれ、これは今も続いている。

最初の地方裁判所裁判官

  各連邦地方裁判所は、その管轄区に居住する裁判官が1人で審理することになっていた。この話が広まるやいなや、ワシントン大統領の手元には、裁判官としての任用を希望する人々からの手紙が舞い込み始めた。多くの人々は、ワシントン大統領に推薦してほしいと連邦議員やジョン・アダムズ副大統領にせがんだ。自分から応募しても必ずしも成功しなかったし、それだけが候補者の名前が大統領の目にとまる、唯一の方法でもなかった。例えばハリー・イネスは、ケンタッキー州の裁判官に自ら応募した訳ではなかったが、同州選出の議員からの推薦を受け、晴れて裁判官となった。

  新たな州が合衆国に加わると、新しい地方裁判所が設置された。地方裁判所の追加や、裁判官の辞任によって、ワシントンは33人の裁判官を任命した。彼が任命した裁判官は全員職業弁護士で、7人を除く全員が裁判官、検事、または検事総長として、州または地方で法律の実務経験があった。それ以来、米国大統領は、公職に就いた経験のある弁護士を連邦裁判所の裁判官に任命し続けてきた。

現在の地方裁判所の組織

  国が大きくなるに伴い、新たな地方裁判所が設置されていった。最終的に連邦議会は、いくつかの州を2つ以上の管轄区に分けるようになった。カリフォルニア、ニューヨーク、テキサスの3州は最も多く、4つの管轄区に分かれている。管轄区の区割りは、州の境界線を一貫して尊重してはいるが、これ以外に何か合理的な計画に基づいて編成されているようには見えない。面積や人口は、管轄区によって大幅に違う。ここ何年間かのうちに、コロンビア特別区の裁判所も加わり、いくつかの米国領にも、地方裁判所が置かれてきた。現在、連邦地方裁判所は50州、コロンビア特別区、グアム、プエルトリコ、バージン諸島、北マリアナ諸島に置かれている。

  最初の地方裁判所には、それぞれ裁判官1人が配属された。人口と訴訟件数の増加に伴い、議会はほとんどの管轄区で、裁判官の数を定期的に増やさなければならなかった。1990年連邦裁判官法(Federal Judgeship Act of 1990)により、新たに74の地方裁判官職が作られ、裁判官の総数は、現在649人となっている。今日では、すべての管轄区で2人以上の裁判官が配置され、マンハッタンとブロンクスの両区を含むニューヨーク南部地区には現在、全米最多の28人の裁判官がいる。各連邦地方裁判所では、通常、1人の裁判官が審理に当たるため、同一地区内で、常に、複数の審理が進行しているといえる。

事実審理裁判所としての地方裁判所

  連邦議会は、連邦司法制度の事実審裁判所として地方裁判所を作り、ほぼすべての訴訟について第一審管轄権を与えた。地方裁判所は、弁護人が証人を尋問・反対尋問する唯一の連邦裁判所である。事実に関する記録はこの段階で確定される。事実審理裁判所の判決をめぐるその後の上訴は、事実関係の再構築よりも、誤りの是正に重点が置かれる。

  事件の事実関係を見極める仕事は、しばしば陪審員団の双肩にかかってくる。陪審員団とは、地域社会を代表して事実を公正に判定し、法律をその事実に適用する市民グループである。合衆国憲法は、修正第6条で、刑事事件における陪審裁判の権利を、また修正第7条では民事事件での陪審裁判の権利を、それぞれ保障している。しかし、この権利を放棄することも可能であり、その場合、裁判官は事実関係と法律適用の両方を判定する。このような形の審理を「非陪審審理(bench trial)」という。

  連邦地方裁判所関係する陪審員団には2種類がある。そのひとつ、大陪審は、連邦法に反する犯罪で告訴された人物に、その罪を犯したと信じるに足る相当な理由があるかどうかを判定するために召喚される男女のグループである。大陪審員は、連邦検事が行った起訴を審理するために、定期的に会合を開く。もう1つの小陪審員は、地域社会から無作為に選ばれた人々で、証拠を審理し、民事裁判の被告に責任があるかどうか、あるいは、刑事裁判の被告が有罪か無罪かを判定する。連邦規則では、刑事事件には12人の陪審員が必要だが、民事事件ではそれより少なくても許される。普通、連邦地方裁判所が民事事件で使うのは、6人で構成する陪審員である。

  審理裁判所は、主に規範の執行に従事しているとみなされる。一方、控訴裁判所は、政策立案という、より大きな機会に恵まれているとみなされている。規範の執行は、司法の運営戸と密接に結びついている。これはすべての国家が、公正で秩序ある社会に不可欠とみなされる基準を発展させているからである。社会の規範は、制定法、行政規則、判例や地域の伝統の中に体現されている。例えば、刑法の条項は、容認できる行為とできない行為の概念を具体化し、法律にまとめたものである。その法律に違反しているという申し立てについて判決を下す裁判官は、規範の執行を行っているのである。この種の事件の処理で、裁判官は、法律上・手続き上の厳しい用件を逃れることは許されないので、彼らに新しい法律を作り、新しい政策を進める公算はほとんどない。民事訴訟の場合もまた、裁判官の活動は規範の執行にとどまることが多い。民事訴訟は、一般的に私的な紛争から発生し、その結果は訴訟当事者だけの利害にかかわるものだからである。

  しかしながら地方裁判所は、政策立案の役割も果たしている。米国人が訴訟好きになるにつれ、かつては非公式に解決されていた紛争も、いまではますます裁判所で決着がつけられるようになってきた。かつては私的とみなされていた領域に、ますます裁判所がかかわるようになっている。連邦地方裁判所にとって、これは何を意味するのだろうか。ある研究は以下のように述べている。「これらの新しい司法分野では、控訴裁判所や法的指針が、ともすれば不明確、不正確なことが多い。その結果、事実審理裁判所の裁判官にとって、白紙に書き込む、つまり政策を立案する機会はとてつもなく大きい」

憲法裁判所と立法裁判所

  1789年裁判所法は、今も存続する、三重構造の連邦裁判所制度が作られた。しかし、連邦議会は憲法第3条、および第1条で保障された権限を時おり行使して、その他の連邦裁判所を設立してきた。第3条によって設立された裁判所は、「憲法上の裁判所」として知られ、第1条によって設立された裁判所は「立法上の裁判所」と呼ばれている。最高裁判所、控訴裁判所、連邦地方裁判所はみな、「憲法上の裁判所」である。「立法上の裁判所」には、軍事控訴裁判所(U.S. Court of Military Appeals)、連邦租税裁判所(United States Tax Court)、退役軍人控訴裁判所(Court of Veterans Appeals)などがある。

  憲法上の裁判所と異なり、立法上の裁判所には司法機関としての職務のほか、しばしば行政および準立法機関としての役割も担う。もう1つの違いは、立法上の裁判所が、連邦議会の制定した特定の法律の施行という明確な目的を持ってしばしば作られることである。一方、憲法上の裁判所は、訴訟を処理するために作られた裁判所である。

  最後に、憲法上の裁判所と立法上の裁判所は、それぞれほかの2つの政府部門からの独立性の度合いが異なる。「第3条裁判所(憲法上の裁判所)の裁判官は、〝罪過のない限り〟裁判官を務める。つまり終身任期に相当する。「第1条裁判所(立法上の裁判所)の裁判官には、罪過のない限り任期を務められるという憲法上の保障がないため、議会が具体的な任期を定めることができる。つまり、立法上の裁判所と比べて憲法上の裁判所の方が、立法、行政という、ほかの2つの政府部門からの独立性が高い。

連邦司法制度における管理部門および職員の支援

  司法制度でもっとも目立つ役者は裁判官だが、大勢の脇役も仕事をしている。裁判官にとって不慣れな仕事や不向きな仕事、さもなければ、単に十分な時間を割けない仕事には、脇役たちの協力が必要である。こうした仕事の支援をする職員の中には、法律事務官(law clerk)のように、ある1人の裁判官のためだけに働く者もいれば、連邦治安判事(magistrate judge)のように、特定の裁判所に配属される者もいる。さらに、合衆国裁判所事務局(Administrative Office of the United States Courts)のような、司法制度全体のために働く機関に雇用されている者もいる。

連邦治安判事

  増加する仕事量に取り組む連邦地裁判事を支援する措置の1つとして、連邦議会は1968年、治安判事の制度を設け、各地方裁判所の具体的なニーズや状況に合わせて対応できるようにした。治安判事は地方裁判所の裁判官によって任命される。任期は8年間だが、「正当な理由」があれば任期満了前に免職させることができる。議会が制定した指針の範囲内で、各地方裁判所の裁判官が治安判事の義務と責任を決める。法律的に治安判事は、民事事件の場合は当事者の同意があれば、陪審裁判でも非陪審裁判でも、すべての手続きを行って裁定を下すことができる。また、治安判事は刑事事件の場合でも、被告の同意があれば、管轄区内で犯された軽罪(重罪よりも軽い犯罪)で告発された被告の裁判を行うことができる。しかし、治安判事に責任を委任するかどうかの決定は、依然として地裁判事が行うため、治安判事が訴訟処理に参加する機会は、法が認めるよりも少ないかもしれない。

法律事務官

  米国の裁判官で最初に法律事務官を使った人物は誰かとたどっていくと、マサチューセッツ州のホレス・グレーに行きつくと言われる。1875年夏、マサチューセッツ州最高裁判所長官だったグレーは、成績優秀なハーバード大学法科大学院の新卒者を私費で雇い、その後も毎年、ハーバードから新しい法律事務官を雇った。1882年に連邦最高裁判事に任命されると、グレーは新しい法律事務官を伴って、この国の最高司法機関にやってきた。

  最高裁でのグレー判事の後任はオリバー・ウェンデル・ホームズだった。彼も毎年、ハーバード大学法科大学院の優等卒業生を法律事務官に雇うというやり方を踏襲した。イエール大学の元法学部教授であるウィリアム・ハワード・タフトが最高裁長官になると、毎年イエール大学法科大学の学部長から新しい法律事務官を推薦してもらった。元コロンビア大学法科大学院学部長であるハーラン・フィスク・ストーンは、1925年に最高裁判事になると、毎年、コロンビア大学の卒業生を雇った。

  こうした例を端緒として、連邦裁判所全体で使われる法律事務官の数は徐々に増えていった。現在では連邦裁判所の裁判官のもとで2,000人以上、破産裁判所の裁判官と治安判事のもとでは600人以上が働いている。個々の裁判官が採用する法律事務官以外に、すべての控訴裁判所と複数の地方裁判所が、裁判所全体のために働く法律事務官を雇用している。

  法律事務官の仕事は、自分の上で働く裁判官の意向や裁判所の種類によってもさまざまである。連邦地裁判事の法律事務官は、主に調査助手として仕事をすることが多い。民事および刑事事件の申し立てを精査することに多くの時間を費やす。争点や当事者の立場に注意しながら各申し立て書を読み、そこに提起された重要な点を調べて、裁判官のためにメモを作成する。彼等は訴訟手続きの最も早い段階で作業を行うため、弁護人や証人との接触の機会が相当多くなることがある。こうして法律事務官は、この段階で、裁判所意見の初稿の作成に関与することもある。

  上訴審の段階になると、法律事務官はまず、上訴請求で提示された法律問題と事実関係の問題を調査することをきっかけに、その案件に携わるようになる。控訴裁判所には、事件の受理と却下に関して、最高裁が持つような裁量権がない。そこで、一定の審査方法を用いて、より多くの時間をかけずに処理できる事案と、時間と労力をかけて処理する必要がある事案とを区別する。法律事務官はこの審査プロセスに欠かせない存在である。

  多くの案件が口頭弁論に回されるため、法律事務官はその準備で裁判官を補佐するように求められることがある。口頭弁論の前に、裁判官がつねに記録を集中的に分析できるとは限らない。実際、あまり時間がなく、法律事務官から、記録の核心の部分です、と注意を促されても、裁判官はざっと目を通すのが精一杯なのである。

  控訴裁判所で決定が下されると、法律事務官は、その決定に伴って出される命令の作成に加わることが多い。一般的には、裁判官の指示に従って、意見や命令の予備草案を作成する。また、裁判官が書いた意見書の中の引用(準備書面や法廷での弁論で用いた法令、判例、法律の教科書の参照事項)を編集したり点検したりするよう求められることもある。最高裁判事の下で働く彼らの仕事は、概して、その他の控訴裁判所で働く法律事務官の仕事に等しい。彼らは、どの事件を審理するかを裁判官が決める際に、欠くことの出来ない重要な役割を果たす。1972年、ルイスF.パウエル・ジュニア判事の提案で、最高裁判事の大多数が「申し立てプール(certpool)」制度に参加するようになった。この制度では、判事が法律事務官を互いにプールして共用し、すべての申し立て案件を振り分けて、1人の事務官がまとめた裁量上訴に関するメモを、この制度に参加するすべての判事に回覧する。このメモには、その事件の事実関係、提示された法律問題、取るべき手続きへの助言―つまり、本件を正式審理すべきか、拒絶して棄却すべきか―の概要が示されている。判事たちが採決を行って審理することが決まれば、事務官が控訴裁判所での法律事務官と同様に、判事が口頭弁論で使う可能性がある判事用のメモを作成する。最後に、最高裁判事の法律事務官は、控訴裁判所の裁判官の下で働く法律事務官と同じように、意見書の作成も手伝っている。

合衆国裁判所事務局

  連邦司法制度全体の運営は、合衆国裁判所事務局が担当している。同事務局は1939年の設立以来、事務用品の配布から連邦ビルに裁判所を収容するためのほかの政府機関との折衝、裁判所職員の記録の保管、連邦裁判所で審理される事件のデータ収集に至るまで、あらゆることを扱ってきた。

  事務局はまた、政策立案を行う連邦司法制度の行政政策立案組織である合衆国司法会議(Judicial Conference of the United States)のためにも働いている。司法会議の多数の委員会に統計データを提供するだけでなく、同会議に提供される情報や提案の受け取り窓口と情報センターの機能も果たしている。事務局は、連邦司法制度と司法会議の連絡役であり、連邦議会、大統領府、専門団体、一般国民との対応に際して、司法府側の立場を代弁する役割を務めている。とりわけ重要なのは、連邦議会で司法府の代表を務めることであり、関係する裁判官とともに、司法府の予算案、判事増員の要請、裁判規則の改定提案など、重要な案件について詳しい説明を行う。

連邦司法センター

  1967年に設立された連邦司法センター(Federal Judicial Center)は、継続的な教育・研究のための連邦最高裁の機関である。その職務は概して3つの領域に分かれる。すなわち連邦裁判所に関する研究を行うこと、連邦裁判所の管理・運営を向上させる提言を行うこと、司法府職員の教育・訓練プログラムを作ることである。

  連邦司法センターの設立以来、裁判官たちは同センターが主催するオリエンテーションその他の教育プログラムを受けるという恩恵を受けてきた。近年は、治安判事、破産裁判所裁判官、管理職員たちも教育プログラムを受けることができるようになった。連邦司法センターは、ビデオや衛星中継技術を広範に活用しており、多数の人々が利用することができるようにしている。

連邦裁判所の仕事量

  地方裁判所、控訴裁判所、最高裁判所という連邦司法制度の3つの段階で、どこを見ても法廷の仕事量は非常に多い。

  2002年会計年度に連邦地裁で開始された訴訟件数は34万件強だった。刑事事件だけでも1993年以来、43%増加している。

  1995年、巡回裁判所で提訴された上訴裁判の平均件数は50,072件だった。この数字は毎年増加し、2003年には60,847件に達した。しかし、控訴裁判所で終結した上訴の数も徐々に増加しており、1995年の49,805件から、2002年には56,586件になった。

  最高裁判所の総処理件数も、歴史的に見ると多数に上っており、2002年の開廷期には8,255件の訴訟事件があった。しかし、最高裁には、どの事件が完全な審理に値するかを決める裁量権がある。そのため、実際に最高裁で審理された訴訟の数は、年を経るごとにかなり劇的に減少している。2002年の開廷期に審理した案件はわずか84件にすぎず、最終的に処理した79件のうち、71件に署名入りの意見書が付いただけである。






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