
- 第14章 -
世界秩序
「私には夢がある。それは、いつの日か、ジョージアの赤土の丘の上で、かつての奴隷の息子たちと、かつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟として同じテーブルにつくようになることである。」
過渡期の社会
米国の社会構造の変化は、数年前、というより数十年前にすでに始まっていたが、1980年代が到来するころには、それが明らかな形となって現れた。米国社会における人口構成および最も重要とされる職や技能が大きな変化を遂げたのである。
経済におけるサービス業の優勢が動かしがたいものとなった。1980年代半ばまでには、被雇用者全体のほぼ4分の3が、小売業の店員、事務員、教員、医師、および公務員といったサービス部門で働いていた。
サービス部門の業務は、コンピューターの導入とその使用の増加によって恩恵を得ていた。情報時代が到来し、ハードウェアとソフトウェアによって、それまで予想もできなかった量の経済・社会動向のデータが集められるようになった。連邦政府は1950年代と60年代に、軍事および宇宙関連事業のために、コンピューター技術への巨額の投資を行っていた。
1976年、カリフォルニアの2人の若い起業家が、ガレージでコンピューターを組み立て、これが家庭用コンピューターとして初めて広く商業化されることになった。アップルと名付けられたこの機種は、革命の火付け役となった。1980年代初めまでには、米国内の企業や家庭で何百万台ものマイクロコンピューターが使用されるようになり、1982年には「タイム」誌が、コンピューターを「マシン・オブ・ザ・イヤー」と呼んだ。
これとは対照的に、米国の重工業を中心とする「在来型産業」は衰退しつつあった。米国自動車産業は、効率性の高い日本の自動車メーカーとの競争により、足元が揺らぎ始めた。1980年までには、すでに、米国内で販売される自動車の5分の1は日本製となっていた。米国メーカーは努力を重ね、対費用効果と技術水準の面でライバルである日本メーカーとある程度肩を並べるまでにはなったものの、過去に米国メーカーが国内市場で占めていた圧倒的シェアを再び取り戻すことはできなかった。一方、古参の鉄鋼大手企業は、外国鉄鋼メーカーが新しい技術をより迅速に導入するに従って、相対的に存在価値が縮小した。
消費者はこうした製造業の激しい競争の恩恵を受けたが、費用削減のための企業による苦しい努力は、何十万もの工場労働者の職が永久に失われることを意味した。サービス業に転職できた者もいたが、失業率の残念な数値に組み込まれた者も多かった。
人口形態も変化を示した。戦後の「ベビー・ブーム」(1946年から1964年)が終わり、全体的な人口増加率は下降し、人口の高齢化が進行した。世帯構造にも変化が見られた。1980年には、家族世帯の割合が減少し、全体の4分の1が、2人以上の親族でない者が共同で暮らす「非家族世帯」となった。
さらに、新しい移民が米国社会の性格を別の角度から変えた。1965年の移民政策改革によって、移民の重点が西欧から移行し、アジアならびに中南米からの新たな移民の爆発的な増加を促した。1980年には、新たな移民の数が60年ぶりの高水準となり、80万8000人に達した。米国は、再び世界中の人々にとって避難場所となった。
移民に加えて、別のグループも機会の均等を得ようと積極的に活動した。同性愛者は、公民権運動と同じ戦術と論法を用いて、自らを、基本的人権を求める抑圧されたグループという立場に置いた。1975年、米国公務員人事委員会は、同性愛者の雇用を解禁し、多くの州が差別を撤廃する法律を制定した。
1981年に、エイズ(後天性免疫不全症候群)が発見された。性行為あるいは輸血によって感染するこの病気は、同性愛者の男性および静注薬物使用者に特に猛威を振るったが、一般にも感染の可能性があることが証明された。1992年までには、22万人を超える米国人がエイズで死亡した。エイズの流行は米国内にとどまらず、この病気に対処するために、今や世界中の医師や医学研究者が努力を重ねている。
保守主義とロナルド・レーガンの出現
多くの都市中心部における犯罪と人種の分極化、伝統的価値観に対する挑戦、カーター政権下の景気の下降およびインフレといった、過去20年間の経済、社会、政治の動向は、多くの米国民に幻滅を抱かせた。それと同時に、政府、そして国家の社会的・政治的問題に効果的に対処する政府の能力に対する不信感が再び強まっていった。
このような新しい風潮の中で、全国レベルでは長く政治的権力から遠ざかっていた保守派が、政治的に有利な位置に立った。多くの米国民が、保守主義者の掲げる、小さな政府、強力な国防力、そして伝統的価値観の保護といったメッセージを受け入れた。
こうした保守主義の台頭の背景には、多くの要因があった。キリスト教原理主義者は、特に犯罪と性的不道徳に懸念を抱いていた。彼らは、宗教と、しばしばそれに伴う道徳的教訓を、米国民の生活の中心に取り戻すことを望んでいた。1980年代初頭に、政治的に最も影響力のあった団体のひとつである「道徳的多数派(モラル・マジョリティ)」は、バプテスト派の牧師ジェリー・フォルウェルが中心となっていた。また、パット・ロバートソン師が主導した別の団体は、「キリスト教連合」という組織を設立し、1990年代までには共和党の一大勢力となった。フォルウェルやロバートソンのような人々は、テレビを利用して自らの主張を広め、多くの支持者を獲得していった。
保守主義を活気付けたもうひとつの問題は、世論を二分し、また感情的になりやすい人工妊娠中絶の問題である。妊娠初期の中絶という女性の権利を支持した、1973年のロー対ウェード事件における連邦最高裁判決への反対活動には、広範囲の団体や個人が賛同した。こうした賛同者の中には、カトリック教徒、政治的保守主義者、および宗教的福音主義者をはじめとするグループが含まれ、その大半は、事実上いかなる状況においても、中絶は殺人に等しいと見なしていた。プロ・チョイスおよびプロ・ライフ(すなわち中絶の権利に対する賛成派と反対派)の意思表示が、政治の世界に定着した。
共和党内では、保守派が再び優勢となってきた。保守派は、1964年に、バリー・ゴールドウォーターを大統領候補として、一時的に共和党を掌握したが、その後は主流から外れていた。しかしながら1980年までに、カーター政権の下での自由主義の失敗が明らかになると、「新右派」が再び優勢となる態勢が整っていた。
新右派は、自分たちの主張を広めたり資金を集める手段として、マスコミの力と共に現代的なダイレクト・メールの手法を使い、また、経済学者のミルトン・フリードマン、ジャーナリストのウィリアム・F・バックリーおよびジョージ・ウィルといった保守主義者、そしてヘリテージ財団等の研究機関の思想を利用しながら、1980年代のさまざまな問題を語る上で重要な役割を果たした。
ゴールドウォーターが率いた「旧」右派は、政府による経済への介入を厳しく制限することをうたっていた。この傾向は、総じて政府に対して不信感を抱き、個人の行動への国家の介入に反対する「新右派」の主力グループ「自由主義的保守派」によってさらに強まることとなった。しかしながら、新右派には、より強力な、そしてしばしば自らの考え方を推進するために国家権力を行使することも辞さない熱心な一派も含まれていた。新右派は、犯罪に対する厳しい措置、強力な国防力、公立学校での祈りの時間を認めるための憲法改正、および中絶反対を支持していた。
こうした本質的に異なるいくつかの糸をすべて束ねたのが、ロナルド・レーガンであった。イリノイ州出身のレーガンは、政界に入る前は、ハリウッド映画ならびにテレビの俳優としてスターの地位を得ていた。彼が最初に政治活動においてその名を高めたのは、1964年にバリー・ゴールドウォーターを支援するためにテレビの全米中継で行った演説であった。1966年、レーガンはカリフォルニア州知事に当選し、1975年までその職を務めた。彼は、1976年の共和党大統領指名を僅差で逃したが、1980年には指名を勝ち取り、現職大統領ジミー・カーターを破り、大統領となった。
レーガン大統領の揺らぐことのない楽観主義と、米国民の業績や向上心をたたえる能力は、彼が大統領を務めた2期を通じて貫かれた。彼は多くの米国民にとって、新たな自信と安定の象徴となった。マイクとテレビ・カメラを前にしても全く動じない、くつろいだ態度によって、レーガンは「偉大なコミュニケーター」と呼ばれた。
彼は、17世紀の清教徒の指導者、ジョン・ウィンスロップの言葉を借り、米国は、共産主義者による全体主義の拡大から世界を守るという神に与えられた使命を持つ「丘の上に輝く町」である、と国民に語った。
レーガンは、政府が国民生活に深く入り込みすぎていると考えていた。彼は、国家が必要としていないと彼自身が主張するプログラムの削減、そして「浪費、不正、および乱用の排除」を求めた。また、レーガンはジミー・カーターが始めた規制緩和プログラムをさらに加速させた。彼は、消費者、職場、および環境に影響を与える多くの規制の廃止に努めた。こうした規制は、効果がなく、支出がかさみ、経済成長に支障をもたらす、と彼は主張した。
さらにレーガンは、法はその違反者に対して厳しく適用されるべきであるという、多くの保守主義者の信念を、その政策に反映させた。大統領就任直後、彼は米国の航空管制官の全国ストライキに直面した。このような職場闘争は法で禁じられていたが、こうしたストライキはそれまでも広く容認されていた。しかしながら航空管制官がストライキを中止して職場に戻ることを拒否したとき、レーガンは全員解雇を命じたのである。その後数年間をかけて、新たな雇用により、航空管制システムが再構築された。
1980年代の経済
レーガン大統領の国内政策は、民間経済部門の力が解き放たれれば国家は繁栄するとの信念に根ざしたものであった。その信念の指針となる理論は「供給重視」の経済学で、企業投資増加策によって実現する商品およびサービスの供給増が、経済成長への最短距離であるとするものであった。そして、レーガン政権は、大型減税が設備投資と企業収益の増加をもたらし、税率を下げても、課税対象となる所得が増加しているために政府の税収も増えると主張した。
上院における共和党の過半数は僅差によるものであり、一方、下院は民主党が支配していたにもかかわらず、レーガン大統領は、就任第1年目に、3年間で段階的に行われる個人に対する25%の減税をはじめとする経済政策の主だった施策を実行に移した。また、レーガン政権は、米軍の近代化と、ソ連からの継続的な脅威の増大と考えられる事態への対抗を目的とした国防費の大幅増加を求め、これを実現した。
1970年代末に始まった悪性インフレは、連邦準備制度理事会がポール・ボルカー議長の下で行った過酷なまでの利上げによって押さえ込まれた。標準金利が20%に近付き、経済が下降し、景気停滞は1982年に底を打った。同年、実質国内総生産(GDP)が2%減少、失業率は10%近くにまで上昇し、米国の工場のほぼ3分の1が休業状態となった。中西部全域で、ゼネラル・エレクトリックやインターナショナル・ハーベスターといった主要企業が従業員を解雇した。執拗に続く石油の高値がこの景気下降の一因となっていた。ドイツや日本といった経済のライバルが世界貿易においてシェアを拡大し、米国における外国製品の消費が急増した。
農業も厳しい状況にあった。1970年代、米国の農業従事者は、穀物不足に陥ったインド、中国、ソ連、および他の国々を援助し、土地購入ならびに生産増加のために多額の借入を行った。ところが、石油価格の上昇により、コストが増加し、1980年の世界的経済不況によって、農業製品の需要が減少した。生産がますます大規模経営に集中するに従い、農家の戸数は減少した。生き残った小規模農家は、採算を取ることが極めて困難になった。
軍事予算の増加と減税、および政府の医療関連支出の増加とが相まって、連邦政府の年間歳出は、歳入を大幅に上回る結果となった。一部のアナリストは、こうした赤字は、民主党が求めているさらなる国内支出増を避けるための、政権による計算された戦略であると非難した。しかしながら、議会では、民主党と共和党は共にそうした歳出の削減を拒絶した。赤字額は、1980年の740億ドルから、1986年には2210億ドルにまで急増し、1987年に1500億ドルまで戻った。
1980年代初頭の根深い景気停滞は、カーター政権時代に始まった悪性インフレに歯止めをかけることになった。さらに、燃料価格も大幅に下落した。この価格低下に関しては、少なくともその部分的な要因となっていたのは、ガソリン価格および割当統制を廃止するとしたレーガンの決断だった。1983年末には状況は改善に向かった。1984年の初めまでに景気は好転し、同年秋までには景気回復が軌道に乗り、レーガンは、「米国に再び朝が訪れた」とのスローガンと共に、再選に向けて出馬できる状況となった。そして、民主党候補である元上院議員で副大統領も務めたウォルター・モンデールを大差で破った。
米国は、第2次大戦以降で最長レベルの持続的経済成長期のひとつに突入した。連邦税の減税により、個人消費は増加した。株式市場は、楽観的な買いの殺到を受けて上昇した。景気回復が始まってからの5年間で、国民総生産は年率4.2%の伸びを示した。年間インフレ率は、1986年に数十年間で最低水準の2%をわずかに下回ったのを除き、1983 年から1987年にかけて、3%から5%の間で推移した。米国のGNPは、1980年代、大幅に増加し、その経済活動によって、1982年から1987年の間で1300万件を超える新規雇用が創出された。
レーガンは、減税の公約を忠実に守り、2期目に入ると、過去75年間で最も大規模な税制改革法案に署名した。この法案は、共和党のみならず民主党からも広範囲の支持を受け、所得税率の軽減、および税率等級の単純化を実現し、税の抜け穴をふさいだ。
しかしながら、この成長のかなりの部分は、赤字財政支出を基盤としたものであった。加えて、力強い経済成長によっても到底安定することのなかった国債発行がほぼ3倍となった。成長の大半は、熟練サービスおよび技術部門で達成されたものであり、これに対し、多数の貧困層と中流家庭の家計は楽ではなかった。政府は、自由貿易を擁護しながらも、日本に対しては、米国向け自動車輸出の任意割当制限に同意するよう圧力をかけた。
1987年10月19日の「ブラック・マンデー」は、経済に衝撃を与えた。この日、株式市場は、1日の下げとしては史上最高の22.6%を記録した。この暴落の原因としては、米国の国際貿易ならびに連邦予算における大幅な赤字、高レベルの企業債務と個人負債、そして株式ならびに先物を一瞬のうちに売却できる新しいコンピューター技術の導入などが挙げられる。この大暴落は、1929年の大恐慌の記憶をよみがえらせたが、実際には、ほとんど影響を残さない一過性の出来事に終わった。事実、経済成長はこの後も持続し、1988年6月には、失業率が過去14年間で最低の5.2%にまで低下したのである。
外交
外交面では、レーガンは、国家としてより積極的な役割を追求した。その初期の試金石となったのは、中米であった。エルサルバドルにおいて、武装勢力による反乱で政府が転覆の脅威にさらされた際に、米国は、同国に対する経済援助と軍事訓練のプログラムを提供した。さらに、選挙による民主主義政府への移行を積極的に後押ししたが、右派の暗殺者集団の活動を阻止する努力は部分的に成功を収めたのみであった。米国の支援は、エルサルバドル政府の安定化を助けたものの、同国における武力衝突の発生率は相変わらず減少しなかった。平和合意は、1992年初めになってようやく実現したのである。
ニカラグアに対する米国の政策はさらに議論を呼んだ。1979年、自らを「サンディニスタ」と名乗る革命軍が、弾圧的なソモザ右翼政権を倒し、親キューバ、親ソ連独裁政権を樹立した。地域的な平和工作は失敗に終わり、政権による活動の焦点は、コントラと呼ばれる反サンディニスタ抵抗勢力に対する支援へと移っていった。
この政策をめぐり、激しい政治議論が交わされ、議会は1984年10月、コントラに対するすべての軍事援助に終止符を打ったものの、その後、レーガン政権に迫られ、1986年秋、その決定を翻し、1億ドルの軍事援助を承認した。しかしながら、思わしくない戦果、人権侵害に対する非難、そしてイランに対する秘密の武器売却で獲得した資金のコントラへの流用の発覚(下記参照)によって、この援助の継続に対する議会の支持は弱まった。
その後、1989年にレーガンの後継者として大統領に就任したジョージ・H・W・ブッシュの政権は、コントラに対する軍事支援の保証を目的としたいかなる行動も放棄した。さらに、ブッシュ政権は、自由選挙の実施に向けて圧力をかけるとともに、野党政治連合への支援を行い、1990年2月、この野党連合が逆転選挙で目覚ましい勝利を収め、サンディニスタを政権の座から追放した。
レーガン政権は幸運にも、グアテマラからアルゼンチンに至る他の中南米諸国の民主主義の回復に立ち会うことになった。民主的選挙による政府の出現は、中南米にとどまらなかった。アジアにおいては、コラソン・アキノによる「ピープル・パワー(人民の力)」キャンペーンが、フェルディナンド・マルコスの独裁政権を倒し、また韓国では、選挙によって、数十年にわたった軍事政権が終焉した。
これらとは対照的に、南アフリカに対しては、米国は、議論の的となる「建設的関与」政策、すなわち改革に対する一般からの支持を取り入れた静かなる外交を通じて人種隔離政策(アパルトヘイト)を終わらせるべく働きかけを行っていたが、同国は相変わらず非妥協的姿勢を保っていた。1986年、進展不足に業を煮やした米国議会は、レーガンの拒否権を覆して、南アフリカに対し一連の経済制裁を課した。1990年2月、南アフリカのF・W・デ・クラーク大統領は、ネルソン・マンデラの釈放を発表し、徐々にアパルトヘイトの撤廃が始まった。
レーガン政権は、率直な反共産主義発言を表立って行ってはいたものの、武力の直接行使は抑制していた。1983年10月25日、カリブ海の島国であるグレナダの近隣諸国による緊急要請を受け、米軍は同国に上陸した。この軍事行動は、グレナダの左派首相が、自身のマルクス主義派政党のメンバーによって暗殺されたあとに実施されたものである。短期間の戦闘の後、米軍は数百人に上るキューバ人の軍関係者と建設要員を捕らえ、隠されていたソ連製の武器を押収した。1983年12月、最後の米軍戦闘部隊がグレナダから撤退し、同国はその1年後に民主選挙を実施した。
一方、中東情勢はこれよりはるかに困難な状況を呈していた。レバノンでは、米国が、弱体ながら欧米寄りの政府の支援に努めていたが、同国における軍の駐留は、1983年10月の爆弾テロで241人の米海兵隊員が殺害されたことで、悲劇的結末を迎えた。1986年4月、米国海軍ならびに空軍の爆撃機が、ヨーロッパにおける米軍関係者へのリビアに支援されたテロ攻撃の報復として、リビアのトリポリとベンガジの標的を攻撃した。
ペルシャ湾では、先に決裂した米・イラン関係とイラン・イラク戦争が、同地域における米海軍の軍事行動のきっかけをつくった。発端は、クウェートに同国タンカー船隊の防御を要請され、それに応えたものだったが、最終的に、米国は、西ヨーロッパから海軍艦艇を召集し、ペルシャ湾を航行するタンカーや中立船の護衛艦隊として、重要な大洋航路を確保した。
1986年後半、米国民は、米政権が、イランの非友好的イスラム政府との外交関係の再開と、イランの影響を受けた急進的組織によってレバノンに捕らえられている米国人人質の解放を実現させるために、秘密裏にイランに対して武器を売却していたことを知らされた。さらに調査によって、武器売却で獲得した資金が、議会が軍事支援を禁止していた期間中に、ニカラグアのコントラに対する支援のために流用されていたことも明らかになった。
その後開催された、上下院合同委員会におけるイラン・コントラ問題公聴会では、中東と中米における米国の外交利益を明確にするという、より広範な問題に加え、違法性の可能性についても審議が行われた。より大局的には、この公聴会は、外交における政府の機密性と、大統領権限対議会権限に関する憲法論議となった。しかしながら、14年前に行われた、有名な上院のウォーターゲート問題公聴会と異なり、この公聴会では、大統領弾劾の根拠は見出されず、また、こうした繰り返し起こる問題について明確な結論に達することもなかった。
米ソ関係
対ソ連関係では、レーガン大統領は、「力による平和」戦略に連なる政策を宣言していた。レーガンは、自らが1983年に「悪の帝国」と名付けた国に対し、断固たる態度を貫こうとした。政権初期に起こった2つの出来事が、米ソ間の緊張を高めていた。1981年12月のポーランドにおける労働組合「連帯」の活動に対する弾圧と、1983年9月1日に269人の死者を出した、航路を逸脱した民間航空機、大韓航空007便のソ連爆撃機による撃墜である。さらに米国は、ソ連のアフガニスタン占領の継続を非難するとともに、カーター政権時代から行われていた同国のムジャヒディーンによる抵抗運動への支援を続けた。
レーガン大統領の1期目に、米国は、前例のない資金を、大規模な防衛力増強に費やした。中距離核ミサイルを、ソ連の同様のミサイル配備に対抗してヨーロッパに配備したことがその一例として挙げられる。そして、1983年3月23日、レーガン大統領は、その任期中で最も激しい議論の的となった政策決定のひとつとされる、戦略防衛構想(SDI)研究計画を発表した。同計画は、大陸間弾道ミサイルを迎撃するレーザーおよび高エネルギー兵器などの先進技術を研究することを目的としていた。多くの科学者がSDIの技術的実現可能性について疑問を呈し、また経済学者は、必要とされる莫大な資金について指摘したが、政権はこのプロジェクトを敢行した。
1984年の再選後、レーガンは軍縮に対する態度を軟化させた。ソ連政府は合意に対して前向きであった。これは、同国の軍事支出が国民産出量に占める割合が、米国と比べてはるかに大きかったことが一因となっている。ソ連の指導者ミハイル・ゴルバチョフは、軍事費のこれ以上の増大が、ソ連経済の自由化という自身の計画の妨げになると考えたのである。
1985年11月、レーガンとゴルバチョフは、戦略攻撃核兵器の50%削減努力を大筋で合意するとともに、中距離核戦力に関しても仮条約を締結した。1987年12月、両者はすべての中距離核兵器の廃棄を定めた中距離核戦力(INF)全廃条約に調印した。この頃には、敵対国としてのソ連の脅威は以前より弱まっていた。レーガンは、冷戦の懸念が大幅に低下したことについて、その大部分を自らの功績としていたが、レーガン政権の末期にソビエト連邦がいかに不安定な状況にあったかを認識していた者はほとんどいなかった。
ジョージ・H・W・ブッシュ大統領
レーガン大統領は、2期目の末期にしては珍しく高い人気を維持していたが、合衆国憲法の規定によって、1988年の大統領選に出馬することは認められなかった。共和党は、後任に副大統領のジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュを指名し、彼が第41代米国大統領に選出された。
ブッシュは選挙公約として、有権者に、レーガンがもたらした繁栄の継続を約束した。加えて、民主党候補者であるマイケル・デュカキスよりも確実に米国の強い防衛力を維持すると訴えた。さらにブッシュは、「より親切で優しい米国」を目指すことを約束した。これに対し、マサチューセッツ州知事であったデュカキスは、生活に恵まれない国民ほど経済的に痛手を受けており、政府は、連邦政府の負債と軍事支出を抑制すると同時に、こうした層への支援を進めるべきであると訴えた。しかしながら、一般国民は、「新たな税金は課さない」というブッシュの経済メッセージに対し、はるかに高い関心を寄せた。結局ブッシュは、一般投票で54%対46%で勝利を得た。
就任後の1年間、ブッシュは、レーガン政権の経済計画を踏襲した税、歳出、および負債政策を追求し、保守的財政プログラムを実施した。しかしながら、新大統領は、間もなく、多額の財政赤字と赤字削減法によって困難に直面する。歳出削減は必須と考えられ、ブッシュは、新たな予算項目を設けることがほとんどできなかった。
そこで、ブッシュ政権は、大規模な連邦支出を新たに必要としない分野で、新しい政策を推進していった。1990年11月、ブッシュは都市部のスモッグ、自動車の排ガス、有害な大気汚染、および酸性雨について新たな連邦基準を設ける広範囲な法律に署名したが、これにかかる支出の大半は、汚染源である企業が負担することになった。また、身体障害者に対応する環境作りを求める法案も承認されたが、これについても、車いすなどへの対応のために建物を改造する費用の連邦負担はなかった。さらに、大統領は、ボランティア活動を促進する新たなプログラムを立ち上げ、このプログラムを「1000の点在する光」という印象的な言葉で表現した。
予算と赤字
しかしながら、こうした状況の中で、連邦予算赤字を抑制しようというブッシュ政権の試みは、多くの問題を抱えていた。困難さをもたらした要因のひとつは、貯蓄と貸付の危機であった。貯蓄銀行は、かつては厳しく規制されており、一般預金者にとっては低金利ながら安全な避難所であったが、その規制が緩和され、その結果、これらの金融機関は、高金利を支払う代わりに、リスクの大きい貸付を行って、積極的に競争ができるようになった。保証された預金保険の増加によって、消費者にとっては、信頼性の低い金融機関を避けようとする理由が薄らいだ。不正、不適切な管理、および不安定な経済によって、こうした貯蓄金融機関(貯蓄・貸付協会および貯蓄銀行といった機関を指す包括的用語)の間で、破たんが広がっていった。1993年までに、破たん貯蓄金融機関の売却および閉鎖に関連した支出の総額は、ほぼ5250億ドルという膨大な額になった。
1990年1月、ブッシュ大統領は、議会に予算案を提出した。民主党はこの内容について、予算予測があまりに楽観的であり、また、赤字削減法の目標を達成するためには、増税と防衛費の大幅削減が必要であると主張した。同年6月、長期に及ぶ議論の末、大統領は増税の実施を認めた。しかしながら、同時期に発生した景気後退、貯蓄・貸付業界救済事業による損失、およびメディケアならびにメディケイドによる医療費の高騰により、こうした赤字削減措置の成果はすべて相殺され、1991年には少なくとも前年とほぼ同額の歳入不足をもたらした。
冷戦の終結
ブッシュが大統領に就任したとき、ソビエト帝国は崩壊目前であった。ソビエト連邦の経済を開放しようとするゴルバチョフの試みは、困難に直面していた。1989年、ロシア軍の支援部隊が派遣されないことが明らかになると、東ヨーロッパの共産党政府は次々と簡単に崩壊していった。1991年半ば、強硬派がクーデターを試みたが、ゴルバチョフのライバルであったロシア共和国大統領ボリス・エリツィンによって阻止された。その年の末、優勢となったエリツィンによってソビエト連邦は解体された。
ブッシュ政権は、ゴルバチョフおよびエリツィンと緊密に協力しながら、巧みに冷戦終結への手はずを整えた。東西ドイツの統合(1990年9月)に至る交渉、ヨーロッパにおける軍備の大幅削減(1990年11月)、および核兵器の大幅削減(1991年7月)に関する条約を主導したのである。ソ連崩壊の後、米国と新たに生まれたロシア連邦は、すべての複数弾頭ミサイルを10年間で段階的に廃棄することに同意した。
こうして、米ソ両国政府間の核紛争の脅威に代わり、今度は核物質廃棄および絶えず存在していた核拡散への懸念が表面化した。
湾岸戦争
冷戦の終結によってもたらされた高揚感は、1990年8月2日に起きたイラクによる小国クウェートへの侵攻によって一気に冷めることになった。サダム・フセインが支配するイラクと、イスラム原理主義が政権を握るイランは、石油で潤うペルシャ湾地域の2大軍事大国として台頭していた。この2つの国は、1980年代には、長期にわたり決着のつかない戦いをしていた。イラクはイランほど米国に対する敵対的ではなく、レーガンおよびブッシュ両政権からある程度の支援を得ていた。しかし、クウェートの占領が、サウジアラビアにとって脅威となり、米・イラク間の外交的計算を一夜にして変えた。
ブッシュ大統領はイラクの行動を強く非難し、イラクの無条件撤退を要求するとともに、中東に米軍部隊の大規模配備を行った。彼は、中東に加え、アジア、ヨーロッパ、およびアフリカからの軍事協力を得て、近年では有数の軍事・政治連合を築いた。
イラクによる侵攻以降、国連安全保障理事会は、これを非難し、イラクに対し広範な経済制裁を課す12の決議案を可決した。11月29日、同理事会は、イラクが1991年1月15日までにクウェートから撤退しない場合は、軍事力を行使することを承認した。ゴルバチョフのソ連は、かつてはイラクにとって主要な武器供給源であったが、このときは、かつての顧客をかばうことは一切しなかった。
ブッシュはまた、憲法上の大きな問題にも直面した。合衆国憲法は、宣戦布告の権限を立法府に与えている。しかしながら、20世紀後半、米国は、正式の宣戦布告を行わないまま、不透明な法的承認のみで、朝鮮とベトナムにかかわるようになっていた。国連が定めた期限の3日前となる1991年1月12日、議会は、ブッシュの要求に従い、大統領に与えられる権限としてはほぼ50年間で最も明白かつ全面的な軍事力行使の権限をブッシュ大統領に認めた。
米国は、英国、フランス、イタリア、サウジアラビア、クウェートおよび他の国々との連合で、1カ月強に及ぶ米国主導の圧倒的な空爆作戦を実施し、クウェート解放に成功した。そしてその後、機甲および空挺歩兵部隊によるクウェートとイラクへの大規模な侵攻が行われた。連合軍は、抜群のスピード、機動力、および射撃能力をもって、イラク軍を地上戦で制圧し、わずか100時間で戦いの決着がついた。
しかしながら、その勝利は不完全であり不満足なものであった。ブッシュが忠実に行使した国連決議案は、イラクのクウェートからの退去しか求めていなかった。サダム・フセインは引き続き権力を握り、米国が反政府活動を後押ししてきた北部のクルド人および南部のシーア派に対して激しい抑圧を続けていた。イラク人がクウェートで故意に発生させた数百に上る油井火災は、その鎮火に1991年11月までの期間を要した。また、フセイン政権は、それまでの予想より高度な核施設ならびに大量の化学兵器備蓄をはじめとするイラクの大量破壊兵器を発見し破棄するための作業を行う、安保理決議案に基づく国連査察官に対して、明らかな妨害活動を行った。
湾岸戦争は、米国が、アラブ諸国、イスラエル、およびパレスチナの代表団に対し、直接交渉の席に着くよう説得することを可能にした。この直接交渉は、複雑かつ相互に関連した諸問題を解決することを目的としたもので、最終的にこの地域の恒久的平和をもたらし得るものであった。話し合いは、1991年10月30日に、スペインのマドリードで幕を開けた。これに次いで、ノルウェーに秘密交渉の舞台が設定され、この交渉によって、イスラエルとパレスチナ解放機構との間で、当時としては歴史的とされた合意が、1993年9月13日、ホワイトハウスで調印されるに至った。
パナマとNAFTA
ブッシュ大統領はさらに、1989年12月20日の米軍による短期的なパナマ侵攻に対し、議会超党派による広範な支持を得て、独裁者マヌエル・アントニオ・ノリエガ将軍を退陣させた。1980年代、クラック・コカイン中毒がはびこり、ブッシュ大統領は「麻薬との戦い」を国内政策の中心に据えた。一方ノリエガは、特別に残忍な独裁者であり、反米主義を露骨な方法で示し、権力の座に居座ろうとしていた。彼はバチカン大使館に保護を求め、その後自ら米国当局に投降した。彼は後に、フロリダ州マイアミにある米国連邦裁判所で裁判にかけられ、麻薬取引および組織犯罪の罪で有罪判決を受けた。
経済面では、ブッシュ政権はメキシコおよびカナダとの北米自由貿易協定(NAFTA)交渉を行った。この協定は、クリントン政権の1年目に激しい討論の末、批准された。
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第3政党および無所属候補 米国は、2大政党政治が行われていると考えられている場合が多い。実質的に、めうした考えは間違いではない。すなわち、1852年以降、毎年、民主党か共和党のいずれかがホワイトハウスで政権を握ってきた。しかしながら、同時に、この国には、過去に多くの第3政党および少数党が誕生している。例えば、1992年の大統領選では、少なくとも1州で、候補者名簿に58の政党からの候補者が名を連ねていた。その中には、アパシー(政治的無関心)党、ルッキング・バック(過去を振り返る)党、ニュー・メキシコ禁酒党、ティッシュ独立市民党、およびバーモント納税者党といった無名の政党も多かった。 第3政党はひとつの問題、あるいは一連の問題を取り上げて組織される。こうした政党は、カリスマ性のあるリーダーを擁している場合に最も成功を収める傾向がある。大統領には到底手が届かなくとも、多くはその政治的・社会的関心事を広く一般に伝える舞台を求めている。 セオドア・ルーズベルト。20世紀で最も成功を収めた第3政党候補者は、大統領を務めた共和党のセオドア・ルーズベルトである。彼の進歩党(通称ブルムース党)は、1912年の選挙で全投票の27.4%を獲得した。共和党の革新派は、ルーズベルトが自ら後継者として指名したウィリアム・ハワード・タフト大統領への幻滅を募らせ、ルーズベルトに対し、1912年の選挙における党指名を受けるよう促した。これに応えてルーズベルトは、多くの予備選挙でタフトを破った。しかしながら、タフトは党機関を支配し、党指名を確実なものにした。 こうした状況において、ルーズベルトの支援者らは党を離脱して、進歩党を結成した。ルーズベルトは自らが雄のムース(ブルムース)のように頑健であるとして、大企業への規制、婦人参政権、累進所得税、パナマ運河、および自然保護を争点に選挙運動を行った。こうした運動は、タフトを破るには十分であったが、共和党の票を分けたことにより、結果的に民主党のウッドロー・ウィルソンの当選を助けることになった。 社会主義者。社会党も同様に、1912年の選挙で一般投票の6%を獲得し、最盛期を迎えた。長年候補者として出馬してきたユージーン・デブスは、その年、輸送・情報産業の共同所有、労働時間の短縮、および雇用促進のための公共事業を支持して、90万票近くを獲得した。第1次世界大戦中に、扇動の罪で有罪判決を受けたデブスは、1920年の選挙では、刑務所内から選挙運動を行った。 ロバート・ラフォレット。もう一人の進歩党員、ロバート・ラフォレット上院議員は、1924年の選挙で一般投票の16%以上を獲得した。ラフォレットは、長年にわたり、農民と産業労働者の擁護者、そして大企業に対する激しい敵対者として、第1次世界大戦後の進歩党による活動の再形成に主要な推進役を果たしていた。社会党員およびルーズベルトのブルムース党の残党による支持に加え、農民ならびに労働組合の後ろ盾を得て、ラフォレットは、鉄道と国内天然資源の国有化を政治要綱として出馬した。また、富裕層に対する増税と団体交渉権を強く支持した。結局、勝利したのは、地元ウィスコンシン州のみだった。 ヘンリー・ウォレス。進歩党は1948年に再結成され、元農務長官で、フランクリン・ルーズベルトの下で副大統領を務めたヘンリー・ウォレスを大統領候補にした。ウォレスが1948年選挙で要綱としたのは、冷戦、マーシャル・プラン、および大企業への反対であった。また、アフリカ系米国人と婦人に対する差別の廃止、最低賃金の支持、および非米活動下院委員会の廃止を訴えた。彼は、自らを支持した米国共産党との関与を否定することができず、そのため人気が下降し、結局、一般投票で2.4%強を獲得して終わった。 ディキシークラット(南部民主党離反派)。進歩党同様、サウスカロライナ州知事のストロム・サーモンド率いる州権党(ディキシークラット党)は、1948年に、民主党から分離して結成された。対立の発端は、トルーマンの公民権政策であった。「州権」という言葉が使われているが、同党の目的は、人種隔離政策と、それを支える黒人差別法の継続であった。 ジョージ・ウォレス。1960年代の人種的・社会的激変によって、同じく南部の人種隔離主義の州知事であったジョージ・ウォレスが、全米レベルの注目を集めることになった。ウォレスは、公民権、進歩主義者、および連邦政府を派手に攻撃することによって、支持者を集めた。1968年、彼はアメリカ独立党を設立し、アラバマ州モンゴメリーの州議会議事堂から選挙運動を行い、大統領選で全投票の13.5%を獲得した。 H・ロス・ペロー。すべての第3政党は、主要政党と連邦政府に対する国民の不満を利用しようと考える。しかし現代史において、1992年の選挙ほど、こうした国民の心情が強く現れた例はあまり見られない。テキサス州の実業家で大富豪のペローは、経済的常識と財政責任に関するメッセージを、さまざまな層の国民に浸透させる才覚を備えていた。国の指導者を激しい風刺で批判し、経済のメッセージを誰にでも分かりやすい公式にかみ砕いて説明することによって、ペローはメディアの注目を難なく獲得した。彼の選挙運動組織である「United We Stand(団結すれば立ち上がれる)」は、その主要スタッフをボランティアが占め、ペロー自身の資金によって活動した。多くの人々が、ペローの富をうらやみ不快に思うどころか、その事業の成功や、そのため特別利益団体に選挙資金を求めることがないという事実を称賛した。ペローは7月になって、選挙戦から撤退した。大統領選の1カ月前になって、再出馬したペローは、改革党の党首として、全投票の19%近くを占める1900万票以上を獲得した。これは、第3政党の候補者がこれまでに記録した中でも群を抜く得票数であり、また、全投票に占める割合としては、1912年にセオドア・ルーズベルトが達成した記録に次ぐものであった。 |


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