
- 米国の歴史の概要 -
米国にとって20世紀は大きな騒乱と変化の時代であった。米国は20世紀に、米国史上最悪の経済恐慌に苦しみ、第2次世界大戦では連合諸国と共に勝利を収め、20世紀後半の冷戦では世界のリーダーの役割を果たし、国内では社会的・経済的・政治的に目覚ましい変化を遂げた。かつて米国は1世紀ごとに徐々に変身していったが、今やほぼ数十年ごとに変革を遂げているようだ。
![]() 1933年3月、大恐慌のさなかに、不安に駆られてニューヨークの銀行の外に列をなす預金者たち。このとき、フランクリン・D・ルーズベルト新大統領が、銀行預金の流出を止めるために全国の銀行を一時的に閉鎖したばかりであった。そして、再建が可能な銀行のみが、4日間の「銀行休日」の後に営業再開を許可された。(© New York Daily News) |
![]() 第2次世界大戦の太平洋戦線は、大規模な海戦と空中戦を特徴としていた。写真は、1944年6月、マリアナ諸島で米国の空母隊を攻撃中、炎を上げて墜落する日本軍機。米国陸軍および海兵隊による「島伝い」の進撃作戦は、1942年のガダルカナル島上陸に始まり、1945年4月の沖縄攻撃によって終わった。(The National Archives) |
![]() ダグラス・マッカーサー将軍(中央)は、1942年、日本軍の進攻を逃れるためにフィリピンを脱出する時、「私は必ず戻ってくる」と宣言した。2年後、彼はその言葉通り、フィリピンを解放する米軍と共にレイテ島の海岸に歩いて上陸した。(The National Archives) |
![]() 1948年大統領選で、共和党指名候補トーマス・デューイがハリー・トルーマンを破ったと誤報した新聞を掲げるトルーマン大統領。これは、米国政治史上おそらく最も有名な写真である。その日、トルーマンの逆転勝利は、政治の専門家たちを驚かせた。(© Bettmann/CORBIS) |
![]() 1954年に、連邦議会の公聴会で、1950年の米国における共産党の影響を表すとされる地図を指し示すジョセフ・マッカーシー上院議員。左側に座っているのは、この公聴会でマッカーシー議員の主な反対者となった弁護士のジョセフ・ウェルチ。ウェルチは、マッカーシーの主張が信ぴょう性に欠けることを示すことに成功した。当時、公聴会が初めて全米にテレビで放映されるようになっており、これらの公聴会も全国に放映された。 (© Bettmann/CORBIS) |
![]() 1956年9月9日、テレビの「エド・サリバン・ショー」に出演した、米国初のロックンロール・スター、エルビス・プレスリー。彼は、死後長い年月が経過した今も、「ザ・キング」として多くのファンに崇拝されている。 (© AP/WWP) |
![]() 1955年から56年にかけて行われた、アラバマ州モンゴメリーのアフリカ系米国人によるバス・ボイコット運動が成功を収めた後、市バスの前部座席に座るローザ・パークス。ボイコットは、アフリカ系米国人を強制的にバスの後部に座らせる人種隔離の慣行に抗議するために行われた。ボイコット開始の1年後に、米国最高裁判所は、この慣行が違憲であるとの判決を下した。モンゴメリーのバス・ボイコットによって、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアは、米国の公民権運動の偉大な指導者として全国的に知られるようになった。 (© Bettmann/CORBIS) | ![]() 1963年6月、西ベルリンで、25万人近いドイツ人を前に演説するジョン・F・ケネディ大統領。彼は、冷戦の発火点のひとつであるこの地域に住む人々の勇気を称え、「自由な人々は皆、どこに住んでいようとも、ベルリン市民である。従って私は、自由な人間として、誇りを持って言う。『Ich bin ein Berliner(私はベルリン市民である)。』(USIS Berlin) |
![]() すべての米国民の平等な権利を主張したサーグッド・マーシャルは、全米有色人種地位向上協会 (NAACP)の弁護士として、最高裁で「ブラウン対教育委員会」訴訟に勝利し、公立学校における人種隔離を違法とする判決を勝ち取った。マーシャルは後に、最高裁判事として輝かしい経歴を残した。(Ebony Magazine) |
![]() 1960年代の女性運動の指導者2人。当時論争を呼んだ「性の政治学」の著者ケート・ミレット(左)と、ジャーナリストで活動家のグロリア・スタイナム。(© AP/WWP) |
![]() 中国の万里の長城を歩くリチャード・M・ニクソン大統領とパット・ニクソン夫人。右端はウィリアム・ロジャーズ国務長官。ニクソンによる1972年の中国との国交回復は、米軍が徐々に南ベトナムから撤退する中で、外交における大きな勝利であった。 (© Bettmann/CORBIS) |
![]() 初の再使用型宇宙船スペースシャトルの発射。衛星を軌道に乗せたり、さまざまな実験を行っている多目的なスペースシャトルは、1998年6月に始まった国際宇宙ステーションの建設と稼動に不可欠な存在となっている。(National Aeronautics and Space Administration (NASA)) |
![]() ニューディール政策の中でもおそらく最も広範囲におよぶ立法である1935年社会保障法に署名するフランクリン・D・ルーズベルト大統領。今日、社会保障制度は、米国政府の各種制度の中でも有数の規模を持ち、大勢の米国民に年金や疾病手当を給付している。(© AP/WWP) |

第2次世界大戦中のP-38ライトニング戦闘機の組立工場。大量の軍需生産により、米国は、ルーズベルト大統領の言葉を借りれば「民主主義の兵器庫」となった。(Lockheed)

945年2月のヤルタ会談におけるウィンストン・チャーチル英国首相、ルーズベルト大統領、およびソ連の指導者ヨシフ・スターリン。ヤルタ会談では、ヨーロッパの将来をめぐって意見が対立したが、その対立は、冷戦構造として定着するその後のヨーロッパの分裂を予感させた。(U.S. Army)

1951年、朝鮮戦争で韓国に侵攻した北朝鮮軍を砲撃する米軍歩兵部隊。朝鮮戦争は3年間に及ぶ苦しい戦いとなった。(U.S. Army)

気さくで頼もしい性格で1950年代に人気を集めたドワイト・アイゼンハワー大統領。(Yousuf Karsh)

1948年の野球の試合でホームに滑り込むジャッキー・ロビンソン選手。彼は、ブルックリン・ドジャーズに入団して、プロ野球の黒人選手に対する差別の壁を破り、スター選手の一人となった。
(© AP/WWP)

1950年代の人気番組「アイ・ラブ・ルーシー」に主演したルシール・ボール(左から2人目)と共演者たち。左はボールの夫デジ・アーネズ。この番組で確立された技法や様式は、その後何百と作られる「シチュエーション・コメディ」と呼ばれるコメディ・ドラマで踏襲された。(Culver)

1966年にミシシッピ州グレナダで、白人専用だった公立学校に入学した子どもたちに付き添うマーティン・ルーサー・キング・ジュニア。1954年に最高裁の画期的な「ブラウン対教育委員会」判決で、学校の人種隔離が違法とされたにもかかわらず、全米で学校の人種隔離廃止を実行させるためには、何十年にもわたる抗議と政治的圧力とさらなる裁判所の判決を必要とした。(© AP/WWP)

1965年に南ベトナムで巡回中、狙撃者を探す米陸軍部隊。ベトナム戦争に従軍した米軍兵士数は、1965年の6万人から、1969年までには54万人以上となった。この戦争は、20世紀のどの戦争より米国内の世論を対立させた。1973年には、米国の最後の戦闘部隊がベトナムから撤退した。(U.S. Army)

1968年にブドウ畑で摘み取り作業者と話すメキシコ系米国人の労働運動家シーザー・チャベス(中央)。カリフォルニア州の全米農業労働者組合の議長として、チャベスは出稼ぎ農場労働者の声を代表し、彼らの悲惨な労働条件に全国的な注意を喚起した。(© Arthur Schatz/Time Life Pictures/Getty Images)

1978年にワシントンDCで行われたアメリカ先住民のデモの参加者。アメリカ先住民もこの数十年間に自らの権利とアイデンティティを主張するようになった。(Barbara Ann Richards)

1991年2月、湾岸戦争末期に、破壊されたイラク軍のタンクの後ろで、煙を上げて燃える油田。米国は、30カ国以上から成る連合軍を主導して、空と地上からの「砂漠の嵐」作戦を実行し、イラクによるクウェート占領を終了させた。
(John Wicart)

1989年7月、ワルシャワを訪れたジョージ・H・W・ブッシュ大統領夫妻とポーランドのレフ・ワレサ(中央)。1989年は、冷戦が終結するとともに、ヨーロッパで40年間にわたる敵対的な東西ブロックの分裂が終了した、画期的な年であった。(David Valdez/The White House)

993年1月21日、全国の国民に向けて就任演説を行うウィリアム(ビル)・J・クリントン大統領。クリントン政権時代の米国は、米国史上どの時期よりも平和で、経済的にも繁栄した。クリントンは、弾劾を受けた史上2人目の米国大統領となったが、無罪の判決を受けた。
(Dwight Somers)


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