- 第11章 -

ニューディールと第2次
世界大戦
米国の歴史の概要
第1章 初期の米国
第2章 植民地時代
第3章 独立への道
第4章 中央政府の形成
第5章 西への拡大と各地域の特徴
第6章 地域間の対立
第7章 南北戦争と再建期
第8章 成長と変容
第9章 不満と改革
第10章 戦争、繁栄、そして恐慌
第11章 ニューディールと第2次世界大戦
第12章 戦後の米国
第13章 変動の時代:1960~1980年
第14章 新しい保守主義と新たな世界秩序
第15章 21世紀への架け橋
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「われわれは、民主主義の偉大な兵器庫でなければならない。」

U.S. History
1941年12月7日、真珠湾で日本軍の攻撃を受ける米国戦艦ウェストバージニアとテネシー (The National Archives)

ルーズベルトとニューディール

1933年、フランクリン・D・ルーズベルト新大統領は、自信と楽観主義に満ちた態度で、自らの提案する「ニューディール」政策の旗の下に、迅速に国民を結集させた。ルーズベルト大統領は国民に向けた就任演説で、「われわれが恐れなければならないものはただひとつ、恐れそのものだ」と宣言した。

ある意味では、ニューディールは、多くのヨーロッパ人が何世代も前から体験している社会的・経済的改革を採用したものにすぎなかった。またニューディールは、「自由放任」の資本主義を放棄するという長年にわたる動向の行き着いた先でもあった。こうした動きは、1880年代の鉄道規制にまでさかのぼり、その後のセオドア・ルーズベルトやウッドロー・ウィルソンの進歩主義時代に次々と提出された州および国家レベルの各種改革法案もその一部である。

しかしニューディールには、それまでにない、真に新しい特徴もあった。それは、過去には何世代もの年月をかけて達成されたことが、極めて迅速に行われたことである。その改革の多くは、性急に計画されたもので、効果を発揮することができなかった。相互に矛盾する改革もあった。そして、結局は繁栄を回復することができなかった。しかし、ニューディールの措置は、大勢の米国民に具体的な援助を与え、新しい強力な政治連合の基盤を築き、個々の市民の政府に対する関心を急速に復活させた。

第1次ニューディール

銀行・金融。ルーズベルトが大統領に就任したときには、米国の銀行および融資制度はマヒ状態にあった。米国の銀行は、驚異的な速さで閉鎖され、支払い能力があれば直ちに事業を再開した。ルーズベルト政権は、商品価格を上昇させるため、また債務者に何らかの救済を与えるために、適度の通貨インフレ政策を採用した。新たな政府機関は、工業・農業に対して、手厚い信用供与を行った。連邦預金保険公社 (FDIC)が、5000ドルまでの貯蓄銀行預金を保証した。株式取引所における証券の販売が、連邦政府によって規制された。

失業。ルーズベルトは、前例のない大量の失業に直面した。彼が大統領に就任したころには、1300万人もの米国民(労働力の4分の1以上)が失業していた。食料の無料配給所で列を作る人々の姿が、ほとんどの都市で普通に見られた。何十万もの人々が、食料、仕事、住居を求めて、全米各地を渡り歩いた。「Brother, can you spare a dime?(兄弟よ、10セント恵んでくれないか)」という歌が流行った。

失業者のために初期に取られた措置として、18歳から25歳までの若い男性を対象とした市民保全部隊(CCC)制度がある。CCCに入った若者は、軍隊が運営するキャンプで働いた。10年間でおよそ200万人がCCCに参加した。彼らは、土壌浸食を防ぐための植林と国有林の保全、河川の汚染除去、魚・動物・鳥の保護区の作成、および石炭、石油、シェール、天然ガス、ナトリウム、ヘリウムの鉱床の保護など、さまざまな環境保全プロジェクトに携わった。

公共事業局(PWA)は、主として各種の中規模・大規模プロジェクトで、熟練建設労働者に雇用を提供した。PWAの多くの業績の中でも最も重要なものとしては、太平洋岸北西部のボンビル・ダムとグランド・クーリー・ダム、シカゴの新しい下水設備、ニューヨークのトライボロ・ブリッジ、そして米国海軍の空母2隻(ヨークタウンとエンタープライズ)の建設などが挙げられる。

テネシー川流域開発公社(TVA)は、失業対策事業兼公共計画事業として、貧困に苦しんでいたテネシー川流域を開発するため、洪水防止および水力発電用のダムを何カ所かに建設した。TVAは、この地域に安価な電力を提供することによって経済の発展を刺激したが、民間電力会社の反感を買った。ニューディール主義者は、TVAを「草の根民主主義」の模範として称賛した。

1933年から1935年まで存在した連邦緊急救済局(FERA)は、主に直接支払いという形で、何十万もの人々に直接的な救済を与えた。同局が、学校の教師やその他の地方公務員の給与を肩代わりして支払うこともあった。また、多数の小規模な公共事業プロジェクトを実行した。民間事業局(CWA)も1933年末から1934年春にかけて、同様の各種プロジェクトを展開した。雇用創出のための「不要な作業」と批判されたこれらのプロジェクトによる雇用には、溝掘りから高速道路修理工事、そして教員まで、さまざまなものがあった。ルーズベルト大統領と主な側近は、そのコストを懸念したが、福祉より失業対策を基盤とするこれらの制度に対する支持を続けた。

農業。1933年の春、米国経済の農業部門は崩壊状態にあった。従って、農業部門は、ニューディール主義者にとって、規制を拡大すれば米国の問題の多くは解決できるという彼らの考えを証明するための実験の場となった。1933年に連邦議会は、農民に経済的救済を提供する農業調整法(AAA)を可決した。同法は、農民の自主的な減産を補償する補助金を支払うことによって、作物の価格を引き上げるものであった。補助金のための資金は、作物を加工する産業への課税によって調達されることになっていた。しかしながら、この法律が制定されたときにはすでに作物の生育期に入っており、政府は農民に補助金を支払って豊作だった作物を鋤で掘り起こさせた。作物の減産、および作物を買い上げて貯蔵する商品金融公社(CCC)の補助金により、生産高は下がり、価格は上昇した。

1932年から1935年までの間に、農家の収入は50%以上増加したが、その一部は連邦政府の各種事業によるものであった。農民が農地の縮小を奨励され、小作人が行き場を失っていたまさにこの時期に、大平原地帯の各州が厳しい干ばつに見舞われた。1930年代に発生した暴風と風塵の被害を受けた地域は「ダストボウル」と呼ばれるようになった。作物は全滅し、農家は破産した。

1940年までには、250万人が大平原地帯の諸州を脱出していた。これは米国史上最も大規模な人口の移動であった。このうち20万人はカリフォルニア州へ移住した。移住したのは農民だけではなく、専門職者、小売店主、その他農業社会の繁栄に依存して生計を立てていた人たちも含まれていた。その多くは、極めて低い賃金で作物を収穫する季節労働の仕事をめぐって競争しなければならなかった。

政府は、1935年に土壌保全局を設置する形で援助を提供した。それまで土壌を疲弊させる耕作法が行われていたために、干ばつの影響が一層大きかった。土壌保全局は、土壌の侵食を抑える方法を農民に指導した。また、長さ3万キロメートルに及ぶ防風林が植えられた。

農業調整法はおおむね成功を収めていたが、1936年に、食品加工業者に対する課税は違憲であるとの最高裁判決が下されたため、同法は廃止された。連邦議会は直ちに、土壌保存のために農地耕作を停止した農民に政府が補助金を支払うことを許可する農業救済法を可決した。1938年には、最高裁でニューディール支持派が過半数を占めるようになり、議会は農業調整法を復活させた。

1940年までには、600万近い農民が連邦政府の補助金を受けていた。ニューディールの各種事業は、余剰作物を担保とする貸付、小麦の保険、そして食料の安定供給を保証するための計画的貯蔵などを提供した。こうして多額の費用と政府の多大な監督を必要としながらも、農業の安定がかなり達成された。

産業と労働。1933年に、全国産業復興法(NIRA)により設置された 全国産業復興局(NRA)は、雇用を増やし購買力を高めるための公正な競争慣行の規則を定めることによって、熾烈な競争に終止符を打とうとした。NRAは当初歓迎されたが、間もなく過剰な規制を批判され、産業の復興を達成するには至らなかった。1935年には、NRAは違憲であるとの判決が下された。

産業復興法は、労働者に対して、個々の労働者を代表する労働組合による団体交渉の権利を保証したが、NRAは、独立した労働組合に対する企業の強い反対を押し切ることができなかった。1935年にNRAが廃止された後、連邦議会は全国労働関係法を可決した。この法律は、上記の権利を改めて規定し、雇用者が労働組合の活動に不公正な干渉をすることを禁じた。また、団体交渉を監督し、選挙を実施し、労働者が雇用者との交渉において自らを代表する組織を選ぶ権利を確保するために、全国労働関係局を設置した。

労働組織の大きな前進によって、労働者の共通の利害に対する意識が高まり、産業だけでなく政治においても労働組合の力が拡大した。これは、ルーズベルトの民主党にとって、極めて有利な展開であった。

第2次ニューディール

ニューディールは初期の数年間に数々の優れた立法を実現させ、生産と価格の大幅な上昇を達成したが、大恐慌を終わらせることはできなかった。目前の危機が緩和されるに従い、新たな要求が出てきた。事業家は「自由放任」主義の終わりを嘆き、産業復興法の規制にいら立った。政治的な左派からも右派からも、経済的問題の解決策を掲げた夢想家、策略家、そして政治家が登場し、国民がこれに耳を傾けるにつれ、現状に対する不満の声が高まった。フランシス・E・タウンセンド博士は、豊富な老齢年金を提唱した。「ラジオ神父」として知られたチャールズ・コフリン神父は、インフレ政策を要求し、反ユダヤ主義的イメージをちりばめた演説で、国際銀行家を非難した。中でも最も強力な存在となったルイジアナ州のヒューイ・P・ロング上院議員は、失業者の立場を雄弁にかつ断固として代弁し、急進的な富の再分配を提唱した。(ロング議員は、1935年9月に暗殺されていなければ、1936年の大統領選でルーズベルトに挑戦していた可能性が非常に高い。)

こうした圧力に直面したルーズベルト大統領は、新たな一連の経済的・社会的措置を支持した。その主なものとしては、貧困対策、失業者のための雇用創出、および社会的な安全網の提供などがあった。

このいわゆる第2次ニューディールにおける中心的な救済機関となった雇用促進局(WPA)は、それまでで最大の公共事業機関であった。WPAは、全米各地で小規模なプロジェクトを実施し、建物、道路、空港、学校などを建設した。連邦劇場プロジェクト、連邦芸術プロジェクト、および連邦著作家プロジェクトにより、俳優、画家、音楽家、そして著作家が雇用された。また全米青年局は、学生にパートタイムの雇用を与え、職業訓練プログラムを設け、失業した若者に援助を提供した。WPAは1度に300万人の失業者を救済し、1943年に廃止されるまでに合わせて900万人を救済した。

ルーズベルトがニューディールの要と考えたのは、1935年の社会保障法であった。社会保障制度により、貧困層、失業者、および障害者のための、州が運営する福祉給付制度がつくられた。これは、州と連邦政府の同額拠出を基盤とするものであった。また社会保障制度は、雇用者と従業員の拠出による「信託基金」から支払われる全国的な退職年金制度を確立した。当時すでに他の多くの工業国ではそのような制度が実施されていたが、米国ではそれまで、そうした制度を求める声が無視されていた。今日、社会保障制度は、米国政府が運営する最大の国内制度である。

これらに加えて、ルーズベルト大統領は、全国労働関係法、富裕層に対する課税を引き上げる「財産税法」、大規模な電力複合事業体を解体するための公益事業持株会社法、そして大手民間銀行に対する連邦準備制度理事会の権限を大きく拡大する銀行法を制定した。また、全米各地の農村地帯に電力をもたらした農村電化局の設立も、注目に値する措置であった。

新たな連合

1936年の大統領選挙では、ルーズベルトが、共和党の候補アルフ・ランドン(カンザス州)に圧勝した。ルーズベルトは個人として人気があり、経済も回復が間近と思われていた。ルーズベルトの得票率は60%に達し、2州を除くすべての州で勝利を収めた。民主党は、労働組合、ほとんどの農民、都市部の民族グループの大半、アフリカ系米国人、そして伝統的に民主党の地盤である南部を味方に付け、幅広い新たな連合が誕生した。共和党は、企業、および小都市や郊外に住む中流階級の支持を得た。こうした政治的同盟は、その後多少の変化や移行はあったものの数十年間続いた。

ルーズベルト大統領にとって第2期目は強化の時期であった。しかし大統領は政治的に2つの重大な間違いを犯した。ひとつは最高裁を拡大しようとして失敗に終わった無謀な試み、もうひとつは、ますます反抗的になっていた南部保守派を民主党から「追放」しようとして失敗したことである。さらに、ルーズベルトが多額の政府支出を削減したことによって、経済が崩壊した。こうした出来事によって、連邦議会内に保守派の連合が生まれ、彼らは新しい計画を拒否した。

1932年から1938年まで、ニューディール政策が米国の政治・経済にとってどのような意味を持つのかということが、国民の間で広く議論された。 米国民は、強力な政府に対する不安を持っていたとしても、明らかに、一般の国民の福祉に対する政府の責任の拡大を望んでいた。ニューディールは、米国に近代福祉国家の基盤を築いた。おそらく20世紀の最も強力な大統領であるルーズベルトは、一般大衆のためのリーダーという新たな基準を確立したのである。

当時も今も、ルーズベルトほどラジオを効果的に活用した米国の指導者はいない。1938年のラジオ演説で、ルーズベルトは次のように語った。「偉大な国家から民主主義が消滅した例がいくつかあるが、その原因は、国民が民主主義を嫌ったからではなく、国民が失業と不安定に疲れ、また指導力の欠如による政府の混乱と弱体の中で、なすすべもなく、飢える子どもたちを見ていることに疲れたからである。」彼は、結論として、米国民はいかなる犠牲を払っても自由を守ることを望み、「その防御の最前線が経済の安定の保護である」ことを理解している、と述べた。

戦争と不安定な中立

ルーズベルト大統領の第2期目が軌道に乗る前に、日本、イタリア、およびドイツの全体主義政権の拡張政策によって、ルーズベルトの国内政策の影が薄くなった。1931年に日本が満州へ侵攻し、中国の抵抗を鎮圧し、傀儡国家満州国を作った。ベニト・ムソリーニの率いるイタリアは、リビアで領土を広げ、1935 年にはエチオピアを征服した。ドイツは、ナチスの指導者アドルフ・ヒトラーの下で、経済を軍事化し、1936年には、ベルサイユ条約で非武装化されていたラインラントを再び占領した。1938年に、ヒトラーは、オーストリアをドイツ帝国に統合し、チェコスロバキアのドイツ語圏ズデーテンラントの割譲を要求した。そのころには、戦争は不可避に見えた。

第1次世界大戦で民主主義のための戦いに失敗して幻滅していた米国は、いかなる状況においても米国が今回の紛争当事国に援助を提供することはない、と発表した。1935年から1937年までの間に漸次制定された中立法により、参戦国との武器の取引が禁止され、その他の商品については現金取引が義務付けられ、米国船籍の商船がそうした製品を輸送することが禁止された。その目的は、ほぼいかなる犠牲を払っても、米国が外国の戦争に関与することを防ぐことであった。

1939 年にナチスがポーランドを征服し、第2次世界大戦が勃発すると、米国人は明らかにヒトラーの侵略の犠牲者に同情し、連合軍の民主主義国家英国とフランスを支持したが、それにもかかわらず、孤立主義的な感情が高まった。ルーズベルトは、米国の関与に関する世論を変えるような出来事が発生するのを待つしかなかった。

フランスが陥落し、1940年代半ばにドイツの対英空中戦が始まると、米国では、民主主義国家に対する支援を支持する人々と、戦争に反対する孤立主義者との間の論争が過熱した。ルーズベルトは、世論を介入支持の方向に向けるべく、できる限りの努力をした。米国は、カナダと相互防衛協定を結び、中南米諸国と協調して西半球の諸国に集団防衛を提供した。

拡大する危機に直面した連邦議会は、再軍備のための巨額の予算を可決し、1940年9月には、米国史上初の平時選抜徴兵法案を可決した。また同月、ルーズベルトは、英国のウィンストン・チャーチル首相との間で大胆な行政協定を結んだ。米国は、ニューファンドランドおよび北大西洋の英国空軍・海軍基地と引き換えに、「老朽化した」駆逐艦50隻を英国海軍に与えた。

1940年の大統領選挙戦では、孤立主義者は活発に発言をするが、数としては少数派であることが明らかになった。ルーズベルトの対立候補となった共和党のウェンデル・ウィルキーは、介入支持に傾いていた。こうして、11月の選挙では、ルーズベルトが過半数票を獲得し、米国史上最初で最後の大統領3選を果たした。

1941年初頭に、ルーズベルトは、連邦議会に、武器貸与法を承認させた。これによって大統領は、米国の防衛に必要であると見なされるいかなる国家に対しても(特に英国、のちにはソ連と中国)、武器・装備を提供できるようになった。終戦までに、武器貸与法による援助は、500億ドルを超えた。

最も注目すべき出来事として、ルーズベルトは8月にニューファンドランド沖でチャーチル首相と会談した。この2人の指導者は、「戦争目的の共同声明」を発表し、これを大西洋憲章と呼んだ。これは、ウッドロー・ウィルソンの「14カ条」に非常によく似ており、その目標は、領土の拡大をしないこと、当事者である国民の同意を得ずに領土を変更しないこと、すべての国民が政治体制の選択権を持つこと、自治をはく奪されたものに自治政府を回復すること、すべての国家が相互に経済協力をすること、すべての国民が戦争・恐怖・欠乏から自由になること、公海の自由の原則を認めること、そして国際政策の手段としての武力行使を放棄すること、であった。

こうして米国の中立は名目だけのものとなった。

日本、真珠湾、そして戦争

大半の米国民がヨーロッパの戦争の行方を不安げに見守っている間に、アジアで緊張が高まっていた。日本は、その戦略的な位置を改善する機会をとらえて、太平洋地域全体で主導権を握る「新秩序」を大胆に発表した。生存をかけてナチスドイツと戦っていた英国は、日本に抵抗する余裕がなく、上海の租借地を放棄し、ビルマからの中国の供給ルートを一時的に閉鎖した。1940年夏、日本は、弱体化したフランスのビシー政府から、インドシナ北部(北ベトナム)の飛行場の使用許可を勝ち取った。同年9月、日本は正式にローマ・ベルリン枢軸に加わった。これに対抗して米国は、日本へのくず鉄輸出を禁止した。

1941年7月、日本はインドシナ南部(南ベトナム)を占領し、英領マレーシアおよびオランダ領東インド諸島の石油、スズ、ゴムを目指して南下する可能性を示した。これに対して米国は、日本の資産を凍結し、日本が何よりも必要としていた商品、すなわち石油の禁輸措置を取った。

同年10月、東条英機大将が日本の首相となった。彼は11月半ばに、米国へ特使を派遣し、コーデル・ハル国務長官と会見させた。日本は、米国が日本の資産の凍結を解除すること、太平洋における米国海軍の拡張を停止すること、などを要求した。これに対してハルは、日本がすべての占領地から撤退することを提案した。12月1日に日本が直ちにこれを拒否したため、交渉はこう着状態となった。

12月7日朝、日本の航空母艦を飛び立った戦闘機隊が、ハワイの真珠湾で米軍太平洋艦隊を奇襲し多大な被害を与えた。米軍の軍艦21隻が全壊または一時的に使用不能となり、航空機323機が全壊または破損され、兵士・水兵・民間人合わせて2388 人が死亡した。しかしながら、のちに太平洋における海戦で重要な役割を果たすことになる米国の航空母艦は航海中であり、真珠湾には停泊していなかった。

ヨーロッパの戦争については依然として分裂していた米国の世論が、「汚名のうちに生きる日」とルーズベルト大統領が呼んだ出来事によって、一夜にして統一された。12月8日、連邦議会は日本に対して宣戦布告をした。そして3日後には、ドイツとイタリアが米国に宣戦布告をした。

全面戦争のための動員

米国は直ちに、国民と産業の総力を動員する態勢に入った。それから3年半の間に、軍需産業は、航空機30万機、貨物船5000隻、揚陸艇6万隻、タンク8万6000台という驚異的な生産目標を達成した。「リベット工のロージー」に代表される女性労働者が、工業生産において、かつてない重要な役割を果たすようになった。終戦時の米軍兵力は1200万人を超えていた。農業、製造業、鉱業、商業、労働、投資、通信、そして教育・文化に至るまで、米国のあらゆる活動が、何らかの形で、新たに拡大された統制の下に置かれた。

真珠湾攻撃の結果として、またアジア人スパイを恐れたため、米国民は、日系米国人の強制収容という、後には不寛容な行為とされる措置を取った。1942年2月、カリフォルニア州に住む12万人近い日系米国人が、有刺鉄線に囲まれた悲惨な臨時収容所へ連行され、後には米国南西部の人里離れた町の外にある「移転収容所」へ移された。

これらの日系米国人のうち63%近くは、米国生まれの米国市民であった。日本を支持する者も多少はいたが、スパイ活動の証拠が発見されたことは1度もなかった。収容所から米軍に志願した日系人もいた。彼らは、2つの歩兵部隊としてイタリアの前線で勇敢に戦い、数々の殊勲を立てた。また、太平洋戦線で通訳・翻訳者を務めた者もいた。

米国政府は1983年に、日本人強制収容が不正であったことを認め、当時の日系米国人のうち生存者に、多少の賠償金を支払った。

北アフリカとヨーロッパにおける戦争

米国の参戦後間もなく、米国、英国、およびソビエト連邦(ソ連は1941年6月22日からドイツと戦っていた)は、主な軍事活動をヨーロッパに集中させることを決定した。

1942年を通じて、英軍とドイツ軍は、スエズ運河の支配をめぐってリビアおよびエジプト各地で戦闘を続けていたが、勝敗が定まらなかった。しかし10月23日に、バーナード・モントゴメリー将軍の率いる英国軍が、エル・アラメインからドイツ軍を攻撃した。タンク1000台(多くは米国製)を備えた英軍は、2週間にわたる過酷な軍事作戦の末、エルウィン・ロンメル将軍の軍隊を破った。11月7日には、米軍と英軍がフランス領北アフリカに上陸した。東と西からの進軍に挟まれたドイツ軍は、後退しながら激しく抵抗したが、1943年5月に降伏した。

1942年は、東部戦線においても転換期となった。 大きく敗退していたソ連が、レニングラードとモスクワの入り口でナチスの侵攻を食い止めた。1942年から43年にかけての冬、ソ連赤軍はスターリングラード(ボルゴグラード)でドイツ軍を破り、長期にわたる攻撃を開始して、1945年にはベルリンに到達した。

1943年7月、英軍と米軍がシチリア島に侵攻し、1カ月で島を陥落させた。その間にイタリアではベニト・ムソリーニが失脚した。その後継者たちは、直ちに連合軍との交渉を始め、9月のイタリア本土侵略直後に降伏した。しかしながら、そのときにはすでにドイツ軍が半島を支配していた。イタリアにおけるナチス勢力との戦いは激しく、長期に及んだ。ローマがようやく解放されたのは1944年6月4日のことであった。連合軍は、徐々に北上しながら各地に飛行場を建設し、そこから飛び立った飛行機が、ドイツ南部および中央ヨーロッパの鉄道、工場、砲台を空爆した。その対象には、ルーマニアのプロイェシュティ油田施設も含まれていた。

1943年末に、連合軍は、 戦略をめぐる長い討論の末に、フランスに戦線を置き、ドイツ軍がソビエト連邦から大勢の兵力を回さなければならなくなるような作戦を取った。

米国のドワイト・D・アイゼンハワー将軍が、欧州連合軍最高司令官に任命された。膨大な準備の末に、1944年6月6日、米国、英国、およびカナダの侵攻軍が、極めて優勢な空軍に守られて、ノルマンディーの海岸5カ所に上陸した。激しい戦闘の末に橋頭堡が築かれ、さらに多くの兵士が上陸し、激しい戦闘を繰り返してドイツ軍を後退させた。8月25日にパリが解放された。

秋には連合軍の攻撃が行き詰まり、冬にはベルギー東部で後退しなければならなかったが、3月には米英軍がライン川を越え、東からはロシア軍が圧倒的な勢いで進攻していた。5月7日、ドイツは無条件降伏した。

太平洋戦争

米軍は1942年初頭にフィリピンで降伏を余儀なくされたが、その後数カ月間で立ち直り、4月にはジェームズ・「ジミー」・ドリトル将軍の率いる爆撃隊が東京を空襲した。この空襲は、軍事的にはあまり意味がなかったが、心理的には米国民の志気を大いに高めた。

同年5月のサンゴ海海戦は、史上初めて、航空母艦から飛び立った戦闘機だけで行われた海戦であったが、ニューギニア南部とオーストラリアの攻撃に向かっていた日本海軍の攻撃艦隊が、米軍任務部隊によって後退させられた。その数週間後、中部太平洋のミッドウェー海戦で日本は空母4隻を失い、日本海軍は初めての大きな敗北を喫した。中部太平洋における日本軍の進攻を食い止めたミッドウェー海戦は、太平洋戦争の転換点となった。

そのほかにも連合軍の勝利に貢献した戦闘がいくつかあった。ガダルカナル島をめぐる6カ月間の陸海戦(1942年8月~1943年2月)は、米国にとって太平洋地域で初めての主な陸上戦の勝利であった。その後ほぼ2年間にわたって、米軍とオーストラリア軍は、南太平洋から北へ、また中部太平洋から西へ進攻し、一連の陸海空共同作戦によって、ソロモン、ギルバート、マーシャル、およびマリアナの各諸島を占領した。

戦争の政治的側面

連合軍の軍事活動と同時に、この戦争の政治的な目標に関する、一連の重要な国際会議が開かれていた。1943年1月、モロッコのカサブランカで英米会議が開かれ、枢軸国およびそのバルカン衛星諸国との和平は、「無条件降伏」以外には達成されない、との決断が下された。ルーズベルトが主張したこの条件は、ファシズムとナチズムを代表する諸国との個別の和平交渉を行わないこと、そしてこの戦争の理想主義的な目標の譲歩はないことを、すべての参戦国の国民に保証することを目的としていた。枢軸国のプロパガンダは、もちろんこれを利用して、連合国は抹殺のための戦争をしている、と主張した。

1943年11月、ルーズベルトとチャーチルは、カイロで中華民国の指導者蒋介石と会談し、対日方針に関する合意に達した。これには、日本が過去の侵略によって得た領土の返還も含まれていた。その直後、テヘランで、ルーズベルト、チャーチル、およびソ連の指導者ヨシフ・スターリンが、戦後のドイツ占領、および新たな国際組織である国際連合の設立について基本的な合意に達した。

1945年2月、勝利がほぼ確実となった連合軍の指導者3人は、ヤルタ(現在はウクライナにある)で再び会談した。この会談で、ソ連がドイツ降伏の3カ月後に日本との戦争に参戦するという秘密の協定が結ばれた。その代償として、ソ連は事実上満州の支配権を手に入れ、日本の千島列島と、サハリン島の南半分を獲得することになった。ポーランドの東の国境が、ほぼ1919年のカーゾン線に沿って設定され、戦前のポーランド領土のほぼ半分がソ連に与えられた。スターリンがドイツによる賠償金支払いを要求し、ルーズベルトとチャーチルはこれに反対したため、この問題については結論が出なかった。連合軍によるドイツ占領、および戦犯の裁判と処罰について、具体的な取り決めがなされた。またヤルタ会談では、提案されている国際連合の安全保障理事会のメンバーである強国が、それぞれ自国の安全保障に影響を及ぼす問題については拒否権を有すべきである、との合意が成立した。

フランクリン・ルーズベルトは、ヤルタ会談から帰国して2カ月後に、ジョージア州で休暇中に脳内出血で死去した。米国史上、ルーズベルト大統領ほどその死を悲しまれた人物は、ほかにあまりいない。米国民はしばらくの間、かけがえのない存在を失った悲しみにくれた。元ミズーリ州選出の上院議員であったハリー・トルーマン副大統領が、大統領に就任した。

戦争、勝利、爆弾

太平洋における末期の戦いは、第2次世界大戦においても有数の血なまぐさい戦闘であった。1944年6月のフィリピン海海戦で、日本海軍の航空戦力が事実上壊滅し、日本の東条首相は辞任を余儀なくされた。その2年前に、日本軍による逮捕を免れるためにフィリピンを去らねばならなかったダグラス・マッカーサー将軍は、10月にフィリピンに帰還した。そのときのレイテ沖海戦は、日本海軍にとって最後の決定的な敗北となった。1945年2月までには、米軍がマニラを占領していた。

続いて米国は、マリアナ諸島と日本のほぼ中間にあるボニン諸島(小笠原諸島)中の硫黄島という戦略的に重要な島に照準を定めた。天皇のために戦死するよう訓練された日本軍は、硫黄島の天然の洞窟や岩山を利用し、自決を覚悟で戦った。3月半ばまでには米軍が硫黄島を占領したが、米海兵隊員およそ6000人が戦死した。硫黄島を防衛しようとした日本軍はほぼ全滅した。そのころまでには米国が日本の船舶や飛行場を何度も空爆しており、日本の各都市に焼夷弾の波状攻撃が行われていた。

沖縄戦(1945年4月1日~6月21日)では、米軍はさらに激しい抵抗に遭った。降伏する日本兵がほとんどいなかったため、米陸軍・海兵隊は、壊滅的な攻撃をせざるを得なかった。沖の連合軍艦隊を神風特攻機が次々と襲撃し、レイテ湾の戦い以上の損害を与えた。日本は9万~10万人の兵士を失い、おそらく同数の沖縄の民間人が死亡した。米軍は、1万1000人以上が戦死し、3万4000人近くが負傷した。米国人のほとんどは、この戦いは、予定されている日本本土攻撃の予告編であると考えた。

1945年7月17日から8月2日まで、ベルリン郊外のポツダムで、米国、英国、ソ連の首脳が会談し、対日作戦、ヨーロッパの和平協定、および戦後のドイツに関する方針についての話し合いが行われた。この3カ国の話し合いは、漠然とした原則や軍事占領に関する実際的な課題については問題がなかったが、賠償金をはじめ、多くの具体的な点については合意に達することができず、連合の終焉を予感させた。

ポツダム会談開始の前日に、機密のマンハッタン計画に関与していた米国の原子力科学者らが、ニューメキシコ州アラモゴルド付近で原爆実験を行った。この実験は、米国各地の研究所で3年間にわたって行われていた集中的な研究の集大成であった。7月26日に米国と英国が発表したポツダム宣言は、日本が降伏すれば、日本が滅亡したり隷属化されたりすることはないと確約しているが、この背後には米国の原爆実験の成功があった。日本が戦争を継続すれば、「迅速かつ完全な壊滅あるのみ」であった。トルーマン大統領は、原子爆弾の使用によって日本の降伏を早め、日本本土を攻撃した場合に比べ死傷者を少なくすることができると予測し、日本が8月3日までに降伏しなければ原爆を投下することを命令した。

米国の軍人、政治家、および科学者から成る委員会が、この新兵器の標的をどこにするかについて検討していた。ヘンリー・L・スティムソン陸軍長官は、数多くの国宝や宗教的に重要な建造物のある古都京都を標的候補から外すよう主張し、この意見が採用された。軍需産業と軍事施設の中心都市のひとつであった広島が、最初の標的に選ばれた。

8月6日、米軍の爆撃機「エノラ・ゲイ」が、広島市に原子爆弾を投下した。8月9日には、2発目の原爆が長崎市に落とされた。原爆は、両都市の広大な地域を壊滅させ、大量の人命を奪った。8月8日にソ連が日本に宣戦布告し、満州の日本軍を攻撃した。8月14日に、日本はポツダム宣言の条件を受け入れた。1945年9月2日、日本は正式に降伏した。米国民は、原爆によって終戦が早まったことに安堵した。核兵器の恐ろしい破壊力の意味するところが十分に認識されるようになるのは後のことである。

カリフォルニア州サンフランシスコに50カ国の代表が集まって国際連合に関する会議が開かれ、1945年10月24日に国際連合が発足した。50カ国の代表が作成した国連憲章は、国際的な意見の相違を平和的に話し合い、協力して飢餓および疾病と戦うための国際組織の概要を述べたものであった。第1次世界大戦後に米国の連邦議会が国際連盟加盟を拒否したのとは対照的に、国連憲章は米議会上院で、89対2で直ちに批准された。この議決は、米国の外交政策における孤立主義の支配の終焉を確認するものであった。

1945年11月、ドイツのニュルンベルク市で、ポツダム宣言に従って、ナチスの指導者22人の刑事裁判が行われた。英国、フランス、ソ連、および米国の著名な法律専門家の一団の前で、ナチスの指導者らは、侵略的な戦争の計画と実行だけでなく、ヨーロッパのユダヤ人に対する組織的な大量虐殺(ホロコースト)による戦時法規違反および人道に対する罪で告発された。裁判は10カ月以上続き、22人の被告が有罪となり、うち12人が死刑を宣告された。日本の戦争指導者らに対しても同様の裁判が行われた。

産業別労働組合の台頭

米国の1920年代は、相対的に繁栄の時代であったが、鉄鋼、自動車、ゴム、繊維などの産業の労働者が受けた恩恵は、第2次世界大戦後に比べると少なかった。これらの産業の労働条件は確かに改善された。1920年代には一部の企業が、「福祉資本主義」を採用し始め、従業員の忠誠を得るために各種の年金、利益配当、ストック・オプション、医療保険などを提供するようになった。しかしながら、工場現場の環境は、依然として厳しく権威主義的であることが多かった。

1920年代には、大量生産産業が、労働組合の成長を阻止する努力を強化した。第1次大戦中に、労働組合は、米国労働総同盟(AFL)の下で成功を収めていた。企業は、組合対策として、スパイや武装したスト破りを雇い、組合シンパの疑いのある従業員を解雇した。独立系の労働組合は、共産主義のレッテルを貼られることが多かった。同時に、多くの企業が独自に従業員による従順な労働組織を作った。これは「企業内組合」と呼ばれた。

従来、州議会は、米国の中流階級の意識を反映して、労働組合がすべての労働者を独占的に代表することを禁止する「オープンショップ」制を支持していた。このため、企業が労働組合に団体交渉権を与えず、裁判所の差し止め命令で労働組合の組織化を阻止することが容易になっていた。

1920年から1929年までの間に、米国の労働組合員数は、およそ500万人から、350万人に減少した。大規模産業の不熟練・半熟練労働者は依然として組織化されていなかった。

大恐慌が始まると失業問題が全国に広がった。1933年までには、1200万人以上の米国民が失業していた。自動車産業では、1929年から1933年までに労働者数が半分に削減された。同時に賃金は3分の1に下落した。

しかし、フランクリン・ルーズベルト大統領の選出によって、米国の産業労働者の地位が永久に変わることになった。ルーズベルトが労働者の福祉に関心があることを示す最初の兆候は、著名な社会福祉運動家のフランシス・パーキンズを労働長官に任命したことであった(パーキンズは、米国で初めて閣僚レベルの地位に就いた女性でもあった)。広範囲に及ぶ全国産業復興法は、工業賃金を引き上げ、1週間の労働時間を制限し、児童就労をなくすことを目的としていた。最も重要な点として、この法律は、従業員が「自ら選んだ代表を通じて組合を組織し団体交渉を行う」権利を認めるものであった。

米国鉱業労働者連盟(UMW)の精力的で雄弁なリーダー、ジョン・L・ルイスは、労働者にとってのニューディールの意味を、他のどの労働組合指導者より深く理解していた。ルイスは、ルーズベルトの支持を前面に押し出して、大規模な組合化運動を実行し、減少しつつあったUMWの組合員数を1年間で15万人から50万人以上に増加させた。

ルイスはAFLの執行委員でもあり、AFLが大量生産産業においてUMWと同様の組合拡張運動を始めることを望んでいた。しかし、歴史的に熟練工に重点を置いてきたAFLには、その意志がなかった。激しい内部対立の後に、ルイスと数人の仲間がAFLを脱退し、産業別組合委員会(のちの産業別組合会議 - CIO)を設立した。1935年の全国労働関係法(NLRA)の可決、そして全国労働関係局の友好的な態度によって、CIOは連邦政府の権力と権限の後ろ盾を得ることになった。

最初に標的となったのは、反労働組合で悪名の高い自動車産業と鉄鋼産業であった。1936年後半に、オハイオ州クリーブランドおよびミシガン州フリントのゼネラル・モーターズ(GM)社の工場で、ウォルター・ルーサーの率いる新生の全米自動車労働組合(UAW)による一連の座り込みストが発生した。間もなく、13万5000人の労働者が参加し、GMの生産は停止に追い込まれた。

スト参加者に同情的なミシガン州知事は、彼らを強制退去させることをせず、1937年初めには和解が成立した。同年9月までには、UAWは、自動車産業の400社と労働協約を結び、労働者に時給75セントの最低賃金と週40時間の労働時間を保証した。

ルイスの副官であったフィリップ・マレーの率いる鉄鋼労働者組織委員会(SWOC)は、創設後6カ月間に12万5000人の組合員を集めた。米国の製鉄会社の最大手であったUSスチール社は、時代が変わったことを認識し、1937年に組合を受け入れた。同年、最高裁判所が、全国労働関係法の合憲性を支持した。その後、従来大手企業にも増して反組合的であった中小企業も組合を受け入れるようになった。そして、ゴム、石油、電子製品、繊維など他の産業も、次々と後に続いた。

大規模な労働組合の台頭は、長期的に2つの大きな影響を及ぼした。ひとつは、それが全国的な民主党の中核をなす支持組織となったこと、もうひとつは、組合員に物質的な恩恵をもたらし、米国の労働階級と中流階級の差をほとんどなくしたことであった。






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