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- 第15章 -

21世紀への架け橋
米国の歴史の概要
第1章 初期の米国
第2章 植民地時代
第3章 独立への道
第4章 中央政府の形成
第5章 西への拡大と各地域の特徴
第6章 地域間の対立
第7章 南北戦争と再建期
第8章 成長と変容
第9章 不満と改革
第10章 戦争、繁栄、そして恐慌
第11章 ニューディールと第2次世界大戦
第12章 戦後の米国
第13章 変動の時代:1960~1980年
第14章 新しい保守主義と新たな世界秩序
第15章 21世紀への架け橋
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「世界平和のための最大の希望は、全世界に自由を拡大することである。」

U.S. History
ニューヨークとワシントンDCを襲った2001年9月11日のテロ攻撃の後で、世界貿易センター・ツインタワーの残がいの中で救助・捜索活動に当たる消防士たち。 (AP/WWP)

90年代は、ほとんどの米国人にとって、平和と繁栄、そして急激な技術変化の時期であった。これを「レーガン革命」と冷戦終結の結果と見る者もいれば、民主党政権の復帰によると見る者もいた。この時期、政治的所属とは別に、大多数の米国人は、信仰に根差ざした伝統的な家族観への支持を強く主張した。ニューヨーク・タイムズ紙のコラムニスト、デービッド・ブルックスは、「60年代後半から70年代にかけて急増し、80年代にピークに達した社会的崩壊を示す多くの指標」が衰えを見せ、国全体が「道徳的自己修正」を経験している、と述べた。

犯罪をはじめとする社会統計上の改善はあったが、米国の政治は依然としてイデオロギー的、感情的であり、また激しい対立を特徴としていた。さらに、新たな千年紀を迎えて間もなく、米国の冷戦後の安心感が、前代未聞のテロ攻撃によって揺るがされ、米国は、国際的に、新しく困難な道を進まなければならなくなった。

1992年の大統領選挙

1992年の大統領選挙が近づくころ、国民はその4年前には想像もつかなかった状況に世界が変化していることを感じていた。ベルリンの壁、大陸間ミサイル、また爆撃機による絶え間ない厳戒態勢など、聞き慣れた冷戦時代の象徴が消滅した。東欧諸国の独立、旧ソビエト連邦共和国の解体、東西ドイツの統一、アラブ・イスラエルの直接交渉、そして核戦争の危機の著しい減少が実現していた。それはあたかも歴史の第1巻が終わり、新たな巻が始まったかのようであった。

しかし米国内では、国民はそれほど楽観的ではなく、深刻で身近な問題に直面していた。米国は1980年代初頭以来最悪の経済不況に見舞われていた。それ以前は、製造部門の労働者層に多かった失業が、中間管理職のホワイトカラー層にも及んだ。1992年に経済回復が始まったものの、同年後半までは、その成長は実質的にはごくわずかなものであった。その上、連邦財政赤字は、特に医療関連の支出増により、増大し続けた。

ジョージ・ブッシュ大統領とダン・クエール副大統領は、共和党による再指名を容易に獲得した。一方、民主党では、アーカンソー州知事のビル・クリントンが、多数の候補者を抑えて、党の指名を勝ち取り、副大統領候補として、議会でも屈指の環境保護運動支持者として知られるテネシー州選出のアル・ゴア上院議員を選んだ。

経済の行く末に対する国民の深刻な不安は、テキサス州の富豪H・ロス・ペローが、注目すべき無所属候補として登場する誘因ともなった。ペローは、連邦財政赤字を中心とする経済問題に対処できない政府の無力さに対する国民の強い不満を、うまく利用した。彼は派手な性格の上、簡潔で当意即妙な政治的コメントを発する才能を持っていた。彼は1912年のセオドア・ルーズベルト以来、最も成功した第3党候補となった。

ブッシュの再選活動は、伝統的に現職者が使ってきた経験と信用という2つの要素を中心としていた。第2次世界大戦の従軍経験を持つ最後の大統領である68歳のジョージ・ブッシュは、軍隊経験が全くなく、ベトナム反戦運動に参加した46歳の若い挑戦者ビル・クリントンと争うことになった。大統領として、また最高司令官としての経験を強調することで、ブッシュは全国レベルでのクリントンの経験不足に注意を促した。

ビル・クリントンは、これも伝統的かつ強力な要素である若さと変化を中心に据えて選挙運動を展開した。クリントンは高校時代に、ケネディ大統領に会ったことがあった。その30年後、彼のレトリックの多くに、1960年の大統領選におけるケネディの選挙運動のレトリックが意識的に反映されていた。

クリントンは、世論調査でブッシュ大統領の主な弱点とされた経済成長、教育、医療問題について、アーカンソー州知事として12年間全力で取り組んできた経験を示すことができた。ブッシュが減税と政府の支出削減に基づいた経済計画を打ち出す一方で、クリントンは、富裕層への増税、および教育・運輸・通信分野への投資増額を提案した。クリントンは、これによって米国の生産性と成長が拡大し、財政赤字が削減されると考えた。同様にクリントンの医療制度案は、ブッシュの提案に比較すると、連邦政府によるかなりの関与を要求するものであった。

彼の魅力と知性を特に際立たせたテレビという媒体を通じて、クリントンは、非常に効果的なコミュニケーターとしての才能を証明した。ブッシュの冷戦末期の取り組みの成功と、イラクのクウェート侵攻を阻止した功績は、かえって、国内の社会的・経済的ニーズが高まる中では外交問題の重要性が低下しているという、クリントンの暗黙の主張に力を貸すことになった。

11月3日の一般投票で、ビル・クリントンは、ブッシュ37%、ペロー19%に対し、43%の得票率で、第42代米国大統領に選ばれた。

新しい大統領

クリントンは多くの面で、リベラル派と中道派に分裂した民主党にとって最適なリーダーであった。彼は、民主党のさまざまな利益団体との関係を悪化させることなく、それらの要求を調整できる、実利的な中道派のイメージを確立しようとした。

クリントンは、大きな政府は善であると公言するイデオロギー的なレトリックを避け、数々のプログラムを提案して、「新しい民主党」と呼ばれた。連邦政府の官僚制度と裁判官の任命をコントロールすることによって、労働組合および公民権擁護団体の政治的要求に応じた。常に論争の的となる妊娠中絶問題については、クリントンは、ロー対ウェードの判決を支持したが、妊娠中絶は「安全、合法、かつまれ」であるべきである、と宣言した。

クリントン大統領が最も信頼した協力者は、夫人のヒラリー・ローダム・クリントンであった。選挙運動中、彼は、自分に投票すれば、「ひとつの値段で2つ手に入れることができる」と冗談を言った。夫人は、夫の私生活に関する非難が起きたときには、夫を擁護した。

夫に劣らず精力的な活動家であるクリントン夫人は、クリントン政権において、かつてのエレノア・ルーズベルトをもしのぐ、歴代大統領夫人には見られない傑出した役割を果たした。彼女の重要な初任務は、国民健康保険制度の計画を練り上げることであった。ヒラリー・クリントンは、夫の任期が終盤に近付いた2000年、ニューヨーク州上院議員に選出された。

新しい国内政策の開始

実際面では、クリントンの中道主義は、時に激しい感情的な反応を引き起こす選択を迫られた。大統領の最初の政治的主導は、民主党支持の重要な有権者であり、差別被害者集団であることを主張する、同性愛者の要求に応えることを意図して行われた。

クリントン大統領は就任後間もなく、同性愛者と判明した者を軍から除隊させるという、長年の軍政策を廃止する大統領行政命令を発行した。この命令はすぐに、軍部、大半の共和党員、また米社会の広い階層から激しい非難を浴びた。クリントンは迅速に、「聞くな・言うな」(don’t ask, don’t tell)命令によってこれを修正し、元の政策を事実上復活させたが、個人の性的な行動を積極的に調査することを抑止した。

国民健康保険制度導入への取り組みは、さらに大きな後退となった。クリントン政権は、ヒラリー・クリントンが委員長を務める大規模な専門調査委員会を設置した。政策専門の著名な知識人と政治活動家から成る委員会は、米国民全員を対象にした医療保険制度の導入を目指し、数カ月間にわたって、ひそかにその構想に取り組んだ。

この制度の背景にある仮説は、政府が運営する「単一支払者」制度は、現在の多くの保険会社とまとまりのない保険提供者から成る分散化した現行システムよりも、効率的に全国に医療を普及させることができる、というものであった。1993年9月、ようやく議会に答申されたこの計画は、こうした課題の複雑さを反映していた。大多数の共和党員と民主党員の一部は、この計画は、連邦政府による、救いがたいほど手の込んだ米国医療制度の乗っ取り計画である、と批判した。1年間討議が続けられたが、議会投票には至らず、廃案となった。

クリントンは、国内経済に影響を及ぼした他の課題では、成功を収めることができた。前任者のジョージ・ブッシュは、カナダ、米国、メキシコ間の、完全に開かれた通商の確立を目指して、北米自由貿易協定(NAFTA)の交渉に取り組んでいた。民主党の主な支援団体は、この協定に反対した。労働組合は、NAFTAが雇用の国外流出を奨励し、米国の労働基準が損なわれると考えた。環境保護派は、米国の産業が公害規制の弱い諸国へ移転することになる、と強く主張した。このような意見は、統合された世界経済システムのビジョンに反対する、米国の政治的左翼の動きの高まりを表す、最初の兆候であった。

それにもかかわらずクリントン大統領は、開かれた貿易は、より効率的に生産された製品・サービスの流れを大幅に拡大し、究極的には当事者全員に恩恵をもたらすという主張を受け入れた。クリントン政権は、NAFTAを上院に提出しただけでなく、世界貿易機構(WTO)の体制下で大きく自由化された通商制度の制定を支援した。激しい討議の結果、議会は1993年にNAFTAを承認した。1年後には、WTO加盟が承認された。

クリントンは、選挙運動中に「中産階級の減税」について語ったが、全般的な増税を求める予算を議会に提出した。当初、省エネの奨励を意図した、エネルギー消費に対する幅広い課税が含まれていたが、これはすぐに連邦ガソリン税のわずかな増税に切り替えられた。中間所得層以上の社会保障受給者に対する、給付金への課税も実施された。しかし、高額所得者に対する所得税増税が最も強調された。この後に続いた議論は、レーガン政権時代の特徴であった、減税支持者と「財政責任」支持者の間の議論を再現するものとなった。結局、この税制法案は1票差で下院を通過し、クリントンは僅差で政策を押し通すことができた。

このころには、1994年の議会選挙運動が進行中であった。クリントン政権はすでに、外交政策で数々の判断を下していたが、有権者にとって国内問題が最重要であることは明白であった。共和党は、税制改革なしで大盤振る舞いをする浪費者であるとして、クリントンと民主党を非難した。クリントン自身、アーカンソー州時代の不動産プロジェクトに関連する財政上の不正容疑と、新たな性的スキャンダルにより、すでに苦境に立たされていた。11月には、1952年の選挙以来初めて、有権者が共和党に上下両院の支配権を与えた。主な観測筋は、ビル・クリントンは1期のみの大統領で終わる可能性が高いと考えた。クリントンは、明らかに政治の新たな現実に歩調を合わせ、政治路線を中道に変えた。 残りの任期中に、政策上のイニシアティブはほとんど見られなかった。1993年に実施された増税は、共和党の予想とは裏腹に、好調な景気回復の支障にはならなかった。

一方、下院の新しい共和党指導者たちは、政策目標を達成するために強硬な姿勢を示した。これは、クリントン政権の新たな中道派路線とは全く対照的であった。1995年4月に、右翼の過激派が、オクラホマシティーの連邦ビルを爆破した際、クリントンは、穏健と癒しを強調した。クリントンの対応は、彼に対する評価を高める一方、彼に反対する保守派に対する疑念を生じさせることになった。同年末、大統領は共和党の予算案に拒否権を行使し、政府機関は数週間にわたって機能が停止した。国民の大半は、これを共和党の責任と考えたようであった。

大統領はまた、共和党のプログラムの一部も取り入れた。1996年1月の一般教書演説で、「大きな政府の時代」は終わったと派手に宣言し、その夏の大統領選開始直前には、基本的に共和党が作成した大幅な福祉改革案に署名をした。これは、大多数の福祉受給者への永続的な援助を停止し、職場復帰を奨励するものであったが、民主党から多くの反対を受けた。しかし、この福祉改革は、その後10年間に、総じて成果を上げることになる。

1990年代の米国経済

1990年代半ばには、米国は、ブッシュ政権時代の短期的ではあったが急激な景気後退から回復しただけでなく、伝統的な産業基盤の衰退にもかかわらず、経済繁栄の時代に突入していた。この新しい経済成長を裏で支える主な力となったのは、パソコンの発展であったと思われる。

パソコンは、登場してから20年も経たないうちに、オフィスだけでなく、全米の家庭でもよく使われるようになった。20年前には誰も想像できなかったほど高性能になり、大量のデータを保管できる上、高級な冷蔵庫の価格程度で入手できるパソコンは、米国の一般家庭に普及した家電となった。

人々は、パッケージ化されたソフトウェアを利用して、経理、ワープロ、音楽・写真・ビデオの保管などにパソコンを使った。軍事データネットワークから発展したインターネットの台頭により、多種多様な情報へのアクセスが提供され、新しい買い物の機会が生まれ、一般的な通信手段として電子メールが確立された。携帯電話の人気は、パソコンと相互に影響を与え合う巨大な新産業を生み出した。

即時の情報伝達と電光石火のデータ操作により、多くのビジネスのペースが速まり、生産性が向上し、新たな収益機会が創出された。新しい設備の需要によって利益を得た新興事業が、ほぼ一夜にして数十億ドル規模の企業となり、ソフトウェア技術者、マネージャー、広報担当者などが、巨大な新中産階級となった。

最終的な推進力となったのは、新たな千年紀の到来であった。西暦2000年を認識できない可能性がある旧式のコンピューター機器の買い替えという大きな要因により、データ技術に関連する出費がピークに達した。

このような進展は、第1期クリントン政権時代に形となって現れ始め、第2期終了時までには、急成長を遂げつつある経済に刺激を与えていた。クリントンの大統領選出当時には7.4%であった失業率は、1996年の再選時には5.4%となり、2000年に次期大統領の選挙が行われた時点では3.9%であった。失業者対策より、雇用可能な労働者を見つけることの方が大きな問題となっていた。

ほかならぬアラン・グリーンスパン連邦準備制度理事会議長が、急騰する株式市場を懸念し、「根拠なき熱狂」に対する警告を発した。従来の株式評価基準は、無限の可能性を持つ「ニュー・エコノミー」により時代遅れとなったという信念の下に、1920年代以来最高潮に達した投資の活況が続いた。好景気は危険な速度で進行していたが、ほとんどの米国民は、やがて到来する不況に備えるより、現状を楽しもうとする傾向が強かった。

1996年の大統領選挙と政治的な影響

クリントン大統領は、最も有利な状況で1996年の再選運動を開始した。彼は、ルーズベルトのような貫禄はないが、生まれながらの運動家であり、多くの人が彼の魅力に惹きつけられた。クリントンの下で景気回復が拡大した。また彼は、政治的には中道左派と見なされるような立場を取った。共和党指名の対立候補となったカンザス州選出のボブ・ドール上院議員は、上院の共和党指導者で、有力な議員であったが、大統領候補としてはあまり奮わなかった。

クリントンは「21世紀への架け橋」という公約の下に、3者戦で、ドールに49.2%対40.7%で圧勝した。ロス・ペローが8.4%を獲得した。クリントンは、全投票数の過半数以下で、2期連続当選を果たした2人目の大統領となった。(1人目は1912年と1916年に当選したウッドロー・ウィルソンであった。)しかし共和党は、引き続き上下両院で多数党となった。

クリントンは、2期目の国内向けプログラムについて多くを提示しなかった。1年目のハイライトは、財政赤字の解消を意図した議会との合意であり、これによって財政責任を重視する中道左派という立場がさらに強調された。

1998年に、クリントンがホワイトハウス内で若いインターンと関係を持ったことが発覚し、米国の政治は混乱の時期に入った。当初大統領は、国民に向かって、「あの女性と性的な関係は持たなかった」と関係を否定した。大統領は過去にも同様の嫌疑をかけられたことがあった。アーカンソー州時代の知人女性によるセクハラ訴訟において、クリントンは宣誓下で、ホワイトハウスでの関係を否定した。これは、米国民の大半にとっては、偽証罪の定義に当てはまる行為であった。1998年10月、下院は偽証罪および司法妨害の容疑に関する弾劾公聴会を開始した。

このようなアプローチのメリットがいかなるものであっても、国民の大半は、この問題はプライベートな問題であり、本人と家族が解決すべきことであると考えた。これは世論の大きな転換だった。さらに、ヒラリー・クリントンが夫を擁護し続けたことも大きかった。また好景気もこれに加勢した。下院での弾劾討論の最中に、大統領は30年来最大の財政黒字を発表した。世論調査によるクリントンの支持率は、在職6年中で最高に達した。

同年11月、共和党は議会中間選挙でさらに議席を失い、多数党としての優位は紙一重となった。ニュート・ギングリッチ下院議長は辞任し、共和党は、それまでの強硬さを和らげたイメージ作りを試みた。しかし、下院は12月に、1868年のアンドリュー・ジョンソン以来初の、現職大統領の弾劾決議を可決し、それによって弾劾裁判は上院へ引き渡された。

米最高裁長官を裁判長とするクリントンの弾劾裁判には、ハラハラするようなことはほとんどいなかった。その渦中で、大統領は議会における一般教書演説を行っている。彼は1度も証言をせず、複数の容疑のいずれに対しても、解任に必要な3分の2の票が得られると予測する者はいなかった。結局、どの容疑についても過半数さえ獲得できなかった。1999年2月12日、クリントンはすべての容疑について無罪となった。

クリントン時代の米国の外交関係

ビル・クリントンは、外交重視の大統領となるつもりはなかった。しかし、前任者と同様、あらゆる国際危機がワシントンを経由する道をたどることを、すぐに認識した。

クリントンは、1991年の湾岸戦争の後始末をしなければならなかった。サダム・フセインを退陣させることができなかった米国は、英国の支援を受けてフセインを封じ込めようとした。国連が、人道上の必要性に対応するだけの石油販売をイラクに許可する経済制裁措置を実行したが、あまり効果を発揮することができなかった。フセインは、その収益のほとんどを独り占めし、大勢の国民が貧困に苦しんだ。イラク政府が、反体制派の居住する北部のクルド人地区および南部のシーア派地区に対する空爆を行わないようにするために軍事飛行禁止区域が設けられたが、そこでは米軍と英軍が常に、対空ミサイルをかわしながら、監視飛行を行わなければならなかった。

また米国は、国連武器査察チームの主な支援国となった。査察チームの任務は、イラクの化学・生物・核兵器計画を明るみに出し、既存の大量破壊兵器の解体を検証し、そうした兵器製造の進行を抑止することだった。しかし、国連査察官に対する妨害が増し、ついに1998年には査察官らが国外に追放された。これに対して、またそれまでのいくつかの挑発行為に対して、米国は限定されたミサイル攻撃を行った。マデリーン・オルブライト国務長官は、サダム・フセインはまだ「主導権を握っている」と述べた。

米政権は、終わりの見えないイスラエル対パレスチナの紛争に取り組まざるを得なかったが、クリントン大統領もブッシュ元大統領も、1993年のオスロ協定にはほとんど関わらなかった。この協定で、パレスチナに西岸地区とガザ地区のパレスチナ人を統治する「権限」が与えられ、パレスチナはイスラエルの存在権を認めた。

しかし、原則的にはそれまでの多くの中東協定と同様に、オスロ協定も細部の話し合いに至ると決裂した。パレスチナの指導者ヤセル・アラファトは、2000年および2001年1月に、平和志向のイスラエルの指導者エフード・バラクの最終提案を拒否した。自爆テロを特徴とする全面的なパレスチナの暴動が起き、バラクは失脚して、はるかに強硬派のアリエル・シャロンが首相に就任した。米国によるイスラエル支持は、この地域における他の課題への対処において大きな問題となる、という意見もあったが、米国の外交官は、暴力の抑制を願う以外になすすべがなかった。2004年後半にアラファトが死去し、新たなパレスチナ指導層は和平合意を受け入れる姿勢を示したため、米国の政策策定者は和解推進の努力を再開した。

クリントン大統領は、北アイルランドの「紛争」にも深く関与するようになった。暴力的なアイルランド共和国軍は、主として英領各州をアイルランド共和国に統合することを望むカトリック系アイルランド人に支持された。一方、同様に暴力的な民兵組織を持つ統一派は、主にプロテスタントのスコッツ・アイリッシュから成り、英国にとどまることを望んだ。

クリントンは、過去のどの米政権よりも、アイルランド分離独立派に深い理解示したが、一方で、英国のジョン・メジャーおよびトニー・ブレアの両政権とも密接に協力した。その成果として、1998年の聖金曜日協定により、政治的なプロセスが確立されたが、多くの細部が解決すべき課題として残された。その後数年間、北アイルランドでは中東に比べて平和と秩序が保たれたが、依然として情勢は不安定であった。交渉担当者らは最終的な協定を達成することができなかった。

ユーゴスラビアは、セルビア人、クロアチア人、スロベニア人、ボスニア人イスラム教徒、およびアルバニア系コソボ人の間で民族的・宗教的に分かれていた一つの国家だったが、冷戦後崩壊の一途をたどり、ヨーロッパ諸国が秩序回復に失敗した後、この問題にも米国が関与することになった。ブッシュ政権は、当初の紛争に関与することを拒否したが、クリントン政権は、ヨーロッパの同盟諸国に促され、ようやく関与に同意した。米国は1995年に、ボスニアにおける形式的な平和を確立するために、オハイオ州デイトンで協定の交渉を行った。1999年、セルビア人によるコソボ人虐殺が発生し、米国が主導するNATOのセルビア空爆が3カ月間にわたって行われ、これによって和解が実現した。

1994年に、米政権は、ハイチで、追放されていたジャン・ベルトラン・アリスティード大統領を復権させた。アリスティードは、その後9年間ハイチを統治した後、再び追放された。米国が介入したのは、アリスティードが慎重に米国内に支持を育んできたため、また米国民がハイチからの不法移民の大量流入を恐れたためであった。

総合的には、クリントン政権は主に国内に目を向けており、避けられない場合、あるいは他の諸国から強要された場合にのみ国際問題に取り組んだ。

テロの暗示

ジョージ・H・W・ブッシュ大統領は、政権の終了間近に、東アフリカのソマリアの混乱の中へ米軍を派遣した。その使命は、国連軍の先頭に立ち、飢餓に苦しむ国民への定期的な食糧輸送を可能にすることであった。

ソマリアも、クリントン政権が引き継いだ課題のひとつとなった。ソマリアに代議政治を確立しようとする努力は、「建国」の事業へと拡大していった。1993年10月、抵抗する武装勢力の将軍を逮捕するために派遣された米軍は、予想外の強力な抵抗に遭って、攻撃用ヘリコプター1機を失い、米軍兵士18人が死亡した。将軍は結局逮捕されることがなかった。その後数カ月の間に、米軍戦闘部隊はすべて撤退した。

米政権の見地からは、このような周辺的かつ軽率な関与に終止符を打ち、他の優先事項に注意を向けることは、十分に賢明な判断であった。しかし、その後明らかになったところでは、このソマリア武装勢力の将軍は、正体不明の新興組織の支援を受けていた。これが、後に「アルカイダ」として知られるようになる組織であり、そのリーダーは、ウサマ・ビンラディンというイスラム原理主義者であった。西洋文明の狂信的な敵であったビンラディンは、米国は攻撃されても戦わないという考えを固めた、と言われている。

そのころには、米国はすでにイスラム過激派による攻撃を体験していた。1993年2月、ニューヨークのマンハッタン南端部にある世界貿易センターのツイン・タワーの地下駐車場で、巨大な自動車爆弾が爆発した。この事件で7人が死亡し、1000人近くが負傷したが、何万人もが働く高層ビル自体は無事であった。ニューヨーク州および連邦政府当局は、これを犯罪として扱い、爆破を計画した者4人を逮捕し、この4人は終身刑を言い渡された。その後、道路トンネル、公共の建物、さらには国連本部に対する爆破計画が明るみに出され、いずれも同様に対処された。

それにもかかわらず、外国からのテロ攻撃の可能性は、国内テロによって影が薄くなった。中でも最大の国内テロは、オクラホマシティーで発生した爆破事件であった。極右過激派のティモシー・マクベイとテリー・ニコルズによる爆破テロは、死者166人と何百人もの負傷者を出した。これは1993年の世界貿易センター爆破テロをはるかに超える被害であった。しかし、1996年6月25日、サウジアラビアの米軍宿舎コバル・タワーズで巨大な爆弾が爆発し、19人が死亡、515人が負傷した。連邦大陪審は、サウジアラビア人13人とレバノン人男性1人を起訴したが、サウジアラビアは身柄引き渡しを一切拒否した。

2年後の1998年8月7日、ケニアとタンザニアの米国大使館で強力な爆弾が同時に爆発し、301人が死亡、5000人以上が負傷した。その報復としてクリントン大統領は、ビンラディンが運営するアフガニスタンのテロリスト訓練基地に対するミサイル攻撃を命じたが、基地はすでに放棄されていたようだ。またクリントンは、以前ビンラディンに避難所を与えた国であるスーダンの、化学兵器工場の疑いのある建物に対するミサイル攻撃を命じた。

2000年10月12日、イエメンを儀礼訪問していた米国海軍の駆逐艦コールにモーターボートが突っ込む自爆テロ事件が発生した。乗組員の勇敢な行動によって沈没は免れたが、17人の水兵が死亡した。サウジアラビア、アフリカ、およびイエメンにおけるテロ攻撃の背後にビンラディンがいたことはかなり明白であったが、米政権がアフガニスタンへ侵攻してビンラディンの捜索を行わない限り、彼を捕えることは不可能であった。

クリントン政権には、そのような措置を取る意志は全くなかった。ビンラディン暗殺の可能性に関しても、その過程で他にも死者が出ることを恐れた。テロ攻撃は遠い外国での事件であり、頻度も低かった。超大国としての米国の地位に伴う、不快ではあるが避けられない犠牲として、そうしたテロ攻撃を容認することはたやすかった。ビンラディンが非常にやっかいな存在ではあることには変わりはなかったが、末期を迎えた政権にとっては優先事項ではなかった。

2000年大統領選挙と、テロとの戦い

2000年の大統領選挙で、民主党はアル・ゴア副大統領を大統領候補に指名した。対立候補として、共和党は、テキサス州知事でジョージ・H・W・ブッシュ元大統領の息子であるジョージ・W・ブッシュを選んだ。

ゴアは、環境破壊を深く憂慮し、また米国社会の非特権階級に対する援助の強化を求める、熱心なリベラル派の姿勢を打ち出した。彼は、自らを、クリントン大統領より多少左寄りに位置付けているようであった。

ブッシュは、父ブッシュよりロナルド・レーガンの伝統に近い姿勢を確立した。彼は、特に教育に関心を示し、自らを「思いやりのある保守派」と呼んだ。特に注目されたのは、彼が、無為に青春を過ごした自分の人生を変えたものとして、福音主義キリスト教を推進したことであった。こうした伝統的な文化的価値観を強調する姿勢は、ゴアの技術官僚的な近代主義とは全く対照的なものであった。企業の改革を求めるベテラン活動家ラルフ・ネーダーは、ゴアより、はるかに左寄りの候補として、緑の党から立候補した。 共和党の保守派パトリック・ブキャナンは、無所属で立候補した。

最終的な投票結果は、全国的にほぼ二分されていた。選挙人投票数も同様であった。フロリダ州が、勝敗を分けるカギとなった。得票差が紙一重であった同州では、何千もの票に異議が唱えられた。再集計に関する法律や手続きをめぐって州および連邦裁判所で何度も訴訟が起こされだが、最終的には米国最高裁判所による僅差の判決で、ブッシュの勝利が事実上確定した。連邦議会でも、両院で共和党がわずかの差で多数党の地位を維持した。

選挙の最終結果が、その激しい争いを物語っている。選挙人投票でブッシュは271票を獲得し、ゴア(266票)を破ったが、国民の一般投票では、ゴアが48.4%、ブッシュが47.9%で、ゴアの方が、得票率が高かった。ネーダーの得票率は2.7%、ブキャナンは0.4%であった。マスコミが使った選挙地図では、ゴアが獲得した州は青色で表され、米国北東部と西海岸、および中西部の工業地域に集中していた。ブッシュが獲得した州は赤く塗られ、米国南部、上記以外の中西部、および山岳部諸州にわたっていた。評論家はこぞって、「赤い」米国と「青い」米国の間に横たわる深い亀裂を強調した。これは、経済的な要因より、文化的・社会的要因の違いに基づく亀裂であり、従って、より感情的な亀裂でもあった。ジョージ・ブッシュは、こうした極めて党派的な、敵意に満ちた対立の中で大統領に就任した。

ブッシュは、大統領として、主に国内政策に取り組むつもりであった。彼は、教育改革を目指した。選挙運動では、社会保障制度の総点検を提案した。そして、レーガン大統領にならって減税を実施することを望んだ。

ブッシュ大統領は間もなく、1990年代末の好景気から後退を始めていた米国経済に対処しなければならないことに気づいた。こうした状況は、2001年5月に、減税法案の可決を確実にする一因となった。同年末には、「No Child Left Behind(落ちこぼれゼロ)」法も可決させた。これは、公立学校が毎年読解と数学の能力テストを行うことを義務付け、テスト結果が一定の基準に達しなかった教育機関には罰則を適用する法律である。社会保障信託基金に見込まれる赤字の問題への取り組みは行われなかった。

2001年9月11日、米国は、本土に対する外国からの攻撃としては米国史上最も被害の大きい攻撃を受け、ブッシュ政権時代は大きく変わった。その日の朝、中東のテロリストたちが、米国の旅客機4機を同時にハイジャックし、そのうち2機を世界貿易センターのツイン・タワー2棟に激突させて自爆した。ツイン・タワーは2棟とも崩壊した。3機目は、ワシントンDC郊外の国防総省本部に突入した。4機目は、米国国会議事堂を標的としていたと見られているが、乗客らがハイジャック犯に抵抗したため、途中でペンシルベニア州の農村部に墜落した。

この同時多発テロによる死者数は、その大半が世界貿易センターにおける民間人であり、合計およそ3000人に達した。これは、1941年の日本軍の真珠湾攻撃による死者数を上回る人数であった。経済的な損失も極めて大きかった。世界貿易センターの崩壊により、周辺ビル数棟も崩落し、金融市場は数日間にわたって閉鎖された。その結果、すでに進行していた景気後退がさらに長引いた。

米国が9・11テロから回復を始めようとしていたとき、何者かが、少量の炭疽菌の入った手紙を、連邦議会議員、政府幹部、そして無名の個人に送りつけた。著名人が感染することはなかったが、5人の死者が出たほか、重病になった被害者が数人いた。この炭疽菌郵送事件は、全国的なパニックを引き起こしたが、始まったときと同様、ある日突然終わり、以来謎のままとなっている。

こうした状況を背景に、ブッシュ政権は2001年10月26日、米国愛国者法を可決させた。これは、国内テロと戦うことを目的とする法律で、連邦政府による捜索、押収、および拘留の権限を大幅に拡大するものであった。反対派は、この法律は、憲法で保護された個人の権利に対する重大な侵害である、と主張した。これに対して、支持派は、戦時の国家は自らを守らなければならない、と反論した。

また、当初ためらいがあったものの、ブッシュ政権は、巨大な国土安全保障省の設置を支持した。2002年11月に承認された同省は、22の連邦政府機関を統合した新たな機関で、その任務は、国内テロ攻撃との戦いを調整することであった。

海外では、ブッシュ政権は、9月11日同時テロの犯人たちに対して、迅速な報復を行った。同政権は、テロ攻撃がアルカイダによるものであったと判断し、ウサマ・ビンラディンと、アフガニスタンのイスラム教徒タリバン政権に対する軍事攻撃を開始した。米国は、ロシア連邦から消極的な協力を取りつけ、アフガニスタンと国境を接する旧ソ連の各共和国との関係を築き、何よりも、長らく無視されていたパキスタンとの同盟を復活させて、パキスタンの政治的支援と、空軍基地の利用許可を得た。

米政権は、米陸軍特殊部隊と中央情報局(CIA)の純軍事的部隊を利用し、長年顧みられなかったアフガニスタンの反乱分子と手を組んだ。連合軍は、効果的な航空支援を得て、2カ月でアフガニスタン政府を倒した。ビンラディン、タリバン指導者、およびその戦闘員の多くは、パキスタン北東部の人里離れた半自治区に逃亡したと考えられている。彼らはそこで体勢を立て直し、不安定なアフガニスタン新政府に対する攻撃を試みることになる。

一方でブッシュ政権は、このほかにも敵のテロ発生源を特定した。ブッシュ大統領は、2002 年の一般教書演説で、イラク、イラン、および北朝鮮を、米国を脅かす「悪の枢軸」として名指した。ブッシュ大統領とその顧問の考えでは、この3カ国のうちイラクが最も差し迫った問題になると思われた。サダム・フセインは、国連兵器査察官を国外に追放していた。イラクに対する経済制裁措置は崩れ始めており、またフセイン政権は、9・11同時テロに関与したとは考えられていなかったが、アルカイダと接触したことがあった。米国だけでなく世界中で、イラクは化学・生物兵器を大量に備蓄しており、核戦力の構築を目指している、と広く信じられていた。そうでなければ、査察チームを追放し、長期にわたる制裁措置に耐え続ける理由がなかったからである。

2002年を通じて、ブッシュ政権は、全面的かつ自由なアクセスを伴う兵器査察の再開を要求する国連決議を求めた。2002年10月、ブッシュ大統領は、連邦議会から、軍事力使用の承認を得た。採決結果は、下院が296票対133票、上院が77票対23票であった。米軍は、クウェートに兵士と物資を集結し始めた。

2002年11月、国連安全保障理事会は、イラクが国連査察官に、禁止された武器の捜索をイラク国内各地で行う無条件の権利を与えることを要求する安保理決議1441を、満場一致で採択した。その5日後、イラクは要求に従うことを発表した。しかし、新しい査察チームは、イラクの対応が不誠実であるとの苦情を述べた。2003年1月、ハンス・ブリクス査察委員長は、イラクがその大量破壊兵器を明らかにしなかったという報告を国連に提出した。しかし委員長は、撤退する前にさらに努力を重ねることを推奨した。

フセインが武器査察に対して非協力的であったにもかかわらず、ヨーロッパのほとんどの諸国は、フセインを権力の座から排除しようとする米国の計画に強く反対した。フランス、ロシア、およびドイツがいずれも軍事力の行使に反対したため、イラクに対する軍事力の行使を承認する新たな安保理決議の採決が不可能となった。政府が米国を支持した諸国においても、国民の間では、米国との協力に対する強い反対があった。その後始まった戦争では、英国が、米国の主な同盟国となった。オーストラリア、および新たに独立した東ヨーロッパ諸国のほとんどが援助を提供した。イタリアおよびスペインの各政府も米国を支援した。長年にわたり米国の信頼できる同盟国であったトルコは、支援を拒否した。

2003年3月19日、米英軍は、他の数カ国の小規模な部隊の支援を受けて、南からイラクへの侵攻を開始した。少人数のグループが、クルド人民兵と協力して、空からイラク北部へ入った。いずれの前線においても、時に激しい抵抗があったが、徐々に収まった。4月9日にバグダッドが陥落した。4月14日には、国防総省が、軍事作戦の終了を発表した。

イラクを占領することは、イラクの行政を実施することより、はるかに容易であった。主な戦闘が終了した直後は、国内で広範囲にわたる略奪が行われた。続いて、連合軍兵士が奇襲されるようになり、サダム・フセインの逮捕および彼の息子2人と後継者たちの死にもかかわらず、そうした奇襲攻撃がますます組織的に行われるようになった。イラク国内の派閥同士が、今にも戦争を始めそうな状況であった。

新たな兵器査察チームは、予想に反して、化学・生物兵器の備蓄を見つけることができなかった。サダム・フセインがなぜか大きな虚勢を張っていたか、あるいは兵器がすでに外国へ移されていたか、どちらかではないかと考えられるようになってきたが、いずれにしてもその理由は不可解であった。

バグダッド陥落後、米国と英国は、増加する国連からの支援を受けて、イラクの統治権を持つ暫定政府の確立を進めた。その間にもイラクでは暴力行為が広がり、その攻撃対象は、連合軍兵士だけでなく、何らかの形で新政府とつながりのあるイラク人にも広がっていた。反乱分子の大半は、フセイン忠誠派であると思われ、イスラエル教徒の地元宗派のメンバーもいた。また外国人兵士もかなりの数に上った。こうした混乱の中で自由民主主義国家を確立することが可能かどうかは明らかでなかったが、イラク国民が望まない限り、米国がそれを強要できないことは確かであった。

2004年大統領選挙

2004年半ばまでには、米国はイラクで反乱分子の激しい暴力に直面し、外国からはイラク戦争に対する大きな反対に遭い、米国内では4年前と同様の激しい対立が見られた。2004年の大統領選挙でブッシュ大統領に挑戦するため、民主党はマサチューセッツ州選出の上院議員ジョン・F・ケリーを大統領候補に指名した。ケリーは、ベトナム戦争で勲章を与えられた退役軍人であり、ワシントンでの議員経験も長く、威厳ある態度と演説家としての才能も備え、民主党を統一させる理想的な候補であると思われた。ケリーの選挙運動は当初、戦争をめぐる民主党内の対立を避けるために、ベトナム戦争で戦闘体験があり、ブッシュよりイラク戦争を管理する能力もあるとされるケリー個人の実績を強調する戦略を採用した。しかし共和党は、ケリーが当初イラク侵攻の権限を大統領に与える法案に賛成の票を投じ、後にイラク戦争のための重要な予算法案には反対票を投じたという、明らかに矛盾する行動を指摘した。さらに、ベトナム退役軍人のグループが、ケリーの軍隊時代の実績に疑問を呈し、その後の反戦活動を非難した。

これに対してブッシュは、率直で、言動一致の、国を守るために必要なあらゆる措置を取る行動力のある人物、というイメージを前面に押し出した。彼は、減税と教育改革の実績を強調し、伝統的な価値観と道徳観を支持する人々に強くアピールした。3回の討論のうち初回実施後に行われた世論調査では、ケリーの支持率が上昇したが、挑戦者が現職大統領の支持基盤を侵食することはできなかった。2000年と同様、今回もブッシュは、週に1回以上礼拝に出席する米国民の間で非常に支持率が高く、福音主義キリスト教徒の間での支持率は2000年より高かった。

選挙運動は、そのレトリックにおいても組織活動においても熱狂的であった。両候補共に有権者の動員に成功し、一般投票数は2000年に比べ約20%増加した。ブッシュが得票率51%で当選し、ケリーの得票率は48%、残り1%はラルフ・ネーダーおよびその他の無所属候補が占めた。ケリーは、イラク戦争終結のための満足できる戦略を持っていると、過半数の有権者を納得させることができなかったと思われる。連邦議会でも、共和党が、規模は小さいが重要な勝利をいくつか収めた。

2期目に入ったジョージ・W・ブッシュ大統領は、イラクの状況、イラク問題などによる大西洋同盟内の緊張、予算赤字の増加、社会保障給付制度の費用の増大、および不安定な通貨など、数々の問題に直面した。有権者の間には引き続き大きな対立があった。米国は過去に、そうした危機を成長の機会としてきた実績がある。今回もそうした結果となるかどうかは、まだ不明である。

あとがき

大西洋岸に沿ったいくつかの名もない植民地から始まり、米国は目覚ましい変化を遂げて、政治評論家ベン・ワッテンバーグの言う「初めての全世界的な国家」、すなわち、地球上のほぼすべての国籍および民族グループを代表する3億人近い人々から成る国家となった。また米国は、経済、技術、文化、人口統計、および社会における変化のペースと規模が絶え間なく増している国でもある。米国は、近代化と変化の先駆者となることが多く、相互に依存し相互に関連し合う度合いがますます高くなっている世界では、そうした近代化と変化は必ず他の国家や社会に広がっていく。

しかし一方で、米国は、建国時にまでさかのぼる価値観を維持し、連続性を保っている。それは、個人の自由と民主的な政府を信じ、すべての人々のための経済機会と前進を約束する価値観である。米国と世界が21世紀を前進していく中で、米国の波乱に満ちた豊かな歴史の遺産である自由と民主主義と機会を尊ぶ価値観を確実に守っていくことは、今後も続く米国の使命である。






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