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米国の地理の概要 - 第 14 章
カリフォルニア

  カリフォルニアは、全国民の10%以上が居住する州であり、米国文化を織りなす中心的な要素の1つである。国内で生まれた米国人の3分の2以上は、自分が生まれた州に住んでいるが、カリフォルニア居住者のうち地元生まれは半数に満たない。むしろカリフォルニアは、1850年以降、10年ごとに見ても、米国内の移住者の重要な目的地となっている。

  地域の定義に用いられる基準の多くに照らすと、カリフォルニア(地図:24K)は、地域として単一ではない。例えば南東部のインペリアルバレーの農業人口は、サンフランシスコの都市住民とはまったく異なる。まっ平らなサンワキーンバレーは、険しいシエラネバダ山脈と好対照を成している。南部内陸部には広大な砂漠が広がり、北部沿岸部には樹木が生い茂った斜面がある。米国本土で標高が最も低いデスバレーと最も高いホイットニー山は、互いにほとんど見える距離にある。

  カリフォルニアの劇的で多様な自然環境は、州内の定住形態に大きな役割を果たしてきた。険しい地形が広がり、広範囲にわたり水のない土地があるため、それが制約となって、今日、同州の人口の多くは狭い範囲に集中している。実際、米国のアウトドアライフ信仰のメッカであるこの州は、都市化のレベルでは、ほかのどの州よりも進んでいる。その要因はいくつかあるが、自然環境による制約という側面は、間違いなく重要である。

自然環境

  カリフォルニアの沿岸部は、全体として北西に向かって山脈が長く連なっている。この山々を総称して「コースト山脈(Coast Ranges)」という。その多くは特に標高が高いものではなく、頂上の高さは1,000メートルから1,600メートルである。すぐ西側で地球プレートがぶつかっているため、その圧力によって、山は激しく褶曲して断層が生じている。カリフォルニアの地震断層帯は、コースト山脈と同じく北西に走っている。

  この地域の大部分、特にサンフランシスコのベイエリアから南方へ下ってベーカーズフィールド付近までと、ロサンゼルス地区から南東へ向かってインペリアルバレーまでは、小規模な地震がよく発生する。

  コースト山脈の東側には、ほぼ全長にわたって、セントラルバレーが横たわっている。この谷底はきわめて平坦で、南北に650キロメートル続いており、幅は場所によって150キロメートル近くに及ぶ。セントラルバレーはもともと太平洋の一部だったが、今では海に面しているのはサンフランシスコ湾だけである。かつて海だったこの場所には、シエラネバダ山脈の西の斜面から浸食物質が運ばれて、多くの堆積物が沈積した。その結果、大規模農業経営にふさわしい、起伏の少ない地形が出来上がった。

  セントラルバレーの東側には、激しい浸食を受けたシエラネバダ山脈の緩やかな傾斜が見える。これとは対照的に、山脈の東側は標高が劇的に変化する。シエラネバダ山脈は、巨大な岩の塊が一体となってそびえる断層地塊山脈であり、その東側は西側の斜面よりもかなり急角度で上昇している。標高が高く山道もほとんどないため、シエラネバダ山脈は、カリフォルニア州中部および北部から東の地域へ移動する際の大きな障害となってきた。

  セントラルバレーとシエラネバダほどカリフォルニアらしくはないが、あと2つ特徴的な景観を持つ地域を加えれば、カリフォルニア州の地勢図は完成する。北部では、山-谷-山というパターンが崩れ、大部分が山の多い地形になっている。セントラルバレーの真北にあたる中央の高原には、ラッセン山とシャスタ山という、カリフォルニアでも大きな火山が2つある。セントラルバレーの南東側の内陸部には、低い山脈にはさまれて、かなり平坦な土地が広がるグレートベースンがある。

  カリフォルニアの気候と植生は、ほとんどその地形と同じくらい変化に富んでいる。降水量に最も大きな影響を及ぼすのは、太平洋北東部から南東に頻繁に移動する湿気の多い空気である。この気団から発生する暴風圏が南へどれだけ移動できるかは、通常メキシコの西海岸沖にある停滞性高気圧の中心によって大きく左右される。この停滞性高気圧が、海洋性気団から発生する暴風圏の南への移動を妨げ、この湿気をもたらす空気を東に進ませて陸地に押し上げる。暴風圏の進路を妨げるこの高気圧は、夏は北へ、冬は南へと漂って行く傾向にある。

  この気団の影響を受けて、カリフォルニアの平均年間降水量は、北から南へ向かうにつれて明らかに減少している。平均して北部は南部よりもずっと湿気が多い。さらに、特に南部では、夏は冬よりも乾燥しているのが特徴である。夏の南カリフォルニアでは、雨がまったく降らない期間が長く続くことが多い。その結果、樹木の茂った山の斜面は乾燥してすぐ火がつく。この地域で繰り返し発生する環境問題の1つである森林火災は、長い乾期が終わりを告げる晩夏から秋にかけて最も多く発生する。

  サンフランシスコから北の沿岸部は、気温の季節的な変動が比較的少ない。1年を通じて降水量が多く、曇り空の時期が頻繁に訪れる。

  セントラルバレーは、カリフォルニアの沿岸部と比べるとかなり乾燥している。年間降水量は、海岸山脈の西側にある同じ緯度の地域の半分にも満たないのが普通だ。例えば、サンフランシスコから北の沿岸部にあるメンドシノの平均年間降水量は920ミリメートルだが、メンドシノからまっすぐ東に向かったサクラメントバレーの中心に位置するユバシティはわずか520ミリメートルである。これより南にある都市を比較すると、沿岸部のサンルイスオビスポの平均降水量は520ミリメートルだが、内陸部のベーカーズフィールドでは年間わずか150ミリメートルの降雨量でやりくりしなければならない。

  夏の気温もまた、同じ緯度でも沿岸部と内陸部では大きく異なる。サンルイスオビスポの7月の平均気温は18℃だが、ベーカーズフィールドはこれより12℃近く高い。サンフランシスコでは、晩夏の昼間の最高気温は通常27℃だが、100キロメートル東にあるストックトンでは気温が38℃を超え、焼け付くように暑い。こうした違いの多くは、サンフランシスコの沖合を流れる寒流や、夏の午後と夕方に沿岸部でよく見られる霧が、気候を穏やかにする効果をもたらすためである。

  カリフォルニア州南東部のコースト山脈とシエラネバダ山脈の内陸側には、乾燥したステップ(大草原)や砂漠の環境が広がっている。夏の終わりの数カ月間、乾いた風が西の沿岸部に向かって吹くことがあるが、そうすると湿度が極端なまでに下がり、気温は40℃以上にまで上昇することがある。カリフォルニア南東部の内陸では、年間平均降水量が200ミリメートル未満である。

  植物相は、場所による気候の違いにぴったり一致している。カリフォルニア南部の低地のほぼ全域と、シエラネバダ-カスケード山脈の東側の地域には、セージ、メキシコハマビシ、チャパラルその他の砂漠や半砂漠地帯に特徴的な植物が茂っている。セントラルバレーと南部海岸山脈の渓谷では、さらに南の地域よりもいくぶん降水量が多いため、ステップ草原地帯になっている。セントラルバレーの周辺と、サンタバーバラからモンテレー湾までの沿岸部に見られるのは、バージニアカシとマツの混交疎林である。モンテレー湾から北の沿岸部は、世界最大の樹木であるアカスギの自生地である。海岸山脈とシエラネバダ山脈の標高が高い場所にはマツとモミの混交林が見られ、シエラネバダ山脈の頂上近くには、セコイアを含む亜高山性のベイツガとモミの森がある。

カリフォルニアの発展

  少なくとも最近まで、カリフォルニア州の最大の欠点は、国内で最も重要な経済の需給地域から3,500キロメートルも離れた、米国の最西端に位置することだった。シエラネバダ山脈から米国の南部と中西部に至るまでの間に、地域内の貨物輸送がほとんどない広大な地域が広がっている。こうした風土が、カリフォルニアの相対的な孤立をさらに深めている。

  カリフォルニアの明白な立地上の不利を克服するにあたっては、なによりも気候が重要な役割を果たしてきた。気候は、同州の開拓史にとっても、農業の発展にとっても、ともに重要だった。

  カリフォルニアにヨーロッパ人が来る前に住んでいたアメリカ・インディアンは、狩猟と採集で生活していた。食料としては、魚介類や、集めて粉にできる野生の穀物や木の実に依存していた。大きな部族はほとんどなく、たいていは10~20家族の小さな単位でできたグループだった。南北アメリカにヨーロッパ人が最初にやってきた頃には、アメリカ先住民の10人に1人が、後にカリフォルニア州になる場所に住んでいた。

  スペイン人の探検隊が1500年代半ばにカリフォルニアのはずれをかすめて通り、ここをスペインの広大な北米所有地の一部であると主張した。だが、彼等はそれから2世紀にわたり、要するにカリフォルニアには注意を払わなかったのである。18世紀末に北米大陸の西側で、英国とロシアの領土拡張に対する懸念が生じて初めて、スペイン人宣教師たちは、サンディエゴからサンフランシスコ近くのソノマまで一連の伝道所を設立したのだった。このような伝道所の設立に加えて、駐屯地(要塞)と少数のプエブロ(集落)も作られた。その後数十年間に、スペイン政府とメキシコ政府は、移民に大規模な土地の所有(大農場)を認めた。それでも、この地域は辺境のままだった。町は小さくて荒廃しており、皮革と獣脂が最も重要な輸出品だった。

  1846年に米国がカリフォルニアを併合した後、1848年に中部シエラネバダ山脈の山麓で金が見つかると、この地域の開拓史に最初の大きな変化が訪れた。1年間で4万人もの人々が、サンフランシスコ港を経由し、海路で金鉱地へやって来た。おそらく陸路でも同じぐらいの人々がやって来たと思われる。1850年までに、カリフォルニアは州になっていた。ゴールドラッシュの狂乱は数年しか続かなかった。だが、そのおかげでカリフォルニアは、米国の他の地域から孤立した状況を打破することはできた。

  カリフォルニアにおけるスペイン占有の中心であった南カリフォルニアでは、こうした人口増加は起きなかったが、1880年代に西へ向かう鉄道網が完成すると、この地区の平穏な日々は突然終わりを告げた。鉄道需要を掘り起こす活動の一環として、鉄道会社は入植者を広く公募し、新参者たちが家や仕事を見つける支援を行い、運賃を引き下げた。1881年から1887年まで続いた南カリフォルニアの第一次土地ブームの間に、ロサンゼルスの人口は1万人から7万人に増加した。

  この時期と、その後の数年間にかけて、ネーブルオレンジ、レモン、バレンシアオレンジ、アボカド、デーツなどの多数の作物も南カリフォルニアに持ち込まれた。これらの作物は東部の市場で需要があった。そして、当時の米国でこれらを大量に供給できるのは、南カリフォルニアだけだった。こうして農業は20世紀初めまで、南カリフォルニア経済の屋台骨としての役割を果たすことになる。

今日の農業

  カリフォルニアは、尺度によっては米国で最も都市化が進んだ州だが、同時に、農家の総所得額でみると、最も農業が盛んな州でもある。カリフォルニアで1988年に販売された農産品の市場価格は166億ドルだった。カリフォルニアの農業には、多くの特産物を持つという特徴があるが、気候地域が多様なことや、州人口が多く市場需要があることから、実際には幅広い作物を栽培している。

  多くの特産物は気候や土壌の変化に敏感である。太平洋に通じているコースト山脈の盆地は、よく霧が出て気温が温暖である。このような気候条件では、アーティチョーク、レタス、ブロッコリー、芽キャベツなどの野菜がよく育つ。一般に最高のアメリカ・ワインの原料になると考えられている品種もののブドウの栽培には、コースト山脈の盆地の中でも、サンフランシスコ周辺の内陸部でみられる暖かくて晴れた気候が必要である。夏の気温がサンフランシスコよりも高くなるサンワキーンバレーと南カリフォルニアのブドウは、生食用、レーズン、そして、ワイン好きが一流とは見なさないレベルのワイン用に使われる。米国で種子用に栽培される花のほとんどは、サンタバーバラの西にあるロンポクバレーで生産されている。ネーブルオレンジとレモンのほとんどは、沿岸部と、ロサンゼルス盆地を囲む内陸部だけで生産されている。

  カリフォルニア特産の多くの農産物の重要性は、同州の農民が遠く離れた東部の市場への進出で大成功を収めたことからも説明できる。これらの作物を栽培できる、少なくとも大規模に栽培できる場所は、米国内でも限られている。そのほとんどが長い栽培期を必要とする。従って、需要の多い地域には、生産競争の相手がいない。南カリフォルニア、特にインペリアルバレーは、競争が最も少なく価格が最も高い冬期にも、野菜を供給することができる。

  カリフォルニア州は多くの農産物を生産しているが、それぞれの地域は、1つもしくは少数の作物を専門的に栽培しており、カリフォルニアの特産物の中には、ほんの一握りの農家しか栽培していないものもある。サンワキーンバレーバレーでは、一部の農家が所有する土地面積は数千ヘクタールを超えているところもある。

  農業によって、カリフォルニアの大部分の地域では膨大な量の水の需要が生まれた。同州の綿花、テンサイ、野菜、コメ、果物、花、木の実のほとんどは、灌漑農地で栽培されている。ここは米国で最も農地の灌漑が進んだ州である。およそ350万ヘクタールで灌漑が行われ、また、同州の農民は全米で使われる灌漑用水の4分の1以上を使っている。平均すると、カリフォルニアの灌漑農地は年間約1メートルの「人工」用水をもらっていることになる。

  どこの場所で何の作物を栽培するかは、利用できる水の量のほか、土壌、排水、地形、耕作期間によって決まる。しかし通常は、灌漑が利用できるかどうかが最も重要な決定要因である。サンワキーンバレーバレー一帯の「トランセクト」(訳注=植生を横切って作った帯状の標本地)の一例をとると、シエラネバダ山麓の丘陵地では家畜の放牧が行われ、その下のより平坦だが灌漑を行うにはまだ標高が高すぎる土地では穀物の乾地農業が行われ、さらに、谷底近くの排水がいい土壌では灌漑を行って果樹やブドウが栽培され、平らな谷底では綿花や野菜などの畑作物が灌漑農法で生産されている--といった具合になる。

  カリフォルニア州の降水量のおよそ70%は、農地や都市部がほとんど存在しない北部の山岳地帯や渓谷、シエラネバダ山脈で降る。これに対して、灌漑用水の80%は、降水量の少ない南部で使われる。同州の主要農業地域のうち、平年で500ミリメートル以上の降水量があるのは、サンフランシスコの北側の地域と、南の沿岸部にある少数の渓谷だけである。

  農家は水の主な利用者だが、カリフォルニアの大規模な水の輸送施設の開発に着手したのは都市だった。20世紀初め、ロサンゼルスでは人口が急増したため、地元の地下水だけでは供給を賄えなくなり、シエラネバダ山脈の東側にある、ロサンゼルスから北へ約300キロメートル離れたオーウェンズバレーで不足分を補う水源を探した。1913年には、「ロサンゼルス送水路(Los Angeles Aqueduct)」が水をロサンゼルスまで運んでいた。この送水路が提供できるのは、ロサンゼルスの需要の半分である。1928年にロサンゼルスと南カリフォルニアのその他10都市が、自分たちの地域に十分な水を供給するために、「都市圏水供給公社(Metropolitan Water District)」を作った。今日では同公社は、6つの郡と、130以上の都市、そしてカリフォルニア州の総人口の半数に水を供給している。

  カリフォルニアの水の歴史でおそらく最も劇的なエピソードは、1905年に起きたインペリアルバレーでの出来事だろう。1901年に複数の民間グループがコロラド川からインペリアルバレーまで水を運ぶ運河を建設した。その後、またたく間に農地ブームが起きた。1905年2月にコロラド川が洪水で氾濫し、灌漑用水路に流れ込んだ。多大な努力を払った結果1906年秋に川を元の水路に戻すことができたが、その前にインペリアルバレーのうち1,100平方キロメートルがソルトン湖の下に沈んでしまった。この湖はまだ残っており、渓谷の灌漑農地から継続的に排水される水によってその大きさを維持している。

  1940年代に連邦開拓局(Federal Bureau of Reclamation)が、セントラルバレー灌漑用水の地元での有用性を向上させるために、セントラルバレー・プロジェクトを開始した。今日では、サクラメント川から取られた水が、デルタ・メンドータ運河によって、サンワキーンバレーバレーの西側を通って南のメンドータまで運ばれ、そこでサンウォーキン川に注ぎ込まれる。従って、サンウォーキン川の通常の流れは、そのほとんどを、カリフォルニア随一の農業地帯であるこの盆地の南部の灌漑に使うことができる。

カリフォルニアの都市部

  カリフォルニアは農業面で全国的にも重要な州だが、にもかかわらず人口は、圧倒的に都市居住者が多く、さらに増加し続けている。カリフォルニアの人口は、そのほとんどがロサンゼルスとサンフランシスコという2大都市を中心とする都市部に居住している。

  1880年代の土地ブームによって、ロサンゼルス盆地と南カリフォルニアの沿岸地帯に散在する何十もの都市が生まれた。人口が増加するにつれて、これらの都市は、かつて各都市を空間的に隔てていた農村地域に延びていった。

  サンタバーバラからサンディエゴまでの300キロメートルに及ぶ沿岸線は、約1,500万人が住む1つの細長い巨大都市圏で占められている。この都市集合体は、基本的に20世紀の産物である。従って、19世紀と20世紀初頭に東部の都市が備えた景観的特徴の多くは、ロサンゼルスにはない。同市に欠けている特色とは、例えば、階段で上がる4階または5階建てのアパートや、ほぼ同じ高さの倉庫、高架または地下の鉄道路線などである。

  ロサンゼルスという南部の大都市で最も重要な潤滑油は、いまも昔も自家用車である。ロサンゼルスの中心部の優に半分は、道路もしくは駐車場という自動車のための用途に明け渡されている。この都市では高速道路網が密に張り巡らされているため、端から端までかなり速く移動することができる。ロサンゼルス地区の住民1人当たりの車の数は全米一多く、公共の輸送機関は最低限しかない。

  最後に、ロサンゼルスは中心を持たない都市である。都市活動の中心となる伝統的な単一の中央商業地区が、ここでは何とか存在する程度である。ロサンゼルスは、実際には多数の都市の複合体であり、その各都市の規模が大きくなるにつれて一緒に成長してきたのである。そのうち14都市の人口は、現在10万人を超えている。有力な中央商業地区がないのは、各都市に独立した中心部が残っていることも一因である。

  この地域に資源がないわけではないが、全体的な重要性はそれほど高くない。農業のほかには石油の生産が重要であり、米国の主要油田のうち3つは南カリフォルニアにある。1965年に海底油田の開発が始まった。ガソリンなどの石油製品に対する需要が大きいため、南カリフォルニアで生産された石油製品の事実上すべてが、地元で消費される。

  南カリフォルニアは、長らく米映画産業の中心であるハリウッドの所在地として、世界的に有名である。映画製作の初期の時代には、屋外セットと自然光が当たり前だった。この地域は晴れることが多く、気温が低い時期が短いため、地元の道路や野外を使って多数の映画が撮影された。ロサンゼルスは今でも米国の映画とテレビの中心地の1つだが、今日では、映画産業による雇用は地域の労働人口の2%足らずに過ぎず、大都市圏経済への貢献度は低い。

  南カリフォルニアは気候に恵まれ、特に沿岸部で変化に富む景色を楽しむことができるため、早くから国内有数の屋外レクリエーションの中心になった。今日では、このような自然の利点を補完する形で、米国で最も先進的な最大規模のレクリエーション施設が発展している。サンディエゴのバルボアパークとその素晴らしい動物園、ナッツベリーファーム、そしてマリンランドが代表的なレクリエーション施設である。ディズニーランドは米国の社会現象の1つとなり、多くの観光客が目指す目的地となっている。

  南カリフォルニアは、米国に入国するラテンアメリカやアジアからの移民が目指す目的地の代表格でもある。ロサンゼルス学校区の児童の4人に1人以上が、英語以外の104言語のうちの1つを母語としている。

  特に最近の移民は、少数民族地区に落ち着くことが多い。長年ロサンゼルスの一部だったリトルトウキョウには、活気が戻って来ている。サンガブリエルバレーのモンテレーパークは、人口の50%がアジア系で、米国本土で最もアジア色の強い都市になっている。ここには様々な種類のエスニック・レストランがあるが、その多くは、都市部のあちこちにある少数民族の居住地区に存在する。

  しかし、これらすべてを総合しても、1,500万人の人々の生活を支える資源としては不足している。石炭や鉄鉱石のような重資源はまったく存在しない。サンディエゴには良質の港があるが、ロサンゼルスの港は完全な人工港であり、質も平均的である。

  しかし、南カリフォルニアは、全米のどの地方よりも多くの利益を政府歳出から受けている。国防総省の歳出総額の約20%、米航空宇宙局(NASA)の予算の半分近くを、カリフォルニア州が受け取っている。サンディエゴは米海軍の西海岸における母港で、海軍は間違いなくサンディエゴ最大の雇用者である。サンディエゴは人口が200万人を超える都市だが、その割には製造業の雇用が相対的に少なく、それが米国有数の住みやすい都市といううたい文句の重要な根拠の1つになっている。また同時に、製造による付加価値が高く、労働者の技能が特に重要なエレクトロニクス部門が、南カリフォルニア経済に大きな貢献をしている産業の1つになっている。

  ロサンゼルスの小売り売上高はニューヨーク大都市圏よりも多く、ここで生産される製品の価値も高い。10年前にロサンゼルスは、西海岸の金融の中心地としてサンフランシスコを追い抜き、現在は預金残高でニューヨーク市に次いで全米第2位である。ロサンゼルスとロングビーチという一対の港が合わさって、世界で最も成長著しい貨物輸送の中心地を形成している。この2つの港を経由して海上輸送される貨物の輸出入額は、今ではニューヨークおよびニュージャージー港を大きく上回っている。

  南部の新興都市の住民と違って、サンフランシスコ市民はこの街を古い国際都市と見なすことを好む。サンフランシスコはカリフォルニアにおけるスペインとメキシコ勢力の、北の中心だった。カリフォルニアのゴールドラッシュでは、補給基地としての役割を果たした。1850年までには太平洋沿岸最大の都市となり、その地位は1920年まで続いた。1969年に最初の大陸横断鉄道が完成すると、人口が多く、良港を持っていたこともあって、サンフランシスコは米国西部の発展の中核になっただけでなく、太平洋諸国との貿易の中心地にもなった。同市にはアジア、特に中国から大勢の移民が流入したのに加え、ほかの外国人も多数やってきた。彼等は無国籍なエスニック文化の混合を生み出し、それがこの都市の一目でわかる特徴として今も残っている。

  こうした初期の歴史がもたらすロマンチックで粋な一面は、サンフランシスコが全米有数の人気都市になった数多くの理由のうちの1つに過ぎない。自然地理的条件も、一都市に申し分のない舞台を提供するもので、同市の場合は、急な坂道が続くため太平洋やサンフランシスコ湾の劇的な眺めを一望することができるし、気候が温暖であるため、南カリフォルニアの夏を時々襲う、驚くほどの暑さとも無縁だ、という訳である。

  現在サンフランシスコ市の人口は、サンフランシスコ・ベイエリアに住む540万人のうちの8分の1未満である。サンフランシスコ都市圏が全体として成長する中で、小さな半島に押し込められたサンフランシスコ市の人口は、実質的に減少している。

  今日のベイエリアは、いくつかの異なる地区から成り立っており、それぞれが特徴を持っている。イーストベイは最も多様な地区であり、学生街、中流階級の人々が住む大きな区域、ここカリフォルニア地域の港湾施設や重工業のほとんどがある区域などが混在している。サンノゼ・サウスベイ地区には中流の上のクラスが住み、新しい住宅、美しい庭、地域の大きなショッピングセンターがある。サンノゼの北のサンフランシスコ湾沿岸には、シリコンバレーがある。シリコンバレーという名前は、コンピューター部品の生産に関係する化学・電子機器の研究に従事する企業が集中していることに由来する。ゴールデンゲート・ブリッジの北側は都市の規模が小さく、製造業もほとんどない。土地の農業利用か都市利用かをめぐる意見の衝突が、時々表面化したりする。ここには、田舎の土地を探す裕福な都会人がいるからである。サンフランシスコ市自体は、斜面の多い地形には不似合いの格子状の街路、隙間なく並んだ19世紀末から20世紀初頭にかけての建物、そして民族的多様性などの、独特の魅力を今も維持しいている。

  ロサンゼルスとは異なり、ベイエリアに大きな都市の中枢があることは、驚くに当たらない。良港と過ごしやすい気候は、重要な立地要因である。荷揚げ量で見ると、サンフランシスコは北米の太平洋側で最も重要な港である。鉄道や高速道路による東部とのつながりは、少なくとも、ほかの西海岸の都市と同程度である。「メガロポリス」が米国にとってヨーロッパとの接触の基点であるのと同じように、サンフランシスコはアジアとの重要な接点なのである。

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