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議員選挙区の再編に関する審理の際に地図を眺めるノースカロライナ州最高裁判所のサラ・パーカー判事。(AP/WWP) |
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ニューヨーク州最高裁判所(ニューヨーク州ロチェスター)で申し立てを審理する控訴部の判事たち。(© Syracuse Newspaper/Carl J. Single/The Image Works) |
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巡回裁判所には、連邦事実審理裁判所の民事訴訟に関する控訴管轄権がある。例えば、2000年、連邦第4巡回区控訴裁判所に対して提起された控訴裁判は、連邦地方裁判所が行った決定はアパラチア山脈での採鉱を禁止するものだとして、鉱山産業が取り消しを申し立てたものだった。(AP/WWP) |
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控訴巡回裁判所はまた、特定の連邦行政機関からの控訴案件を審理することもできる。しかし、2羽のニシアメリカフクロウのヒナは、環境団体のオーデュボン協会が提訴した訴訟に自分たちの種の生息地が関係していることなど、知るよしもない。(AP/WWP) |
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連邦地方裁判所には、連邦民事・刑事事件の裁判権がある。この写真では、司法省の主席弁護士デイビッド・ボイズ(左)とコネチカット州司法長官のリチャード・ブルーメンソール(右)がマイクロソフト・ウィンドウズ98の訴訟について報道関係者たちと議論している。(AP/WWP) |
裁判所の管轄権を定めるにあたり、連邦議会と合衆国憲法ならびに各州の議会と憲法は、各裁判所が審理する訴訟の種類を規定している。
本章では、とりわけ連邦議会が、裁判官の審理する訴訟の種類を変更することにより、裁判所の活動にどのような影響を及ぼすかについて検討することにする。さらに、以下に述べる10原則を検証しながら、司法府の自己抑制についても議論する。これらの原則は、法制度の伝統と、憲法・制定法を教訓として得たもので、裁判官が事件を審理するかどうかを左右する判断基準となっている。
連邦裁判所制度は、事実審裁判所、控訴裁判所、最高裁判所という3段階に分かれている。
連邦議会は、連邦地方裁判所の管轄権を定めている。これらの地方裁判所は、連邦法にかかわる民事・刑事事件について第一審管轄権を持っている。つまり、当事者が誰であろうと問題の重要度がどうであろうと、これらの訴訟は、まず連邦地方裁判所で審理しなければならないことが法で定められている。
刑事訴訟 連邦地方検事が、合衆国刑法典に違反した事件が発生したと信じるに足りる根拠を持つとき、刑事訴訟は開始される。連邦大陪審から起訴状を受け取った連邦地方検事は、自分が属する管轄区の地方裁判所で、被疑者に対する起訴手続きを行う。連邦議会が規定する犯罪行為の範囲は広い。その中には州境を越えた自動車の窃盗や麻薬の不法輸入、大統領の暗殺、市民的権利を奪う陰謀、さらには禁猟期間中の渡り鳥を殺す行為などが含まれる。
被疑者が起訴されたあと、もし司法取引が行われなければ、連邦地方裁判所の裁判官が事実審理を行う。法廷で被告は、「権利の章典」で保障された権利(迅速な公開裁判を受ける権利など)や、州の制定した法律、または最高裁判所の判決で認められた権利(12人の陪審員による全員一致の評決が必要)など、すべての権利や免責特権を受けることができる。被告は、自分と同等の身分や地位にある陪審員による審理を受ける権利を放棄できる。告発された犯罪について無罪とされた被告は釈放され、同じ罪で再び裁判にかけられることはない(憲法修正第5条による二重の危険(double jeopardy)からの保護)。被告が有罪になると、地方裁判所裁判官は連邦議会が規定した範囲内でしかるべき量刑を決定する。刑期については、それが規定範囲内であれば、控訴することはできない。無罪評決の場合、検察側は控訴できない。しかし、有罪評決を受けた被告側は、裁判官、または陪審員が法的に不適切な決定をしたと考える場合、控訴できる。
民事訴訟 地方裁判所が負担する訴訟の大多数は民事事件である。つまり、私人と私人の間、あるいは、検察以外の連邦政府機関と私人との間の訴訟である。連邦地裁が第一審の審理を行う民事事件は、いくつかに分類することができる。その第一は、合衆国憲法の解釈ないし適用、連邦議会が制定した法律、他国との条約をめぐる訴訟である。この区分の例としては、連邦政府により保護されている市民的権利が侵害されたとの主張、議会が制定した憲法違反の法律によって損害を受けているとの主張、自分に不当な影響を及ぼす条約によって、権利が侵害されているとの主張―などがある。ここで重要なポイントは、合衆国事実審裁判所が管轄権を持つためには、連邦問題が提起される必要があるという点である。
従来から、ある種の訴訟では、いくら少額でも金銭が紛争の対象にならないと、連邦地裁は審理を開始できなかった。訴訟が、いくつかの一般的区分の1つに含まれる場合、この金額要件は適用されない。例えば、「1965年投票権法」のような市民的権利に関する法律の違反についての申し立ては、州裁判所ではなく、連邦裁判所で審理しなければならない。このほか、この区分に含まれる種類の案件としては、特許や著作権に関する訴訟、旅券や帰化に関する手続き、海事法や海事事件に関する紛争、米国郵便法の違反事件などがある。
連邦地方裁判所が一般的な第一審管轄権を行使するもう1つの幅広い訴訟区分としては、「州籍相違」の紛争がある。これは、異なる州の住民の間の紛争、あるいは米国市民と、外国政府もしくは外国市民の間の紛争である。
ある服役囚が、収監されたり、あるいは仮釈放を拒否されたりしたことは、連邦法で保護された権利の侵害に当たる、と申し立てた場合なども、連邦地裁が管轄権を持っている。このような申し立てで、圧倒的に多いケースは、服役囚が裁判所に対して、「人身保護令状」(habeas corpus=身柄の保持という意味のラテン語)の交付を求める。これは、ある人物の収監ないし拘留が合法だったかどうかを決定するために、裁判官が出す命令である。この場合、裁判官は刑務所当局に対して、拘留が正当である理由を示すか、あるいは申し立て人を釈放するかのどちらかの措置を取るよう求める。州裁判所で有罪判決を受けた囚人は、連邦法で保護された権利―例えば、裁判で代理人をたてる権利―が侵害されたとはっきり主張しなければならない。そうでないときは、連邦裁判所は裁判権を持つことはない。連邦裁判所で有罪判決を受けた囚人は、その権利や選択肢がすべて合衆国憲法で保障されているため、上訴できる条件もやや広くなっている。
最後に、連邦地方裁判所は、連邦議会が法令により定める場合には、その他の訴訟を審理する権限をもっている。
連邦控訴裁判所は、第一審管轄権をいっさい持たない。中間レベルにあるこれら控訴裁判所に提訴される事件や紛争はすべて、どこかほかの司法の場で審理されたものである。地方裁判所と同様、控訴裁判所も連邦議会によって設置されたもので、その構成と機能は。長い間に大きく変化してきた。
基本的に、連邦議会が巡回裁判所に控訴管轄権を付与している訴訟には、大きく2つに分類される。第一の分類は、連邦事実審裁判所から送致されてくる、通常の民事および刑事の控訴である。刑事事件の場合、検察側は無罪の評決に対して控訴することができないので、控訴するのは被告側である。民事事件では、通常、第一審で敗訴した当事者が控訴するが、勝訴した側も下位裁判所の判決に不服の場合は控訴できる。控訴管轄権の第二の大きな分類には、特定の連邦行政機関・省庁のほか、証券取引委員会、全米労働関係委員会などの独立規制委員会による控訴も含まれている。
連邦最高裁判所は、合衆国憲法の中で名前を出して言及されている唯一の連邦裁判所であり、憲法は最高裁の管轄権について、その概要を記述している。最高裁は、通常、控訴裁判所であると考えられているが、一般的な第一審管轄権もいくつか持っている。最高裁が第一審管轄権を持つ裁判の中で、恐らく最も重要なものは、2つ以上の州の間で争われる訴訟である。
最高裁は、特定の訴訟で、地裁と第一審管轄権を共有している。それは①外国の大使や領事が訴訟の原告や被告になる場合②米合衆国と州が訴訟当事者となる場合③ある州が別の州の居住者、あるいは他国の国民に対して起こす訴訟―などである。このように裁判権を共有している状況を、裁判所が「競合管轄権」(concurrent jurisdiction)を持つと言う。最高裁が第一審管轄権を持つ裁判は、重要な訴訟であることが多いが、審理案件は全体から見ると、件数はそれほど多くない。近年、最高裁が第一審管轄権で審理する訴訟は、最高裁の訴訟全体の1%未満にすぎない。
合衆国憲法は、最高裁が「連邦議会の定める規定に従い、…控訴管轄権を持つ」ことを明言している。ここ何年かの間に連邦議会は、米国で最高位にあるこの司法機関が審理できる案件を特定する「規定」を盛り込んだ法律を、多数定めてきた。控訴案件が最高裁まで到達するルートは、主に2つある。ひとつは、すべての下位の連邦裁判所である「憲法上の裁判所」と「準州裁判所」(territorial court)、それに、例外はあるものの、ほとんどすべての「立法上の裁判所」が下した判決に対する控訴案件。二つは、州の最高裁からの控訴案件である。この後者の場合は、重大な連邦問題が含まれているという条件がある。
最高裁が審理する訴訟のほとんどは、同裁判所が裁量上訴を受理し、移送命令書を交付した案件である。移送命令書(4人以上の判事の賛成を必要とする)は、最高裁が再審理をするために、下位裁判所に対して、特定事件の記録一式を送付するよう要求する命令書である。最高裁が移送命令書の交付を求める申し立てを認めた事件の割合は、歴史的に見てもごくわずかである。通常、その比率は審理件数全体の10%未満で、近年は1%に近づいている。
最高裁が控訴管轄権を行使するもうひとつの方法は、「意見確認」(certification)という手続きである。これは、控訴裁判所が係争案件に関する法律上の問題について、最高裁の指示を求める場合に取られる手続きである。最高裁判事は、控訴裁判所裁判官に対して拘束力のある指示を与える場合もあるし、最高裁が審理して、最終判決を下すために、記録のすべてを移送するよう求めることもある。
全米50州のそれぞれの裁判所制度の管轄権は、事実上、連邦裁判所制度と同じような仕組みで確立している。各州は、第一審および控訴審裁判官の権威や決定権限を定めた州の憲法を持っている。同様に、各州の立法府は、裁判官の具体的な権限や特権、ならびに州裁判所に提訴する訴訟当事者の権利と義務を、さらに詳しく定めた法律を成立させている。どの州の憲法も立法府も、1つとして同じものはないため、個々の州裁判所の管轄権は、州によってすべて異なっている。
州裁判所は合衆国の政策立案の見地から見て、きわめて重要である。合衆国における訴訟の99%以上は、連邦ではなく、州の訴訟であり、国内の全裁判官のうち、95%は州のレベルで仕事をしているのである。
さらに、州裁判所裁判官が下す判決は、国の政策にたびたび大きな影響を及ぼしている。例えば、1970年代、州政府が学童の教育に対して不公平な支出をしていることは、憲法違反だと主張する多くの訴訟が、連邦裁判所に持ち込まれた。この問題は、貧しい学校区が豊かな学校区と同じ水準の資金を調達できなかったことから発生したものだった。原告側の主張は、貧しい学校区の児童は、違法な差別の犠牲者で、合衆国憲法が保障する平等な保護を受ける権利が否定されている、というものだった。しかし最高裁は、「サンアントニオ独立学校区対ロドリゲス事件」(1973年)で、5対4で、「差別の犠牲者ではない」として、この主張を退ける決定を下した。しかし、この事件はそこでは終わらなかった。これに関連する訴訟が多くの州で提起され、教育機会の不平等は、州憲法のさまざまな条項に違反する、と主張した。「ロドリゲス事件」以降、同じような訴訟が24の州で28件も提起された。これらの訴訟のうち14件で、州最高裁は州の教育費支出方法を無効とする判決を下した。かくして何十億ドルもの再配分が必要になった。
裁判官や法学者の中には、合衆国憲法と各州の法律が、重要な分野において立法府の意向とは別に、固有の管轄権を司法府に与えていると主張するものがいる。しかし、合衆国裁判所が持つ管轄権の境界線もまた、立法府の判断の産物であり、その決定はしばしば、政治の影響を受けたものである。連邦議会は、それまで司法の介入が禁じられていた国の政策の分野に関して、裁判所に訴訟を審理する権限を与えることにより、特定の訴訟を促進することが出来る。例えば、連邦議会は1968年公民権法を成立させた。このとき連邦議会が裁判官に付与したのは「人種、皮膚の色、宗教、あるいは出身国を理由に、また州際取引で…セールス中だったとか…、セールスに歩いていたことを理由に」、その人物の行動を妨げる個人を処罰する権限だった。1968年以前裁判所は、個人がセールスしてまわる権利を第三者が妨げたために発生した事件に対する管轄権を持っていなかった。同様に、議会は、特定の社会運動の唱道者が裁判で勝訴することを、事実上不可能にするような法律を成立させて、その運動をくじくことも出来る。
州裁判所の管轄権は、連邦裁判所と同様に、州議会の意思によって強く支配されている。そこから生まれた、いわば政治的産物でもある。
裁判官が関与を禁止されていること、あるいは少なくとも関与しない方がいいとされていることは、管轄権よりむしろ争訟性(事件が司法判断に適合したものであること)に関する事柄である。これは、司法組織の中で、裁判官が特定の事件を審理すべきか、あるいは審理を差し控えるべきか、という問題である。以下に示す司法の自制の10原則は、米国の裁判官の権限を点検し、抑制することに貢献している。これらの原則は、合衆国憲法および州憲法、連邦議会および州議会が制定した法律、コモンローなど、さまざまな出典から生まれたものである。これらの中には、事実審裁判所より、むしろ控訴裁判所に適用されるものが一部あるが、そのほとんどは連邦および州の双方の司法制度に適用される。
合衆国憲法は「司法権は、本憲法のもと、あるいは、合衆国の諸法律のもとで、また合衆国の権限に基づいて…締結された条約の下で発生するコモンローおよび衡平法にかかわるすべての事件に及ぶ」(第3条第2節)と規定している。ここでのキーワードは「事件(cases)」である。1789年以来、連邦裁判所はこの言葉をまさに文字どおりに解釈するようになっている。つまり、提訴するための厳密な法的資格をすべて満たしている正当な訴訟当事者の間で、実際に紛争が起きていなければならない―ということである。しかもその紛争は、重要かつ重大な権利の保護、あるいは訴訟当事者に直接影響を及ぼす不正行為の防止ないしはその救済に関するものでなければならない―。この一般原則には、以下の3つの付則がある。
第一に、連邦裁判所は仮定の状況、ないし当事者間に実際に紛争が生じていない状況について、助言的意見や決定を与えることはしない―ということ。裁判所が司法的判断のため、申し立ての受理に同意する前に、紛争が実際に発生し、進行していなければならないのである。
第二に、訴訟当事者は、訴訟に加わる適切な資格を備えていなければならない―ということである。これは、誰が裁判を起こせるのか、という問題である。訴訟を起こす側は、直接的で、すでに重大な損害を負っているか、あるいはすぐにでも損害を被る状況になければならない。一般的な原則として訴訟当事者は、他人の代わりに請求を行うことができない(ただし未成年者の親や、集団訴訟と呼ばれる特殊な訴訟は例外とする。)さらに、申し立ての対象である法益の侵害は、漠然とした世間の人たちではなく、特定の個人への直接的なものでなければならない。
第三の付則は、裁判所は、多くの場合、争訟性を失って意義がなくなった事件の審理はしない、ということである。つまり訴訟提起の時点から審理開始までの間に、基本的事実、あるいは当事者の法的地位が著しく変わってしまったときがそれに該当する。訴訟当事者が死亡した場合や、当事者が対立を解消した場合、たいていの裁判所は、その訴訟の「争訟性が失われた(moot)」と見なす。しかし、事実関係や当事者の状況が著しく変わったと思われる場合でも、裁判官がその事件を審理する必要があると判断することがある。この事例として、中絶を認めないとか、末期患者の生命維持装置のスイッチを切ることも認めない州を相手に異議を申し立てる訴訟がある。このような場合、訴訟が控訴裁判所に持ち込まれるまでに、当該の女性がすでに子どもを生んでしまったり、あるいは瀕死の患者が死亡したりすることもある。このような訴訟の争点は非常に重要なので、裁判所が審理すべきだと裁判官たちは考えてきた。実際のところ、このような案件を争訟性がないと片づけていたら、控訴裁判所がこの種の訴えを審理する機会は永久に来ないだろう。
連邦裁判所の裁判官が抽象的、仮定の問題で裁定することはないが、多くの州裁判所は何らかの形でこのような裁定を行うことが認められている。「立法上の裁判所」もまた、助言的意見を述べることができる。また、米国の裁判官には、制定法、遺言書、または契約のもとで、さまざまな当事者の権利を確認する「宣言的判決」(declaratory judgment)を下す権限が与えられている。このような判決はいかなる強制的救済措置も伴わない。1934年「連邦宣言的判決法」により、連邦裁判所には宣言的判決を下す権限が与えられている。また全米の4分の3ほどの州が、州裁判所にこの権限を与えている。連邦裁判所が避けなければならない抽象的紛争と、宣言的判決を下すにふさわしい状況との間には違いが存在するが、現実には裁判官がこの2つの間に線を引くことは難しいことが多い。
連邦裁判所の2番目の制約は、原告が申し立ての根拠として、まず合衆国憲法の具体的部分を指摘できない限り、裁判官は訴えの理非を審理しないということである。例えば、憲法修正第1条は政府に対し、「宗教の設立に関する」法律を制定することを禁じている。1989年、ニューヨーク州は、「サトマル・ハシッド」と呼ばれる、東欧を起源とするハシッド派ユダヤ人グループだけのために、特別学校区を設けた。同派は現代社会への融合に強く抵抗しており、そのほとんどは同派の人々が住むキリアス・ジョエル村の教区学校に通っていた。だが、これらの私立学校では、学習が遅れた児童や障害児を受け入れる余裕がなかった。「サトマル」の人々は、地域の障害児が公立学校への入学を強制されれば、心的外傷(トラウマ)を受けることになると主張した。こうした状況に対応して州議会は、特別学区を設置して、その学区内にある単一の学校が、ハシッド派ユダヤ人地域の障害児だけを受け入れることにした。この措置に対して、ニューヨーク州の各教育委員会を代表する協議会が異議を申し立てた。1994年6月、連邦最高裁は、この問題に判断を示し、単一学校の学校区を設けることは事実上、政治的権限をこの正統派ユダヤ教徒のグループに委譲することになり、従って政府による「宗教の設立」を禁じた憲法修正第1条に違反すると裁定した。ニューヨーク州法が合憲かどうかについての賛否は別として、教育委員会協議会が、違憲審査の申し立てを受理されるに足る資格を満たしていたことを、疑問視するむきはほとんどないだろう。憲法は、政府が特定の宗教団体に政治的権限を委譲することを明確に禁じている。(ニューヨーク州)政府は、この訴訟のさい、単一の宗教共同体に特別の恩恵を与える法律を成立させてしまったことを、速やかに認めたのである。
しかし、もし仮に、誰かが裁判所に出向き、特定の法律ないしは政府の行動が、「権利の章典の精神に反している」とか、「建国の父の価値を傷つけている」などと訴えたとしても、裁判官は間違いなく訴えを却下するだろう。なぜなら、もし裁判官がこの種のあいまいな一般論に、具体的で実体的な意味を勝手につけることができるとしたら、裁判官のできることをほぼ抑えられなくなってしまうからである。この原則は、現実の世の中では、見かけほど単純でも明快でもない。なぜなら、合衆国憲法にはさまざまな解釈を可能にする条項が数多く含まれているため、連邦裁判所の裁判官にとって、政策立案に手を出す余地が十分に存在するからである。
司法側の自己抑制の第3の原則は、ある法律ないしは公的措置の受益者だった者が、後になって、その法律などに異議を申し立てることはできないということである。例えば、ある農場主が、農地の一部を休耕する代わりに、定期的に連邦政府から補助金を受けるという事業に賛成し、加わっていたとする。何年も経過したあと、この農場主は、隣人が農地を全面的に休耕させて、定期的な補助金を受け取っていることを知った。隣人が何もせずに利益を得ていることに腹を立てた農場主は、この事業の合憲性に疑問を持ち、地元の連邦地方裁判所に対し、事業の合法性について異議を申し立てた。だが、この農場主自身がその事業に参加して、金銭的な利益を得ていることに裁判官が着目した時点で、たちまちこの訴えは棄却されてしまった。政府による特定の活動や公的措置から利益を得ながら、後日、その活動や措置を法廷で非難することはできない―ということである。
州と連邦控訴裁判所には、実務的な慣行がある。それは事実審の裁判官ないしは陪審員が、事件の基本的事実の情報と認定を誤ったことが控訴の法的根拠だった場合、控訴裁判所は、その事件を審理しない、という慣行である。事実審の裁判官や陪審員が、事実認定に関して、常に完璧に仕事をこなすとか、そういうことではない。要するに、彼等の方が事件の当事者や物的証拠に近くにいたのだから、第一審から何カ月、あるいは何年間もたってから事件の記録を読むだけの控訴裁判所よりも、事実関係の評価では、はるかにいい仕事をするという考えがあるからである。しかしながら、事件の事実関係にどの法律を適用すべきか、あるいは現行法に照らして、事実関係をどう評価すべきか、という法律問題になると、やはり控訴審の出番になるだろう。
最高裁が判決を下すにあたり、拘束力を持つと思われる過去の判例を、勝手気ままに覆したり、回避したりできたら、司法の自己抑制どころではなく、積極主義を支持する主張のように見えてしまうだろう。しかしこれも、自制の原則のひとつ(4番目の原則)なのである。最高裁が、過去に行った決定に縛られ、逃れられないとなると、最高裁には柔軟性がほとんどなくなってしまう。最高裁は、時には、過去の決定を覆したり、拘束力があると思われる判例を無視したりする裁量を自らに許すことにより、必要に応じて退避できる安全地帯を設けている。最高裁が、よし、方向を変えてみようとか、少なくとも弾力的な姿勢をとってみよう、などと、そんな智恵が浮かんだとしたら、この自己抑制の原則を用いたということになる。
次の(5番目の)自己抑制原則は、気がもめる訴訟当事者を、しばしばいらつかせるが、秩序ある裁判執行のためには不可欠である。それは、法律上、および行政上のほかの救済措置をすべて試み尽くした後でなければ、米国の裁判所は訴訟を受理しないという原則である。最も分かりやすく言うと、申し立て人は訴状を携えて、階段を一歩一歩昇って行く必要があるという意味である。連邦裁判所に管轄権がある事案は、まず連邦地裁が審理し、次に控訴裁判所が審理し、最後に最高裁が審理する。事件がどれだけ重要だろうと、申し立て人がどれだけ重要な人物だろうと、こうした順序正しい手続きを経なければならない。しかし、場合によっては上訴手続きが短縮されることもある。
救済手段をすべて尽くしたということは、司法の3重構造の原則を厳守することだけでなく、行政機関による救済の可能性も関係する。こうした救済は、行政職員への訴え、委員会での公聴会、あるいは立法機関による事案の正式審議などの形を取ることになるかもしれない。
行政府と立法府は、国の政策を立案するために国民によって選出された人々であり、その意味でこの2部門は、米国の裁判官にとって政治的な存在である。司法府は、これとは対照的に、建国の父たちが人民の意思を表明する手段として制定したものではないので、元来は、政治的な存在ではない。従って、この論法に従えば、政治的問題は司法府以外の政府部門が適切に解決すべきものである。
例えば、1900年ごろ、オレゴン州は州民に対して、住民投票やイニシアティブ(住民発議の提案)で投票する権利を付与したが、そのとき、パシフィック・ステーツ・テレフォン・アンド・テレグラフ社が異議を申し立てた。同社は、有権者が企業寄りの議会を迂回して、直接同社の料金や利益を規制する法律を成立させることを恐れたのである。同社は、合衆国憲法第4条第4節により、各州には憲法でいう「共和政体」が保障されていると主張した。「共和政体(republican form of government)」という言葉は、直接人民によってではなく、選挙された人民代表によってのみ法律が制定できることを意味するとされている。最高裁は、訴えの内容について裁定を下すことを拒否し、これは政治的問題であると裁定した。憲法第4条が主として、連邦議会の義務を規定しているおり、このことからすると、建国の父たちの意思は、州の政体の監督を、裁判所ではなく、連邦議会に委ねることだったというのが、最高裁の判断理由だった。
この数十年、政治的な問題か否かをめぐって論争が続いている重要な案件は、議員定数是正に関するものである。1962年以前、最高裁判所の大多数の判事は、不均衡な人口を持つ選挙区の合憲性について、裁定することを拒否していた。その理由は、このような問題に「争訟性がない」、だったり、フェリックス・フランクファーター判事の言葉を借りれば「政治的な藪の中」には、敢えて足を踏みこまない―というものだった。最高裁の伝統的な考え方によれば、建国の父たちは、恐らくは有権者の意見を汲んで、立法府自らが選挙区の再編を行うことを望んでいた。しかし、「ベーカー対カー事件」(1962年)での最高裁判決をきっかけに、大多数の裁判官はこの考え方を改めた。それ以降、最高裁は多くの訴訟で、憲法修正第14条が明記する法の下の平等保護条項により、選挙区の人口規模は均等でなければならないとの判断に加え、さらにこの命令が履行されているかどうか、裁判所が監督すべきだとの裁定を下している。
米国の法律家の意見は、法令の合憲性に異議を申し立てる者に立証責任があるという点で、おおむね一致している。従って、特定の法律に異議を申し立てようとする者は、その法律に「疑問の余地があるか、あるいは合憲性に疑いがある」ことを示すだけでは不十分である。原告は、この法律が違憲であるという、明快かつ圧倒的な証拠があることを裁判所に納得させなければならない。
この立証責任の原則に対する唯一の例外が、市民的な権利や自由の分野である。市民的自由を強力に擁護してきた法律家たちは、政府が基本的人権を制限しようとするとき、立証責任は政府の側に移ると、長年にわたり主張してきた。そして今では、特定の権利に関する法理学の分野で、この考え方が多数派を占めている。例えば、連邦最高裁はさまざまな訴訟で、人種や性別によって国民を差別する法律は、自動的に「特別に綿密な調査」の対象になるとの裁定を下してきた。これは、政府が、民族的な出自や性別によって国民を区別する必要が出た場合、やむを得ない理由、圧倒的な理由があることを立証する責任は、政府の側に移るという意味である。例えば政府は長年、軍隊の中では、いくつかの重要な制約を女性に課すことが出来るとして、女性兵士を完全な実戦任務に従事させることを除外してきたが、この政府の主張は受け入れられている。
裁判の最中に、立法府、あるいは行政府の行為が憲法の制約に違反していることが裁判官の目に明らかになることが時々ある。しかし、このような場合でも、法律家は慎重に手続きを進める。第一に裁判官には、憲法上ではなく、いわゆる法令上の理由で公的措置を無効とする選択肢がある。法令上の無効ということは、ある公務員が法律により付与された権限を越えて行動したことを理由に、裁判官がその公務員の措置を覆すことを意味する。このような裁定には、法律自体は守りながら、公務員の違法行為を無効とする効果がある。第二に、裁判官は可能な場合には、法律全体を破棄するのではなく、憲法上瑕疵があると判断した法律の一部だけを無効とすることもある。
この原則に厳密に従うなら、法律ないしは公的措置を違憲ときめつけられる唯一の論拠は、それが文字どおり合衆国憲法に違反している場合だけということになる。議会で制定される法令は、ただ単に不公平であるとか、財政の無駄遣いであるとか、悪しき公共政策だという理由だけでは、憲法違反にはあたらない。この原則をまともに解釈すると、裁判官は法律の違憲性を審査する際、物事の善悪、あるいは公共政策の良し悪しに関する個人的見解にとらわれてはいけないことになる。 この原則からもう一つ言えることは、内容が優れ、賢明だと誰もが考えていても、実は憲法違反になる法令が成立する可能性があることである。それとは逆に、弊害や危険があることを誰もが知っていることを役所に行わせるような法律を成立させても、それが憲法違反にはならない場合もある。
法律の「賢明さ」に関して判断を下さないという原則に従うことは、現実の世界では難しい。なぜならば、憲法はかなり簡潔な文書で、国民生活の多くの分野について、何も語っていないし、またそこには、さまざまな解釈が可能な語句と訓戒が含まれて要る。例えば憲法は、連邦議会が州際通商を規制できる、と述べている。しかし、通商(commerce)とは、厳密には、何を指すのか。また、通商の範囲がどの程度広がれば「州際(interstate)」と言えるのか。裁判官も人の子なので、こうした疑問に対しては、それぞれ異なる答え方をしてきた。憲法は、犯罪の被疑者が弁護人を付ける権利を保障している。しかし、被疑者が有罪の評決を受けた後、控訴する際も、この権利の保障は継続するのだろうか。そして、もし続くとすれば、何回控訴をするまで継続するのか。これらの疑問は、法律を厳密に解釈するか、緩く解釈するかによって答えが異なる。
以上をまとめると、憲法の多くの条項を解釈するに際して、裁判官個人の価値観が入ることは避けられないものの、法律を無効にできるのは、裁判官個人の好みではなく、憲法に違反した場合のみであるという一般原則について、ほぼすべての裁判官が同意しているのである。



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