embassy seal
U.S. Dept. of State
flag graphic
ホーム
米国のプロファイル
芸術・文化
ビジネス・経済
メディア
環境・科学
日本語の出版物
English
社会
アメリカ政治
法律・条約
教育
地理
日米関係
クィック・レファレンス
FAQs
米国の地理の概要 - 第 4 章
「メガロポリス」

  1961年、1人のフランス人地理学者が、米国北東部の都市化が進んだ地域に関する記念碑的な研究成果を発表した。ジャン・ゴットマン(Jean Gottmann)教授は20年を費やして、ニューハンプシャー州南部およびマサチューセッツ州北部からワシントンD.C.にいたる地域を研究した(マップ3:41K)。そして、この一帯は「非常に特殊な地域」であると結論づけ、「メガロポリス」(Megalopolis)と命名したのである。

  「メガロポリス」は、北東部の沿岸に隣接する独立した広大な大都市圏が次第に融合することによって形成された。これらの大都市の人口が増加するに従い、その影響は周辺のより小さい地域に波及していった。こうした大きなリング状の郊外地域は、それ自身都市のスプロール化を進めた。そうして生まれた大都市圏の外縁部分が最終的には相互に融合し始め、遂には広範な都市化地域が形成されることとなった。

  「メガロポリス」の最大のテーマは「都市性」(urban-ness)である。程度の差こそあれ、都市サービスはこの地域に住む数百万の人々の生活を支えている。そうした都市の形態には大きな差異はない。オフィスビルやアパート、小規模店舗や大型ショッピングセンター、工場、精製所、住宅地、ガソリン・スタンド、ハンバーガー・ショップなどが数え切れないほど立ち並び、その合間には船や鉄道、トラックで運び込まれた商品を一時的に保管する倉庫がある。そしてこれらすべてがこの地域の800キロメートルにわたって並んでいる。

  一方、「メガロポリス」にはたくさんの緑地も存在する。レクリエーションに使える公園などの場所があるし、優に300万ヘクタール以上の土地が農地に利用されている。

  「メガロポリス」には様々な特徴があるが、この地域が米国できわめて重要な位置を占める理由は都市地域として大きな存在感を持つからである。1990年時点で人口が100万人を超える46の大都市圏のうち、10カ所は「メガロポリス」にあった。この地域は米国の総人口の17%を占めるが、面積ではわずか1.5%に過ぎない。

  1人当たりの平均所得は高くホワイトカラーおよび専門職に就く居住者の比率は全米平均よりも高い。輸送と通信の活動はきわだって大きい。その理由の1つは、この地域が持つ海岸沿いの立地条件にある。民間航空の国際線を利用する旅客のおよそ40%は「メガロポリス」内の空港から出発している。さらに、米国の輸出量の30%近くが「メガロポリス」の6つの主要港を経由している。

「メガロポリス」の位置

  米国の中でもこの特定の地域がこうした発展を遂げたのはなぜなのか。こう質問されたら、通常、地理学者が最初に考えるのはその位置である。実際「メガロポリス」の場合には、この広大な都市地域の位置と立地条件がその起源と成長の謎を解く鍵になる。

  この地域の輪郭線を見ると、立地上様々な特徴があることが見て取れる。「メガロポリス」は海岸線に沿って位置しているため、その東端は複雑に入り組んでいる。多数の半島が大西洋に突き出している。島々が海岸に沿って散在しており、そのうちいくつかは、形成された地域社会を支えられるほど大きい。陸地が生みに突き出しているのを、そのまま鏡に映したような形で、湾や河口が陸地に入り組んでいる。このように陸地と海が相互に入り組んでいるため、陸地と海がより接近することになる。かくして、直線的な海岸線よりも安いコストで水上交通を利用する機会がはるかに大きくなる。

  勿論、質の高い港も必要である。「メガロポリス」には、米国有数の天然港がいくつか存在する。直近の大陸氷河期に、「メガロポリス」の北半分は氷に覆われていた。その氷が解け始めると、河川の広い方水路ができ、川の浸食力によって平坦な海岸平野には深い溝が刻み込まれた。海水面が上がると、それより低い川谷は「溺れ」て河口を形成し、海岸線が内陸にいり込んだ。こうした氷河作用による川谷が、後にメガロポリスの発展に役立つこととなる港湾のいくつかを形成したのである。

  このほかにも、1,2か所の地域に限定して、氷河期は大きな痕跡を残している。氷河の拡大によって大量の土壌や石や、その他の破片がすくい上げられた。そして氷河の前線が後退するに伴い、これが氷堆石として残された。氷河の後退によって、現在のコネチカット州沿岸地方のちょうど南側に、一連の尾根が残された。海水面が上昇すると、こういった氷堆石が島になり、海からの堆積物によって面積が拡大した。しかし、島の幅が広がらなかったため、この島は「ロングアイランド」と名づけられた。それいがいに呼びようがない形だった。

  ロングアイランドは、大きく言って2つの点でニューヨーク港の質の向上に貢献してきた。第一に、港湾施設に利用できる海岸線は、ハドソン川に沿ってすでにかなり長かったが、それがさらに大きく延長される形になった。第二に、十分に発展した広大な港の周辺に都市部が拡大すると、より広いスペースが必要になる。潮汐湿地と浸食に耐えたパリセーズ峡谷の尾根のせいで、ニューヨーク都市部の拡大に適応できる良質の土地は、ハドソン川から西のニュージャージー州に限定された。ハドソン川の東岸には長細い土地しかなく、これがマンハッタン島である。しかし、イーストリバーの向こうには、ロングアイランドがある。ここはニュージャージーの湿地帯のような障害物がなく、平坦でわずかに起伏のある土地である。ロングアイランドの西端にあるニューヨーク市のブルックリン区とクイーンズ区は、早くから発展した。そしてロングアイランドは、都市部が東に大きく広がる余地を提供したのである。

  「メガロポリス」には良質の港が多数あるが、それ以外の立地上の特色としてこの地域の都市経済の発展に大きく貢献したものはほとんどない。夏季は概して農業に十分なほど期間は長く、雨量も多いが、さほど気候が温暖というわけではない。土壌はむらがあり、メリーランド州ボルティモアやペンシルベニア州フィラデルフィアよりも内陸部の土壌の方が、ニューヨークに近い土地のほとんどの土壌よりも上質である。

  「メガロポリス」のニューヨークから南の一般的な地形は、都市部の発展にとって有利な立地条件を追加提供する形になっている。大西洋沿岸から内陸に向かって行くと、まず非常に平坦な海岸平野があり、そのあとに起伏のある、時に小高い地形である「ピードモント台地」(Piedmont Plateau)が現れる。不規則に起伏するピードモント台地の下には、非常に古くて固い岩がある。ここの地表は浸食に強いため、ピードモント台地の標高は海岸平野よりも高く維持されている。従って、川がピードモント台地から流れ出る地点の至るところで、地形学的な境界線沿いに、一連の急流や滝が形成されている。この境界線は瀑布線(fall line)とも呼ばれている。

  初期の入植者たちは、この瀑布線が航行の邪魔になるが、これが水力源であることも間違いないと思った。入植地は、できるだけ内陸に入ってはいるが、依然として海上輸送にも手近な、瀑布線沿いに発展した。さらに、瀑布線が航海の起点となることがしばしばあったため、内陸に運んだり輸出したりする商品は、瀑布線のいずれかの場所で荷降ろしして、別の輸送手段に移さなければならなかった。これらの場所は、商品を輸出するために内陸部から河川航行の起点へ運ばれる輸出商品によってもまた利益を得ていた。多くの場合、ここで製造業も営まれていた。

  北米の中でもこの地域は、ヨーロッパとカリブ海植民地や南米の生産性の高い農場を直接結ぶ海路上に、またはその近くに位置していた。少なくともヨーロッパへの復路は、必ずここを経由した。従って、後に周辺で「メガロポリス」として発展した港は、停泊地として便利だったため、18世紀から19世紀にかけて急速に拡大した大西洋横断貿易に、大きく貢献した。

  もう1つ、「メガロポリス」の発展にとって重要な意味を持っていたのが、内陸部に対する中核都市の位置だった。フィラデルフィアとボルチモアが急速に発展したのは、いずれも比較的広く良質な農業地帯の中心に位置していたからである。内陸部への交易路が早い時期に建設されたため、これらの都市の貿易機能の発展を促すことに役立った。ボストンから内陸に向かうと、土壌は(今も変わらないが)余りにも岩だらけで、地形も起伏が多すぎるため、農業には適していない。しかし、ニューイングランドの丘陵地は、造船には理想的と言える広葉樹や松の木で覆われていた。また、非常に生産力の強いニューイングランド沖合の漁場や、さらに南下した豊かななチェサピーク湾も手近にあった。

  しかしながら、都市の立地条件を評価するに当たって、交通の便がどれほど重要であるかが最もよくわかるのはニューヨークである。この都市の最大の強みは、アパラチア山脈を通る最良の天然航路の起点に位置している点にある。後年エリー運河によって補強されたハドソン・モホーク河川系や、鉄道、高速道路が、西方の五大湖へつながっており、さらにそこから、広大な内陸部へと行き来することができる。内陸部の平野に入植地が増え、経済活動が活発になるにつれて、大量の生産物がメガロポリスの都市中心部へ運ばれるようになった。こうした取引の増加から最も利益を受けた都市が、もともと内陸部との天然の交通路に最も恵まれていたニューヨークだった。

  米国の植民地時代に、ヨーロッパとカリブ海地域とアメリカ大陸を結ぶ三角貿易が盛んになるにつれ、ボルティモア以北の大きな港湾都市で、小規模な製造業が姿を現わし始めた。都市産業が成長するにつれて労働需要が増加し、北西ヨーロッパからの移民を引き寄せた。また多数の労働者が農業から転身したりしたため、これらの都市の人口はふくれ上がった。銀行その他の金融機関が、地元の製造業や海運業への投資を保証した。サービス業、卸・小売業、情報管理の中枢などがそろって成長し、都市の拡大さらに後押しした。そして最大の成長を遂げたのが、ニューヨーク、フィラデルフィア、ボストン、ボルティモアだった。

  だがこの地域の最も特異な点は、これらの都市の成長自体ではない。上記4大都市(後に首都ワシントンを加えて5大都市になる)が、非常に近接した位置で成長を続けたことである。もちろん、ワシントンは特異な例である。なぜならワシントンもまた、瀑布線上にはあるものの、中央政府機構の肥大化が、この都市の発展をもたらした直接の原因だからである。他の4都市は、メガロポリスの軸に沿って存在する多数の小都市とともに、経済的刺激に依存する面が大きかった。19世紀における米国全体の成長が余りにも大きく、内陸部とこれら4港の結びつきが余りにも強かったため、4港湾都市のいずれも単独で近隣の港や競合する港へ流入する商品全部を吸収することはできなかった。20世紀の終わりまでには、これら4都市の後背地をすべて総合した経済的資源は、莫大な量に達していた。

都市の環境

  「メガロポリス」全体に、地域としての一体感を与えている最も重要な要素が、都市形態と都市機能である。高層ビルや人通りの激しい道路、密集した住宅、そして工場などが、劇場、交響楽団、美術館、大型図書館などの様々な文化的機会と混在している。また時として、老朽化した建物や交通渋滞、大気汚染などの質的劣化も目に付く。これらすべて、そしてそれ以上のものが存在するのが、「メガロポリス」の大都市圏なのである。

  これらの特徴は、世界中のほとんどどの大都市でも見受けられる。「メガロポリス」が特別なのは、この地域の都市としての特徴が、中核都市からはるか遠方まで波及しているため、各都市地域が大都市融合プロセスの中で互いに同化し始めたことにある。こうして「メガロポリス」は、きわめて都市的な類型と、都市に特有な諸問題が展開していく様子を非常に広い範囲で観察することができる、一種の巨大な実験室となったのである。

  メガロポリスの人口密度は高く、1987年時点で1平方キロメートル当たりの平均は約305人だった。もちろん、周辺の郡部には、人口密度がこの地域平均の10%-20%しかないところもある。都市に近づくにつれて居住地の人口密度は高くなり、都市の中心部近くでは密度は非常に高くなる。例えば、ニューヨーク市では、1987年の人口密度が1平方ヘクタール当たり平均226人を超えていた。これを1平方キロメートルあたりに換算すると、22,660人以上になる。

  都市機構の特徴のうち、このような人口密度のパターンと関係しているのは何だろうか。近代の都市は、要するに経済活動が行なわれている場所だから生まれている。ビジネス拠点を都市へ移すことを決めるさいには、基本的には、経済的利点が最大の要因である。この利点はあまりにも大きいため、多くの人々は互いに、しばしば望む以上に身を寄せ合って生活している。都市機構の恩恵を享受するため、多くのマイナス面を辛抱している。

  しかしながら、住居を郊外へ移すことによって都市生活の欠点を最小限にしようとする都市生活者も増えてきた。さらに遠い、準郊外地域と呼ばれる地区へ引っ越した者もいる。小さな町やかつての別荘地域、田園地帯の家などに住む準郊外地域居住者は、遠く離れた職場まで通勤する。しかし、このような人口拡散も人口密集のもたらす欠点をすべて解消するには至っておらず、そうした欠点に直面する人々を単に移動させたに過ぎなかった。また人口拡散によって、この地域の居住者の職場も拡散している。大都市人口は無秩序に増えているが、仕事のために都市の中心部に入る必要がある人の割合は、以前よりも減少している。

  都市の風景の重要な要素の1つは相互交流である。一般的に言って、何かを移動させるためのコストは、その距離に正比例する。従って、移動コストを最小限にするため、活動は都市に集中する。都市地域では、ある場所からほかの場所へ移動できることが重要である。それは、都市の土地の大部分が相互交流を容易にするために使われていることからも明らかである。道路、地下鉄、橋、トンネル、歩道、駐車場など、人的交流の移動経路はひと目でわかる。「メガロポリス」内の都市のように古くからある都市では、徒歩や馬車で移動していた時代に街の中心部の区画ができあがった。人的交流を促す都市機能に充てられている中心部の面積は全体のわずか35%程度である。自動車が台頭して以降に大部分が発達した新しい都市では、その割合ははるかに高い。

  このほかにも、目につく度合は低いが、同じように重要な相互交流の形がある。都市において情報やアイディアの移動が容易なのは、集中して発展した電話、電報、テレタイプなどの通信システムのおかげである。90年前、あらゆる大都市の中心にあるオフィス街には電話網の回線がクモの巣のように張り巡らされ、通信需要の大きさを物語っていた。今日では電話線はケーブルに束ねられ、地下に埋設されている。

  おそらく、相互交流が行われる最大の動機は、需要と供給が地理的に離れていることだろう。経済的にみて、ある商品やサービスに対する需要があるのに、その場所ではその需要を満たせない場合には、こういった商品やサービスは別の場所で入手しなければならない。その結果、相互交流が生まれてもおかしくない。

  これらの点が、都市の景観にどのような意味合いを持っているかは明らかだろう。比較的狭い区域で、実に多くのさまざまな活動が行われている。1つの場所に集中しがちな機能もあれば、都市部全体に分散する機能もある。都市では様々な活動が行われているため、各機能の間で、あるいはまた同じ機能の範囲内で、相互交流が刺激される。これらの活動を地図にすると、実に雑多な土地利用のパターンが浮かんで来るはずだ。

  人口や都市活動が集中すると、支援機能も必要になる。伝統的に市庁のさまざまな部門として組織・運営されるこれらの公共サービス機能は、経済的に見た場合、間接的な生産活動であるとしかいえないものの、商工業にとっては必要なものである。

  上水道、電力、下水道、ゴミ収集などのサービスのほかにも、都市は警察や消防、公共交通機関の建設・整備、保健医療、重要な人口統計の作成、教育施設など、多くのものを提供している。

  大都市ではこれらのサービスが普及したため、これを管理する巨大な政府組織が発達した。極端な事例を挙げると、1982年にニューヨーク大都市圏で業務を行っていた行政機関の数は1,550を超えていた。

  都市の景観に特色を与える大きな要素は、まだほかにもある。それは都市への出入りのしやすさの度合である。都市の組織や構造の上で、各地区間を容易に行き来できるかどうかを、いつも考慮してきたとは限らない。例えば、「メガロポリス」にある多くの都市の市街地図は、17世紀から18世紀にかけて人気のあった、単純な正方形または長方形の格子状になっている。

  これらの都市が発展するにつれて、こうした街路形態では往来が不便であることが明らかになった。例えば、格子状の街路だと、直角に交わる交差点が多くなる。交差点のたびに交通の流れが妨げられるため、交通量が増え、そうなると交差点での停止時間も長くなる。1900年までにボルチモアとボストンの人口は50万人を超え、フィラデルフィアは130万人近くに達し、ニューヨークは350万人に近づいていた。自動車の大きな影響が出てくるのはまだ先だったが、これらの都市の中心部では、すでに深刻な交通渋滞が起きていた。

  1950年代に入ると、都市の面積の急速な拡大と移動のさいの自動車の利用増をもたらす変化が起きた。都市労働者のうち、中心部から遠く離れた人口密度の低い住宅地に住み始めた人の割合が大きくなった。このため、大量輸送は経済的に不利になった。トラック輸送にはスピードと柔軟性という経済的観点から見た強みがあり、貨物の短距離輸送には鉄道ではなく運送会社が使われるようになった。これに呼応して、交通計画担当者たちは、都市を取り巻く環状幹線と、出入口の少ない大量輸送用の高速道路を建設し、局地的な移動交通と、市街地横断交通や通過交通を区別することを提案した。このような変更は一部成功したが、ほかの要素も加わって、都市中心部内への流入や、中心部と周辺部の交通、そして最終的には周辺部の各区域間の交通に対する需要もまた増大させることとなった。全体的な交通経路がより複雑になり、管理も難しくなった。

  このことから、都市の景観のもう一つの特徴が見えてくる。それは変化する景観である。フィラデルフィアやニューヨークのような大都市には、毎年数万人単位で、新しい居住者が転入してくる。これより多くの人が転出するが、遠くの都市へ移る人もいれば、大都市圏の郊外へ引っ越す人もいる。壊される建物もあれば、新たに建設されるものもある。街並みが変わり都市機能の形態も変えられるため、その新しいパターンに合わせて人、モノ、アイディアの流れも変わっていく。

  このような変化は米国のどの主要地域でも見られるものかもしれない。だが、ある意味では、まさにこうした変化が「メガロポリス」を作り上げたと言える。

「メガロポリス」内の形態の変化

  過去40年間で「メガロポリス」が経験した最も深遠な変化は、恐らく主要大都市圏の範囲が大きく拡大したことだろう。住民人口の居住範囲が最も遠くまで広がっていったのがグレーター・ニューヨークであることは明らかだが、ボストン、フィラデルフィア、ボルティモア、ワシントンの各地域も大きく成長した。ニューヨークはもともと人口が最も多く、最も経済が集中していたが、ほかの3つの港湾都市も確固たる成長基盤を持っていた。時を同じくして、連邦政府は機能を急速に拡大していった。そのため公務員の人口と、それに対して食べ物や衣服、その他のサービスを提供する人々も増加したため、コロンビア特別区--ワシントン市とコロンビア特別区は同一地域である--の面積だけでは吸収しきれないまでになった。都市開発は、隣接するバージニアとメリーランドの両州にも波及していった。

  市域の境界線を越えて、はるか遠くまで都市人口が広がったことは、「メガロポリス」の田園の生活にも大きな衝撃を与えた。都市人口が増加するにつれて、田園部から運び込まれる食料に頼らなければならない人の数が大きく増えた。「メガロポリス」の都市部に住む数千万の人々が、米国内および海外からの農産物を消費している。しかしながら、都市に近い農地を耕作する人々の多くは、価格が高い食料品や、腐りやすい作物を専門的に生産することを選択した。乳製品や、トマト、レタス、リンゴをはじめ、集約的に生産した様々な「食卓用作物」が「メガロポリス」の田園部で生産される農産物の主流になっていった。

  さらに人口密集地と活発な経済活動が、周縁部にまで広がるにつれて、地価が押し上げられた。数十年前に2万ドルで購入した60ヘクタールの農地が、最終的に100万ドルで不動産開発業者に売却されることもありうる。購入した開発業者がその土地を、それぞれ0.2ヘクタールの住宅用地250件分に分割して、公益設備や道路を整備した上で、1区画2万5,000ドルで売れば、総額625万ドルを得ることになる。

  例え農家の人々が、こうした農地売却による利益の誘惑に耐えられたとしても、近隣の地域が都市活動に使われるようになると、土地にかけられる税金が都市なみに急激に上昇した。土地の利用を農業に限定するための規制が導入される以前は、こうした農家が農業を続けるには、価値の高い農産物に限った集約的農業以外に道はなかった。

  「メガロポリス」における都市部のスプロール化と、それに伴う農業活動の変化は、主要な市街地の間をつなぐ幹線道路に沿って起きた。「メガロポリス」の都市間を行き来する交通量は早くから増加した。大都市で働く人々が住まいだけ移す場合、当然ながら主要オフィス街に行くのが便利な場所を選ぶ割合が多かった。主要な幹線道路と、これには及ばないが、都市の間を走る鉄道や主な支線道路が網の目のように発達し、これに沿って大都市人口の移動がまず始まり、最も遠くまで広がった。その結果、都市部はまず都市間を結ぶ主要道路に沿って一体化していった。そして、交通の便をよくしてほしいとの要求が高まったため、さらに優れた都市間の交通手段が作られることになった。

  個々の都市部の人口が増加するにつれて、人口構成も変化した。1910年以前には「メガロポリス」の都市は多数のヨーロッパ系移民を受け入れていた。これらの移民たちは、「メガロポリス」にある大きな港のいずれか--通常はニューヨーク港--から入国していた。さらに西の中西部や「グレートプレーンズ」の農業地帯や都市部へ向かった。しかし、向かわなかった人々は、「メガロポリス」の都市の一画に集団で住みつき、たいていは国籍ごとコミュニティを形成した。

  第一次世界大戦がヨーロッパで勃発すると、移民の流入が止まり、新たに別の 移民が、「メガロポリス」に流入し始めた。それまではわずかだった南部諸州からの黒人の移住が増加し始めたのである。黒人移住者と、南部の田舎から出てきた白人グループが、以前のヨーロッパ系移民グループと同じパターンで定住した。黒人の多くは、都市の中の、すでに少数の黒人が住んでいた地域に根を下ろした。

  黒人の移住は20世紀半ばまで続いたので、人口密度も高まり、もともとの居住中心地から外へ向う拡大が生み出された。黒人人口は、内部で何十年にもわたって増加した後、しばしば黒人居住地周辺部でも黒人の人口密度は高くなり始めた。

  近年、まったく新しい2つの局面で都市が変化した。この変化は、全米規模で起きていると言えるかも知れないが、最も劇的だったのは「メガロポリス」の港湾都市のような、最も大きくて古い都市でだった。

  第一は、1960年代後半、米国の歴史で初めて、大都市圏--中心となる都市とその郊外を合わせた地域--から脱出する人の数が、転入する人の数を超えたということである。大都市圏からの脱出組みの落ち着き先は、一般的に言って、主に小都市や町やその間にある田園地帯だった。

  第二は、大都市圏の多くの場所で、高層のオフィス・ビルが急激に増えたことだ。新しい金属やガラス板でできた高層オフィス・ビルの出現によって、1970年代以降、米国の多くの都市では、中心部の高層ビルが空を背に描く輪郭(スカイライン)が大きく変貌した。しかし、この変化は、もはや昔の都市中心部に限ったことではない。巨大なオフィス街が、郊外にも出現し、その多くは、大都市中心部よりも広いオフィススペースを持っている。一見したところ、この変化によって最も大きな影響を受けたのは、自宅のある場所ではなく、職場の場所と通勤パターンのようである。

  明らかに都市部の特色は景観の変化である。そして「メガロポリス」で起きている変化は、この地域の特異な性質にふさわしいものである。「メガロポリス」の変化は連続的であり、激烈だった。その変化の規模は世界のどこにも類をみないものだったのである。

Embassy of the United States HOME |  U.S. CITIZEN SERVICES |  VISAS |  POLICY ISSUES |  STATE DEPT. |  CONTACT US |   PRIVACY |  WEBMASTER